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ひざ枕

 奥座敷の壁際に構えられたオルガンのペダルを手持無沙汰にさわっていると、おふくろがフスマを開けて入ってきた。
「いまから、おばあちゃんと親戚の法事へ行ってくるさかい、ヤッサンの世話に女の子が来てくれることになってるし、なんでも遠慮せんと頼みや」
そう言って、すぐに部屋から出ていった。

 しばらくして、ぼくよりも五つ六つ年上に見える女性がやって来た。
 すこしブカブカしたベージュのズボンに、黒のカッターシャツを着ていた。
 初対面だったけれど、あいさつをするわけでもなく、名乗るわけでもなく、畳に寝ころがったぼくのそばまで数秒で近づいて、なんのためらいも感じさせないまま、肩が触れるほどの距離に正座した。

 あまりに突然で、あまりに違和感のない動きに圧倒されて、彼女の顔立ちを確かめることもできないほどだった。

 彼女はずっと黙っていた。ぼくも同じだった。
オルガンとぼくの間に座っていたので、眼を合わさないように床の間の掛け軸を眺めていた。

 もちろん、胸のあたりの脈打つ感覚は経験したことのないものだったし、斜視だったから横顔はおよそイメージできた。
首筋が見えるほどのショートカットだった。
つやつやした黒髪だったので、ふと「ロングにすればいいのになぁ」などと考えてしまった。

 不意に彼女がぼくの頭を包みこむように持ちあげたかと思うと、両ひざの上に下ろした。
「ひざ枕」という言葉を連れて、ほどよい硬さの「圧」が後頭部をおおった。

 あっという間の出来事だった。
顔立ちを確かめることはできなかったし、「ひざ枕」になるとまっすぐ前を向いたままだったから、ぼくの想像は広がるばかりだった。

 「おかあさんからお金を預かってるから、お昼ごはんを買ってくるね。なにがいい?」
 無機質だけれど、ぎこちなさのない言葉だった。
適当に「キャベツ焼き」と応えると、彼女は手慣れた動作でぼくの頭をひざから下ろし、すぐに部屋から出ていった。

 ハッと気がつくと、朝のヘルパーさんがベッドのそばに座っていた。
「泊まりのヘルパーさんは?」と訊ねると、「イビキ」も「ぜん息の咳きこみ」もなく熟睡していたことを伝えて、帰って行ったとのことだった。
「いい夢を見てはったんですか」と聞かれて、どんな笑顔をすればいいか迷ってしまった。

 夢の中では十代後半だった。
 それにしても、いまのぼくがベラベラとしゃべるには「こそばゆい」展開だったし、あまりに何事も起こらなかった。
 とりあえず、「よう寝たから、なんか見た気はするけど、もう忘れたわ」と、話をおさめることにした。

 あれから一ヶ月ほど経った。
 若い胸騒ぎを思い出させる展開だったとはいえ、淡々とした話のわりに、いつまでも意識から薄れていかない。

 あの人は、どんな顔立ちをしていたのだろうか。

 断言できることが一つだけある。
 あの「ひざ枕」の感触は、二十年近く前に別れてしまった女性を思い起こさせるものだった。

 元気にしているだろうか。

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