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陽のあたる山脈

 先日、昼間からうとうとしていたら、ガラケーのショートメールの着信が鳴った。それだけで、送り主の顔が浮かんだ。ぼくのガラケーは、送信者の名前の表示が見えにくい。その書き出しを読むと、やっぱり、予想通りの相手だとすぐに確かめられた。
 今年度も、夜間中学の教壇に立つという報せだった。
七十代を迎えているというのに、「ようやるなぁ~」と思ってしまった。その他にも、彼は障害児の放課後デイサービスにも顔を出している。

 ここまで書けば、団塊世代の活動的な万年青年がシュッとして、立っている感じがするかもしれない。
 ところが、彼は自分自身の「情けなさ」を認めながら生きてきたのだろう。長々と世間話をしていても、「圧」らしきものを受けた覚えはない。
 少々の意見の違いがあっても、ぼくにはどうでもよい平行線のように思えてくる。

 彼との出逢いは二十五年前、京都の施設から出てきたぼくの生活を支えるために、多くのボランティアさんが活躍した。
 その中にはいくつかのグループがあり、もっとも中心的な存在にこのまちの教職員組合のひとたちがいた。一番たくさん入ってもらっていた時期で、三十人を超えていただろうか。

 当時、彼の勤めていた中学校から三人の先生が来てくれていて、それぞれがお互いのことを「仏さんみたいな人やわぁ」と評していた。

 忘れられない光景がある。
その午後、ひとりでまちへ出ていたぼくは、トイレに行きたくなり、彼の中学校へ介助をお願いに行った。顔なじみが三人いたので、誰かは手があいていると思ったからだ。
 ちょうど休み時間で、通りがかった生徒に事情を説明し、アバウトに男性の先生の誰かを呼んでもらった。
 しばらくすると、いつものカッター姿の彼が現れた。
 案内されてトイレへ行こうとすると、二階の渡り廊下から二~三人の女の子たちからの声がかかった。
 「K先生ステキ~」
まるでアイドルのようだった。
だいぶ薄くなったアタマをなでながら、「あいつら、オッサンをからかってコマルなぁ」と照れていた。
 下町の中学校に「染まっているんだなぁ」と、彼の先生ぶりを身近に感じた。

 ヘルパー制度が整ってからも、なぜか彼だけは月に一度のペースで泊まりに来てくれていた。どうして彼だけが残っていたのか、理由はなにかあったはずだけれど、よくは憶えていない。
 でも、あのころと同じように、いつもお気に入りの焼酎を提げてやってきた。ぼくはといえば、ヘルパーが泊まるようになり、すっかりアルコールからは遠ざかるばかりだった。ただ、彼との夜にあわせて、特別なスイッチをオンにすることに怠りはなかった。
 
 うだつのあがらない二人が話すことは、ほとんどがお互いの職場や世の中へ対してのグチのアレコレだった、いわゆる「ためになる」ことはほとんどありはしない。
 それでも、酔いがまわり、眠るころにはホッコリした気分になった。

 二年前、「もう泊まりに来るのはしんどくなってなぁ」ということになり、月に一度の「ウダウダ」がぼくの暮らしから消えた。
 正直、すこし意外なほど、当初は堪えた。
 ぼくは人の運に恵まれていて、エポックメーキングになるような出逢いかたをした一人ひとりとの大切な思い出は数々あり、おおかたの縁はいまも続いている。

 彼とのつき合いは、すこしなのか、中ぐらいなのか、大きくなのか、その違いの度合いはなんとも言えない。
 けれど、もっと淡々としていて、それほど陽気な話はしないのに、穏やかで、人間性がよく似ているのに、居心地がよい。

 最近は、ショートメールのやりとりと、たまに電話をかける。
コロナが落ちつけば、野草や民俗学に親交のある彼との街歩きを予定したい。

 娘さんたちとお孫さんたちは、元気にしているのだろうか。
 それ以前に、ぼくたちはいつまで元気でいられるのだろうか。
 元気とは、いったい何なんだろうか。

 なぜだろうか。彼とのつき合いを想うとき、暖かい冬日和の山脈をイメージする。これもわかったような、わからないようなことだ。
いづれにしても、ぼくにとって、彼はいちばん身近な友人だと思う。

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