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ひとつのことに没入し、我を忘れて一生懸命な状態が「三昧」ですから、「清浄心」と同じ悟りの状態

自分の良心にかけて本当のことを言う人は、とっくの昔に絶滅してるか、生き残っているとすれば天然記念物になってるはずだ。だから、つねに真実を語ることは「競争上の優位」になる

ハンターの脳の状態は、戦士や殺人者の脳の状態とは大いに異なる(中略)ハンターは獲物に心惹かれ、共感さえ覚えるのだ。

「禅」とは何か。いってみれば、一種の精神医学でもある。

瞑想は心疾患に対する優れた防御手段ともなっている

マインドフルネス法とは突きつめていえば、客観的な目撃者として自分を眺めることだ(中略)瞑想の一種に〈注意集中法〉という手法がある(中略)とにかくひとつのものごとに意識を集中することで、心の占めている思考やイメージの喧騒を遮断する方法だ(中略)瞑想の手法として、〈オープン・モニタリング〉もしくは〈マインド・フルネス〉と呼ばれる方法も、よく知られている。この方法がめざすのは、今この瞬間に経験しているものごとひとつひとつに注意を向けることだ。

ハーバート・サイモンは「この先、世の中にどんどん情報があふれていく。したがって、未来の人たちにとって最大の財産となるのは注意力や集中力になるだろう」と予言しました。それが今、まさにそのとおりになっています(中略)三年のリトリートを行うことがラマという呼称のつく条件です(中略)また、仏教や瞑想を教える人もラマと呼ばれています(中略)リンポチェにも二つの意味があり、一つはラマの生まれ変わり「トゥルク」と呼ばれる人たちです。もう一つは先生の敬称です(中略)最近になって、瞑想をしている時は脳の一部ではなくて全体でシンクロニシティが同時多発で起きている、つまり脳のあらゆる部位が同時に対話しているような状態になっているのではないか、という仮説が立てられてきいます。(※日本のマルチ商法では、何らかのリンポチェが生まれ変わりとして登場することが多い)※引用者加筆.

瞑想の歴史は宗教とワンセットで宗教のない瞑想って本来はありえないのね。もちろん、瞑想にあたるものはユダヤ教でも、キリスト教でも存在するんだよ。基本的には瞑想って自分の意識を同調したい対象を作ってやっていくことだから。じゃないと、瞑想って成り立たないからね(中略)仏教のように神がない宗教もあるから、そういう場合は悟りの境地が対象になる(中略)キリスト教なら十字架で、特に十字架を瞑想道具に使うのはカトリックの伝統ね。ロシア正教といわれる東方教会のほうは十字架+イコン(主に東方教会で発達したキリスト、聖母、聖者たちの像を描いた礼拝用の画像)を使うわけね。それで大乗仏教では大仏を使うんだよ。仏さんの世界はデカきゃデカいほどいいのね(中略)もうひとつ、道具なんかいらんっていうハードコア派(笑)もある。形のない神を形で表すことが間違いだっていう論理で、禅宗で頭になにか浮かんできたりすると "喝"ってやったりするのは悟りの世界を人間の言葉で表せるわけがないのに、人間の言葉が出てきたらおかしいでしょ、ということなんだよ(中略)雑念の本質的な意味合いは、人間の思念そのものが神の思念じゃないってところから始まってるからだよ。瞑想は直接的の体験だから、その時に人間の言葉が出てきたら「ちょっと待て、キミ、それじゃあ人間だろう」っていうことで "喝" になるわけだ(中略)だから、観音さまの言葉や姿がイメージできたら成功とみなすのね(中略)(※天台宗の場合は)阿弥陀さまが見えたといえば、キミは修行を終えたみたいになるわけ。そのときにハンバーガーが見えましたっていうのはアウト(笑)(中略)神様、仏様の形が見えれば成功で、それでも瞑想だってことね。密教系はだいたいこっちの見るほうの瞑想。禅宗系はハードコア系だから見ないほうの瞑想。どっちにしても、その宗教で許された対象があって、それ以外の思念は全部 “喝”なのね(中略)小乗と大乗は本質的に違うのね。小乗の悟りは煩悩の全否定だから、この世の未練をなくすことで、簡単に言えば、人に迷惑をかけずに死んでいくことなんだよ。つまり石ころになるってこと(笑)。だから、いまだに小乗やってる一部のお坊さんたちは何を考えているのか、俺には理解不能なんだよだってそれって釈迦が悟るまでの状態になりたいっていうのと一緒だよ。でも、釈迦は悟ったあとにこそ価値があるんでしょ。悟っている時の釈迦はなんの価値もないぜ。ただの石ころ。それになりたいってどういうこと?(中略)上座部仏教だってスリランカから日本まで来て布教しているスマナサーラ長老のような人たちだっているんだから俺の分類では “大乗”だよ(中略)一部の上座部はいまだに小乗をやっている。これはおそらくキリスト教の影響だと思うよ。その手の上座部仏教が一部の地域で大乗よりも強くなったのは歴史的にはインドやスリランカがイギリスの植民地になっていた時代だからね(中略)スリランカを植民地化したのはイギリス国教会でプロテスタントだけど、カトリック的風習が強い宗派(中略)本人たちはわかってないと思うけど、寺院にしても、ほとんど元教会だったところを使っているからね(中略)自分がちゃんと縁起をわかってすくっと立ち上がって社会に機能を果たすんであれば、瞑想時間そのものがムダ。これを理解するのが瞑想にとって一番大事なことだね(笑)。※引用者加筆.

私の瞑想というのは分析的な瞑想です。分析的瞑想とは何かといえば、解析、分析することです。───ダライ・ラマ法王

24時間瞑想して抽象度をアップさせる

直感に反するようだが、もっとも有能なリーダーは得てして、もっとも謙虚な人々なのだ(中略)この新しいスキルを使って心をコントロールし、ターゲットに照準を合わせ、禅のように削ぎ落としたシンプルさで相手を殺すマインドフルな狙撃手だ。

禅語というものは、表現は違っても、意味するものはすべて同じなのです。すべて悟りを得るための境地を表現しています(中略)禅語は、表現は違っても意味するものはすべて同じ(中略)ひとつのことに集中して我を忘れている状態を仏教では、「清浄心」と呼びます(中略)人間の意識を九つの意識に分けて考えます。一識から五識までが眼、耳、鼻、舌、(触) 、六識が 「意識」(中略)いわゆる理性や分別が六識です。七識、八識ともに潜在意識ですが、九識が「阿摩羅識」で、訳語が「清浄心」なのです。九識のうち、最高位にあるこの「清浄心」こそ、悟りの境地のことなのです。 一生懸命な状態は「三昧」ともいいます。温泉三昧などと使われますが、ひとつのことに没入し、我を忘れて一生懸命な状態が「三昧」ですから、「清浄心」と同じ悟りの状態をいうのです。我を忘れて一生懸命になると、「意識」から離れ、時間も空間もなくなり、無の状態になります。これこそ悟りの境地なのです。この境地は禅僧ならずとも訪れます。

あらゆる人に悟りの可能性としての阿頼耶識が等しく備わっていると同時に末那識も等しく備わっている。これが人間のやっかいなところです。どんなに学問があっても、どんなに社会経験を積んでも煩悩からは逃れられない(中略)「マナ」とは本来は「考える」という意味なのですが、現代の言葉では「自我」と表現したほうが分かりやすいでしょう(中略)阿頼耶識の「阿頼耶」とはサンスクリットの「アーラヤ」に漢字を当てはめたもので、本来の意味は「住処(すみか)」ということですが、ここでは「蔵」「倉庫」というくらいの意味で理解したほうが正解です。ちなみにチベットのヒマラヤは、サンスクリットの「ヒマ」(雪)と「アーラヤ」が合成された言葉で、「雪の家」「雪の山」といった意味になります(中略)阿頼耶識のことを「根本識(こんぽんしき)」とも言う↓

マインドフルネスでは、現在を “味わう” ように指導するのだが、サイコパスは、“貪り食う” 傾向が強いというのだ



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