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イチジクは獲って食べる

 校舎裏のフェンス沿いに、二本のイチジクの木があった。もう四十年以上も前のこととなると、学校全体の配置図は、まったく忘れてしまった。
 ただ、そこはほんとうに誰も行かない場所だった。

 ぼくとAは、みんなから「ナベブタコンビ」と呼ばれるほど、校舎から廊下づたいの寄宿舎へ帰ると、いつも一緒に時間を過ごした。
ぼくの車いすを足を引きずりながら、Aが押してくれた。
 ふたりは同い年だった。幼いころ、施設で過ごしたぼくは実際の学年よりも二歳年上だった。
 出逢ったとき、ぼくは中学一年生で、Aは中学三年生だった。

 Aには、なんと言ったこともないクセがあった。ちょっとインテリ風の銀ブチメガネが鼻までずれると、すこしだけ曲がった手の甲で「ひょいっ」と上げる。ついでに、鼻の下をひとさし指の背中でこする。ここまでがワンセットになっていた。

 思春期だった。その真っ只中だった。ふたりだけになると、いつも女の子の話に熱中していた。
 おたがいのクラスに気になる子がいて、情報交換したり、Aからのラブレターを渡してやったりもした。
 ぼくはといえば、行動を起こす前にバレてしまい、ある朝、その子が教室へやってきて「あんたなんかキライ」といって、言葉を返す間もなく出て行ってしまった。
 アレはショックだった。そういう関係の出来事で、はじめてのショックだった。

 そんな思春期真っ只中の放課後、ぼくとAはイチジクの独特な匂いにつられ、その方向へ進んで行った。
 フェンス沿いにならんだ二本には、それぞれに食べごろに熟れた実がふたつ、みっつ、平べったい葉の間から確かめられた。
 さっそく、洗うこともせずに食べてみた。
Aは片半身マヒだったけれど、器用に皮をむいて食べさせてくれた。
 予想以上の甘さだった。あのときだけは、女の子の話どころではなかった。
 帰りぎわ、まだ青い実の確認をして、三~四日後にまた来ることにした。イチジクを食べすぎると、おなかをこわすらしい。でも、ふたりとも平気だった。

 誰も知らないはずだった。なのに、ふたりが鼻息荒くあの場所へ行くと、小さな青い実が残っているだけで、食べごろになるはずだった五~六個はきれいになくなっていた。
 一瞬、ふたりともアッケにとられた。空を見上げると、カラスたちが鳴いていた。
カラスたちは、まるで「アホー、アホ―」と嗤っているようだった。
 ぼくたちのライバルに、およその見当がついた。
 こちらは放課後と休みの日しか行けなかったり、お天気が悪かったりで、二~三個しかありつけない夏もあった。
ということで、カラスたちとのイチジク争奪戦は、中学部の三年間で幕を閉じる。

ぼくは、同級生がみんなそのまま高等部へ上がると思い、新設予定の別の養護学校へ転校する。なんとなく気分転換したかっただけだった。

 青春は甘酸っぱいらしい。けれど、養護学校の六年間を通してまったくモテなかったぼくには、イチジクの甘さが強く残る。

 ずっと孤独な思春期を書いてきたけれど、人は多面的な生きものだと思う。
 自己否定をくり返しながら、ある面で屈託なく送る毎日もあって、重なり入り混じりあい、生きていたのだろう。

 あれからもずっと、ぼくはイチジクが大好きだ。八百屋の店先にならぶころになると、いつも立ちどまってしまう。
 それでも、買った記憶はない。
 ものすごく食べたいときに、手ごろな値段で、懐にもゆとりがあっても、どうしても「イチジクください」が言葉にならないのだ。
 ぼくの中では、イチジクは「カラスたちとの争奪戦」に勝ち誇り、青空の下で頬張るものなのだ。
 
 結局、あのイチジクの甘さに再開することはあるのだろうか。
 そういえば、今日のヘルパーさんは、イチジクの名産地から来ている。ぼくの目力は届くだろうか。
が、町はひろい。直接、生産などに関わりがなければ、名物を食べる人は以外に少ない。
 ぼくの故郷は、牡丹肉と松茸と栗の産地として知られている。
 どの食材も、幼いころのわが家の食卓にはあがらなかった。
 食べることと手に入れることは、まったく別の話だ。
でも、いくらゆる~い事業所といっても、介護のされる側と、する側の関係性が多面的だといっても、ここで「目力」を発射するのは、あまりにも世の中の常識から逸脱している。いつもの笑顔に戻ることにしよう。

 こうして、ぼくは人生の幕をおろしていくのだろう。
(最後のとてつもなく暗い一行の向こうにある明るさが届くだろうか)


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