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仏教とは「悟りを訊ねあう言語ゲーム

バンクス松の種は、山火事で50度以上になった時だけ、はじけて飛び散ります。自然発生で起こる山火事も、森が生きるためには必要なのです───中谷彰宏氏(著書名失念)

国益のためなら「国家の嘘」は許される(中略)現行の法律は、重大な国益のためなら「国が嘘をつく」ことを認めている(中略)極端な話をすれば、「国の重大な利害」という建前があれば、真相を追求せず、闇に葬ることすら許容しているわけです。情報統制をして情報の一部を公表せず、陰蔽することも許されます。少なくとも現行の法制度上は、そういう解釈が成り立ち得る(中略)なお国が嘘をつくというのは正確ではありません。刑事訴訟法では「国の重大な利益を害する場合」を判断するのは、各監督官庁、衆議院、参議院、内閣とされています。そうした官庁等を現実に動かすのは政治家や官僚。つまり国のためなら政治家や官僚の嘘は時として許される

仏教とは「悟りを訊ねあう言語ゲーム(中略)悟りがアプリオリにあるのではなく、「訊ねあう」ことで悟りのリアリティが担保される(中略)そもそも悟りの境地は言説を超えている(中略)悟ったか否かは「訊ねあう」ことを幾度も繰り返すなかでしか判明し得ない(中略)悟りの資質は世間でいう「賢さ」とは異なる(中略)そもそも朝廷にとって僧侶とは国のために働く公務員でしたから、サンガなどという国家から独立した自治組織を認めるわけにはいかなかった。だから形だけはサンガを認めましたが、その運営規定である律の導入を認めないことで、事実上、サンガを骨抜きにした(中略)律の規則というものは、サンガが支援者たちから批判され、後ろ指を指されないようにすることを目的として制定(中略)わざわざ唐からやってきた鑑真は日本で律宗を立ち上げ、当時の上皇をはじめ多くの人に授戒を施しました。しかし、それらの授戒はすっかり形骸化されたもので、実際に日本でサンガが広がることはありませんでした(中略)鑑真はあれだけ苦労して来日を果たしたのに、所詮はお飾りに過ぎない存在になってしまった(中略)僧侶たちは朝廷から不自由のない生活を保障される代わりに、朝廷のために働いたのです。もはやサンガの理念など跡形もない(中略)日本はサンガを持たない唯一の仏教国(中略)そもそも日本仏教には最初からサンガがなかったので、サンガに基づく仏教なんてモデルも知らない(中略)知らないものに戻ることはできません(中略)日本の仏教にはお寺はありますが、サンガに当たるものは見当たらない(中略)日本仏教を見る限りにおいては、律も、それを用いて運営されるサンガも存在しない。この日本仏教の特殊性が、日本にいると理解できない(中略)日本人の多くは、自らを仏教徒と認定しながら、かかる仏教の真義を知らない。僧侶や仏教学者でさえも大概はこのようにちゃんと説明できない。何故か(中略)仏教とは異質な文化に育った知性の方が容易に急所を押さえ得る。『サピエンス全史』はその証左(中略)ブッダの洞察のうち、より重要性が高く、はるかに深遠なのは、真の幸福とは私たちの内なる感情とは無関係であるというもの

日本の社会では漢訳によって、とりわけ「僧宝(サンガ)」の意味が誤解されてしまった(中略)「サンガ」とは共同して闘争する仲間(中略)日本社会の同調圧力とは、ランキングに組み込まれ、同調せよというものである。押さえつけられない者、支配層の思うようにならない者を悪役にして、集団で村八分、つまり大人のシカトによって、嫌がらせをする(中略)自分の場所は高い木の上に確保して座り込んだ状態で、唯一行っているのが、見ない、聞かない、言わないという行為(中略)だからこそ、ブッダは、「無(否)」という言葉にメッセージを込めた。「見よ! 聞け! 言え!(中略)日本人が思う「無」とは、はっきり自分なりの意見を出さずに、無というベールで覆ってしまうことでその場を収めようという感覚である。しかし、ブッダが語った「無(否)」とは、そのベールを引き剥がして、真実を白日のもとに晒すこと(中略)「心にとばりがなく」というのが、原語のニュアンスでいう「無」(中略)ブッダは「二ティヤ(恒常)」や「アートマン(我)」を否定する際には、「否」を意味する「ア」もしくは音便変化の「アン」を用いた。これが漢訳仏典で「無」と示されたのは、その段階では「無」にも否定のニュアンスがあったからだろう。しかし、中国では道教でも「無」という概念を用いるため、ブッダの「否」と道教の「無」が混同されてしまったきらいがある。かくして、今の日本で「無」は、否定ではなく「しない」という意味に(中略)日本社会での解釈により、「無」は本来のニュアンスからまったく逸脱し、むしろ正反対の意味に(中略)日本人にとっての無とは、依存であり、現状維持であり、抽象化による逃避である。結論を先に伸ばしてベールで覆い隠し、「見ない・言わない・聞かない」の「無い」に逃げ込む。それが、日本人の「無」

数学者のエドワード・ローレンツがある講演会で、「ブラジルでチョウが羽ばたけばテキサスで竜巻が起こるか?」と問いかける七〇年前に、ポアンカレはいわゆる「バタフライ効果」を概説していたのだ。やがてカオス理論へと発展することになるローレンツの研究は、主に予測に的を絞っていた。より正確な天気予報をしたい、もっと先まで未来を見通したいというのが彼の動機だった。一方、ポアンカレは逆の問題に興味があった。あるプロセスがランダムなものになるには、どれだけ時間がかかるのか?

釈迦の悟りは輪廻という無限のサイクルから離脱できる→ 梵我一如の否定───苫米地英人博士

アマゾンを舞う一匹の蝶の羽ばたきが、遠く離れたところで嵐を巻き起こすと言うバタフライ効果のような感じ。このようなメカニズムを「倶舎論」では「相続転変差別(そうぞくてんぺんしゃべつ)」と呼んでいます(中略)今で言うところの複雑性のカオス理論のようなこと

真の幸福とは私たちの内なる感情とは無関係

バタフライ効果は現実であって比喩ではないのだが、翅のはばたきを暴風の原因だと説明するなら、それは「因果律」という概念の拡大解釈が過ぎるということになろう。はばたきから大嵐までの連鎖のあいだには膨大な数の事象があるのだから。この手の現象の正式な研究は「カオス理論」と呼ばれている。カオス系では状態はまったくランダムに推移しているように見える───が、次の状態が予測できないという意味ではランダムなわけではない。連続する状態を結ぶ明示的かつ決定論的な式を与えられるからだ。これは開始点を厳密に知ることが決してかなわず、その開始点におけるわずかな違いがのちにきわめて大きな違いをもたらしうる、という話

インドで蝶がパタパタやると、二年後にニューヨークでハリケーンが起こる可能性がある(中略)ランダム性には、社会のカードをシャッフルし直し、肩で風切る大物を叩き落とすという優れた効能がある(中略)微妙に粗末な身なりをした(でも考えは深そうな)人たちが大勢一部屋に集まって、静かにゲスト・スピーカーを見つめている。みんなプロの哲学者で、ニューヨーク・エリアにある大学で毎週行われる、名誉ある会合に出席している人たちである。

釈迦の悟りは→ 梵我一如の否定

ブラーミンたちが仏教を目の敵にし、弾圧し抹殺してきたのはなぜか?(中略)このバラモン(ブラーミン)の正体を見破り、公然と彼らの権威と偽善性に挑戦したのが “不可触民” アンベードカル (一八九一〜一九五六)であった(中略)〈王様は民衆が王でないと思ったその瞬間、もはや王ではなくなる〉といったのはマルクスだったように記憶するが、どこの国でも支配階層が最も恐れるのは己の正体が見破られ、真実が明るみに出ることである。

マクロビオティックはブラフマンとアートマンの合一(ワンネス・梵我一如)を肯定することで成立

ディズニーはよく、好んでこう質問した。「どうして大人にならなくちゃいけないんだね?」↓



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