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〝ただ、そこに居るだけでもいい〟子どもたちの居場所   ~奈良・生駒『まほうのだがしや チロル堂』訪問記~


「地域みんなで子育てできるような文化をつくる」
「子どもたちのたまり場であり、大人も心が豊かになれるような場所に」
「子どもたちを大人が支えられる仕組みと、【共助】の関係性が生まれる場所を作りたかった」
…etc
(『まほうのだがしや チロル堂』HPより抜粋)
https://tyroldo.com/

奈良県・近鉄生駒駅から歩いて3分ほどの場所にある、『まほうのだがしや チロル堂』。
文字通りの駄菓子屋でありながら、そこには

〇子どもたちが、お金の多寡に関係なくお腹を満たせて
〇好きな遊びや、勉強をすることができて
〇そんな子どもたちを、地域の大人たちがさりげなく支えられる

ための、仕掛け=『まほう』がかけられている。

『子どもも大人も一緒に育ち合う場所』
『地域のみんなで、子どもを見守り合える場所』
という、最近わたしの頭をめぐっているキーワードにぴったり当てはまる気がして、ずっと気になっていた。そのチロル堂に、子どもたちと足を運ぶ機会に恵まれた。

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『まほう』の種明かしをすると、それはユニークな寄付の仕組みのことだ。

チロル堂に来た子どもたちが使えるのは、現金ではなく『チロル札』。
チロル堂でだけ使える店内通貨だ。
入り口に設置されているガチャガチャに100円を入れて回すと、1チロル札(=100円相当)~3チロル札(=300円相当)のうちどれか1つが、ランダムに出てくる。
これを使って、駄菓子を買うことができるし
駄菓子だけでなく、カレー(1チロル)などの軽食とも引き換え可能。
靴を脱いで上がるカウンターやテーブル席で、自由に飲食していい。

こうして、子どもたちが実際に支払った金銭以上の価値(=カレーなど)を受け取れるのは
大人が、『チロる』(=寄付する)仕組みがあるから。
チロル堂では駄菓子や軽食のほかに、昼はお弁当を販売し、夜は居酒屋『チロル堂酒場』としても営業していて
大人が支払うこれらの代金の一部が、子どもたちが飲食を楽しめる『まほう』に変わる。
大人がチロル堂で飲食を楽しめば、間接的に子どもたちを支えられる、というわけだ。

ただし、子どもたちへの駄菓子や軽食の提供に、チロル堂の主眼が置かれているわけではないという。
チロル札がなくても、子どもたちはゲームなどの室内遊びや、勉強・宿題をするためだけにここに来てもいい。
『子どもたちが気軽に来られて、安心して過ごせる居場所』
――というテーマが、チロル堂にはまずあって
その実現のために、『まほう』の仕掛けがあるのだと私は理解している。

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生駒に着いた日の夕方、我が子たちを連れてチロル堂を訪れた。
もう閉店間際だったけれど、店内のカウンター席には子どもたちが3人ほど座っていた。
それぞれゲームをしたり、本を読んだり。
騒ぐでもなく、思い思いに過ごしているように見えた。

「余白」
この言葉が、頭に浮かんだ。
考えてみれば、〝ただそこ居るだけでもいい場所〟って
現代ではとても貴重だ。

我が子たちがまだ未就学児なので、実態を正確には知らないけれど
小学生以降の子たちのスケジュールは、余白がないイメージがある。
朝から、午後3時?くらいまで学校で授業を受け
放課後も、習いごとが詰まっていて
その間、傍らには常に干渉してくる大人の存在があるとしたら
ボーっとする時間なんて、きっとないだろう。

学校の教育体系を全否定するつもりはないし
習いごとの選択も、当然ながら各家庭の自由。
でも、そうした環境が、現代の子どもたちの育ちに決して小さくない影響を及ぼしているのは確かだろうし
その一面が、例えば、子どものうつ発症の増加現象としても現れている気がする。

チロル堂のような、子どもたちの居場所の創出に工夫を凝らす人たちの存在は救いであるし
わたしも、自分の周りでできることをやってみようと思えた。
物理的な居場所が増えると共に、「余白」に対する社会の理解も深まるといい、と願う。


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