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ザ・ハクション(空想の交差点)1

  センターライン(親愛なる友へ)
 
事務所から帰途についたのは、午前一時を過ぎたころだっただろうか。
 まだ責任者をやり遂げた彼は後片づけに追われていて、「そろそろ帰るわ」の一言が切りだせないまま、この時刻をむかえてしまったのだった。
 
 アキラの場合、車いすからベッドへの乗り移りと清拭(体を拭くこと)と着替えという眠りにつくまでの準備だけで二時間近く費やしてしまう。
 介護する側の翌日の体調やこまごまとした気持ちを考えると、言い出せない自分に対しての苛立ちが、意識の奥深くへ沈殿していくようだった。

 彼に声をかけると、半時間ほど前の重い空気からは考えられないサバサバとした童顔がふり返った。
 「お疲れさま、アキラさんも一年ほどはいろいろと気を使わはったでしょ、好きなおウマさんも堂々と行けますね」
 ぼくは場外馬券場で知りあったあの顔この顔が思い出され、全身に充満していた「だるさ」がゆるやかに安堵へと解かれていくようだった。
 歩くどころか、ひとりで立った記憶すらないアキラは「ジョギングする人の心地よさ」と通じあう移ろいではないかと、この「安堵」についての自己分析の端くれのような数十秒間を追いかけた。

 彼には、何かに想いをめぐらせるアキラの心の動きを察することはできたけれど、自宅待機をして「呼び出し」を待つ介護者への気遣いをしすぎてしまう性格を熟知していたので、その移ろいの中身については触れないことにした。
 ふたりのつき合いは長いし、憶えていればどこかで聴けばよかった。

 温厚さとせっかちさの同居するアキラは、ねぎらいの言葉にちょこんとおじぎをして、すぐにシャッターを半分降ろした出入口へ向かってコントローラーのレバーをたおした。
 電動車いすが動きはじめると、背中から声が聞こえた。
 「シャッターをくぐれますぅ?」
 「まかしといてぇ」
 アキラがふり返ると、彼は書類を束ねながらその動作の流れの中で、軽く手を挙げた。
 まったく異なった動きをひとつにくるむことができることが、とてもうらやましく思えた。

 瞬時に消えるほどの嫉妬を硬直した右の二の腕が圧迫している脇腹あたりに吸収して、シャッターへと近づいていった。
 わずかに上体をそらせた反動で前傾姿勢になり、両肩を上げて首をすくめると、何事もなくくぐれる確信が持てた。
 
 外へ出ると、幹線道路沿いは真夜中といっても明るい。
 もう一度、事務所の中に声をかけようとレバーに触れたとき、視野の隅に人影が見えた。
 いつの間にか、彼が傍らに立っていた。
 アキラはついさっきのねぎらいの言葉を思い出して、今度は先に口火を切ろうと力んで視線を向けると、ふいに「ふうわり」とした春の夜にふさわしい穏やかな感情が湧いてきた。心地よい疑問を携えて。
 「こいつは存在感を消してそばまでやってきて、こちらが気づくと曖昧でいて、厚みと奥行きを併せもったオーラをまとっている。なんてフシギなヤツだ」
 すぐに忘れてしまいそうな、それでいて、彼のイメージを増幅していきそうな、春の朧を思い起こさせる肌触りだった。

 彼が危険を案じたからではなく、見送ろうという気持ちだけで出てきてくれたことが素直にうれしかった。
 
 意識の小さな起伏を経て、力みはすっかり消えていた。
 「タツヤこそ、いろんな人に気ぃつこうたやろ。いいかげんでキリつけて帰りや。まぁ、きばっても叶わないことってあるしなぁ。ホンマにありがとう。いっしょに取り組めて楽しかったわぁ」
 
 彼が何かを言う前に、車いすを発進させた。
 「ホンマにありがとう」と言ったあたりで、触れたくないことがあるのに気がついてしまったからだった。

 彼はどこまでも彼らしく、黙って見送ってくれた。

 しばらくして、大変な事態にパニックになってしまった。
 タツヤとの短い別れに感傷的になるあまり、泊まりの介護者に連絡をとることがすっかり抜け落ちてしまっていた。
 
 一年あまり、週に二~三日事務所へ顔を出すうちになじみになったコンビニで、バイトらしき若者に缶コーヒーを買う手伝いをお願いしたついでに、
 今晩の泊まりの永井くんへの連絡のために、携帯の操作を頼むことにした。
さすがに、なんの戸惑いもなく初めてであろう携帯を使いこなすあたり「若い子だなぁ」と、ネット社会を斜に構えて見がちなアキラは複雑な感動に苦笑するのだった。

 うまく電話もつながって、事務所で浸った「安堵」に心地よくゆられながら帰路に着くはずだった。
 歩いていると判らなくても、電動車いすだと微妙なデコボコもたしかな揺らぎとして体のすみずみへと伝わるのだった。
 きっと、講習などで初めて車いすに乗り町へ出た人なら、わずかなデコボコでも大ごとのように受けとめられてしまうかもしれない。
 
 だが、三六五日近く出歩いているアキラにとっては、まったくの日常でしかなかった。
 「当事者といっても一人ひとり違うし、だれも当事者にはなれへんしなぁ。体験は個人に焦点を絞るんじゃなくて、当事者の置かれている世の中の生きにくさを肌で感じて欲しいんやなぁ…」
 理屈好きのアキラは若い介護者がやってくると、説教めいた持論を展開するのだった。
 なかには「ウンザリ」する若者もいると、アキラ自身も承知していたけれど…

 アキラには誤算があった。
 事務所を離れる間際にタツヤとの別れを急き立てる「触れたくないこと」が再び現れて、みるみる意識の容量をいっぱいにさせた。
 「つぎはぼくに白羽の矢が立つに違いない。うまく逃げ通せられるだろうか…」
 だが、まったく別の想いもあった。
 「もし、ぼくの背中を押してくれる人たちがいるのであれば、それはそれでうれしい」
 アキラ自身も、世の中の歪みを町のあちらこちらで感じないわけではなかったし、頼りないからこそ、みんながまとまってくれるような気がしていた。

 幹線から東へ三本ほどはずれると、昼間でも側溝ギリギリを走らなくても、十分に車がすれ違う余裕のある道がつづく。
 年度末の無駄かもしれない道路舗装をしたばかりだった。
 アキラは「触れたくないこと」に思いあぐねながら、道の左端を運転していた。
 考えこむと、多くの人はうつむきがちになる。
 アキラも視線を足もとに落としながら、走りつづけた。

 小石に前輪が引っかかって、上体が左右に揺らいだ。
 上下左右に視界はブレて、無秩序になった情景の中に、まだ黒々とした道路の中央に引かれた真っ白なセンターラインがよぎった。
 
 アキラは無意識のまま、センターラインへと静かに近づいていった。
 その間も、視線はずっとうつむきがちだった。
 だが、足もとに真っ白なセンターラインが割り込んできた瞬間、アキラの内面は呼吸をはじめる。
 
 顔を上げると、センターラインは等間隔に続いていた。
 道路の中央を走っていることにかすかな脱輪感を意識したけれど、まっすぐに進む心地よさに、いつのまにかかき消されていった。

 アキラは、なんとでもなると思った。
 どうにでもなると思った。

 玄関先で、永井くんが自転車に横座りしながら待っていた。
 「お疲れさまぁ」と声をかけてくれた。
 「こっちこそ遅くなって…」と返そうとして、体のすみずみから力が抜けていく感触が一気に広がって、笑顔だけのあいさつに留めた。

  アキラは、一週間ほど休養を取った。
 疲れも取れた。
 久しぶりに仕事場へ行くと、タツヤが黒子のように背後から近づいてきて、アキラの両肩をポンと叩いてから、もみほぐすという彼独特のねぎらいで出迎えてくれた。
 
 普段より、ねぎらいに力がこめられていたようだった。
 「どうにかなる」
 「なんとかなる」
 アキラはつぶやいた。
 思わず、あくびがひとつ出てしまった。

 昼休み、アキラは唐突に湧いた疑問と軽く向きあっていた。
 「シンガーソングライター系のミュージシャンのファンが『売れる前の方がよかった』と、口をそろえるのは何故だろうか?」
 
 いつの間にか、居眠りをしていた。
 初夏の空は青かった。風は光っていた。木の葉の上で、屋根瓦の上で。
 アキラの心の奥から、短い言葉が頭をもたげた。

 「みんな葛藤しながら生きている」
  

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