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ここまで「愛」がないやっつけ仕事も珍しい。「麻雀放浪記2020」とは何だったのか。

麻雀放浪記という冠を被り、原案:阿佐田哲也とあるからには、
まず1984年版「麻雀放浪記」(監督:和田誠)に触れなくてはいけないだろう。

牌に触れる、牌が自分を変えるという不可思議な魅力。

負けた奴は、裸になる― それがキマリだ。 あいつは俺の最後の持ち物なんだ。 惚れているから…売り飛ばす。 安全な生き方って奴は 僕も捨てちまった。 でも、あの人を女郎に売るなんて あこぎすぎるぜ。

角川映画 公式サイト イントロダクションより引用

これは、紛れも無い傑作だった。
若い頃に自分が触れたものへの感動、こだわりを再現しようとする試み、「愛」があった。
それは、古き良き日本映画をオマージュした陰影豊かなモノクロ撮影であり、
終戦後のどこか自由な時代へのセンチメンタル・ジャーニーであり、
東京花売り娘ほか終戦直後の(同時代の人間における)懐かしの流行歌であり、
何より「麻雀」への愛であった。

「麻雀」への愛とは何か。
緻密な闘牌描写だけではない。
のめり込む闘士たち群像への思い入れ、感情移入でもある。

個性溢れた雀士たちの間で、主人公の坊や哲(演:真田広之)は一人前となるための武者修行をし、次第に麻雀にのめり込んでいく。
われわれは、坊や哲と一体化し、麻雀の奥深さに気付かされるのだ。

「抑えた」描写が、麻雀の怖さも引き立てる。
イカサマするか、イカサマされるか。
点を振り込むか、点が舞い込むか。
相手の技法に神経を尖らせながら、不眠不休で戦い続ける。
徹マンとなれば、意識は朦朧として体はぐだぐだになってしまう。
それでも、辞められない。
ただの「賭け事」を越えて、イノチまで賭けて、戦い続ける。最期まで。
最後まで戦い抜く精神の気高さは、「負けたら灰になるだけだ。」のつぶやきに込められている。
(案の定、最後に一人、戦死者が出る。そいつは身ぐるみ剥がされる。)

もちろん、出てくるのは雀士だけではない。
自ら悪打を怒り罵り、不覚の過ち後悔し、自分の好運衰勢にだらしなく感情を動乱させる「凡庸な人間」も数多く出る。(彼らはカモにされる)

そんな凡人も、通人も、無我夢中になって技を争い、機を捉え、相手を狙う麻雀、いや「勝負事」自体への醍醐味を、濃厚に描いた、傑作。
「麻雀やろうぜ!」と思わせる魅力に満ちている。

同じ素材を選んだ、でも愛が致命的に足りなかった。

これは、完全に空中分解していた。
まったくといっていいほど「麻雀」「勝負事」への愛が感じられなかった。
(麻雀漫画の重鎮こと片山まさゆきの監修は、どこへ行った?)

そこには綺麗に一列に並べられた配牌の几帳面さも、
牌を弄ぶ指先のまやかしも、
竹藪に啼きさえずる雀の声、くらいに胸を打つような牌を叩く音も、
なにより、
舞い込んだ運や張り巡らしたイカサマによって天衣無縫に牌を扱える心地よい陶酔感も、何も、なかった。

点のたたき合いは、ただ大役を出し合うばかりの馬鹿試合。
(プロレスで例えるなら、序盤から終盤まで延々断崖技出し合うだけの塩試合)それも、如何に積み込むか、如何に悟られずに「あがり」まで運ぶか。
胸算用、ブラフ、ありとあらゆる手を尽くし弱いものを食う権謀術数は存在せず
ただのつまらない「運の勝負」だけが繰り広げられる。

本作を観て、誰が麻雀という勝負事に魅力を感じるだろうか。
見終わった後には、愛のかけらもない、ペンペン草一つ残らぬ「荒地」だけがこころのなかに広がる。「なんで見てしまったのだろう…」と。

「自分を坊や哲だと思い込んでいるストレンジャー」斎藤工。

そして主演する斎藤工クンは、自分なりの新たな「坊や哲」像を打ちたてようとする。
どちらかというと見た目品行方正な1984年版坊や哲=真田広之と対面張って
ワイルドでダーティな「終戦直後のアウトロー」を、どうにかして演じようとする。

だから彼は、セコンドを務めるクソ丸(演:竹中直人)が方方手を尽くしてせっかく拵えてくれたスキヤキ
の鍋には目もくれず、
具材の生肉を手のひらで鷲掴みにし、
そのままかぶりついて、
明日の決勝に向けた英気を養うのだ。

それは、たぶん、ワイルドではなく、非文明的な野蛮人だと、思う。

要は。

アブナイ映画。
ただし、面白いかはどうかは別として。


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