見出し画像

ギフテッド教育?舐めてると潰すぞ ~病的性質と創造性の考察~


はじめに

こんにちは。kokurenです。
X(twitter)で「ギフテッド教育の失敗」なるものがトレンドになっていました。

以下の記事が話題になってたようです。有料ですしタイトルに全部まとまってるので読まなくていいと思います。

僕は「ギフテッド」なるものに対してずっと違和感を感じていました。いわゆる「病的性質」とは違うという主張らしいのですが、「HSP」同様に都合よく作られた概念としか思えなかったのです。

Wikipediaを見ると結構長々と書いてあるのですが、正直こんな細かい定義づけになんの意味があるの?ただの病的性質じゃないの?と思っていました。

この違和感は、何も僕自身の頭の中だけでぐるぐる考えて出した結論というわけではなく、年齢世代を問わず、自分の周りのすげー奴ら、おもしれー奴らがどう考えても「発達障害」「気分障害」「精神病」の類を抱えている(なんならカミングアウトされる)ことに気づいたからです。

創造性と再現性の違い

僕が思うに、こういった病的性質は「創造性」と相性が良いと考えています。ただ、みなさん勘違いしがちですが、「研究者・学者」は分野にもよりますが、少なくとも今の日本の大学のスタイルでは向いていないはずです。

最近見かけたちょっと面白い記事を乗っけておきます。

上の記事では、優劣ではなく(重要)大雑把に人を「天才」「秀才」「凡人」に分け、それぞれの強みの活かし方や向いている職業などについて書かれています。

サイエンス自体は創造的な行為ですが、科学の世界では再現性の担保がめちゃくちゃ大事です。そのため先ほどの記事では「秀才」の仕事とされています。

要は、一つの仮説を検証するのにも、研究デザインやらプロトコルやら先行研究調査やら統計処理やら論文の執筆やら研究費の申請やらの地道で義務的な作業を、めちゃくちゃ時間をかけて、しかも即興チームみたいな場所でやる羽目になるわけです。

これは正直、上記のような病的性質が強すぎる人にはできないと思います。あえて言うなら「やり抜くこだわりが強い系」のASD傾向の人や、「衝動性や多動性によるスピード感と処理速度」のADHD傾向の人で、それらがコントローラブルな状態ならばもしかしたら向いているかもしれません。

なんでも症状と結びつけるのはよろしくないとは思いつつ、病的性質とはおそらく誰もが基本的な脳機能として持っているもののグラデーション的な強弱であり、強すぎると生活に支障をきたすというだけなのだと思います。

個人的には、サイエンスはその基礎として重要であるとした上で、アートやテクノロジーの分野でこそ病的性質は輝くと考えています。

愛と死を呼ぶ創造性と病的性質

さて、病的性質と創造性の話に戻りましょう。

この相関関係はもう、明らかなんです。歴史が証明しています
僕がまとめ直すような内容でもないので、適当な関連リンクを貼っておきますが、そんな範囲にとどまらないレベルで事実だと少なくとも僕は感じています。

日本で言えば、今は亡き漫画雑誌の「ガロ」の世界なんかはまさにその典型例だと思います。事実、僕の大好きな漫画家さんにねこぢるさんがいます。

おそらく日本において「ゆるいキャラクターが不条理で残酷なことをする」といった悪趣味・不条理系ギャグを流行らせた一因となった方です。

とても悲しいことに、彼女は20代で自ら命を絶ってしまっています。同じガロの女流作家であった「元祖拗らせ女子」である山田花子さんも20代で亡くなっています。

興味深いというのは不謹慎かもしれませんが、ねこぢる氏やその夫であった漫画家山野一氏の友人で、当時の悪趣味系雑誌編集者であった吉永嘉明氏(現在消息不明?)が『自殺されちゃった僕』という本を出しています。

その書籍自体を読んだことはないのですが、巻末の精神科医によるコメントだけを読んだことがありました。

以下、一部引用になります。

ここで愛を持ち出してしまったら、もはや「ああそうですか」としか答えようがないではないか。まともな物書きであったなら、愛などという身も蓋もない言葉は持ち出すまい。あの三人が死という「掟破り」を持ち出したように、Yは愛という「掟破り」ですべてを肯定しようとする。そのなりふり構わぬところに、本書の意味はあるのかもしれない。言い換えれば、愛の無力さと盲目ぶりとがここに描かれているということになろうか。そのように考えてみれば、なるほど本書には予想以上の価値があるのかもしれない、『危ない1号』とは違って。

吉永嘉明『自殺されちゃった僕』解説 春日武彦「掟破り、ということ」

僕はこの文章を一通り読んで、論理や秩序を重要視する「秀才」の精神科医が、社会一般の常識や良識から逸脱した「天才」の漫画家や編集者たちを、強く非難しつつもある種の意味で認めているような感覚を覚えました。

創造性は病的性質と深く関連があり、その性質によって愛や死といった人間の根源的な概念をよりダイレクトに受け止める能力があるのかもしれません。

ギフテッドの正体

僕は「ギフテッド」やら「ギフテッド教育」といった概念自体がそもそもあまり好きにはなれませんでした。この感覚をうまく表現しているポストがあったので引用させていただきます。

もっと正確に表現するならば、その時点で社会から評価される形質、有用だとされる形質については「ギフテッド」「天才」と呼称するのに、そうでないものや、社会にとって不都合なものについては、「障害」「頭がおかしい人」とされてしまうということです。

さらに言えば、こうやって人間を能力や形質で社会的に細かく分類することは、人間の分断や差別を助長することになると考えており、そういう意味でもやっぱり好きになれません。

僕は、所謂「ギフテッド」はなんらかの病的性質やその複合の結果、たまたまその個性が社会に評価されやすい形で表出されただけであり、概念自体は都合よく作られたものであると考えています。

僕自身、小中高大と一応その時その地域で一番知的水準が高くなると思われるセレクションを受けてきており、最近は社会の最先端で活躍されている方々や、異常なまでの能力や知識を持っている方々と関わらせていただく機会も増えてきたのですが、みんな病的性質を持っています

僕は診断のプロではないですし、ゴールドウォーター・ルールに抵触することを承知で述べますが、カミングアウトされることもあれば、話すだけで明らかに同族だとわかる人もいます。

そしてその傾向として、「新しいもの好き」「専門的知識・技術がある」「芸術に精通している」「思想哲学にハマっている」「テクノロジーやガジェットが好き」あたりを感じています。

何が言いたいかというと、ギフテッドなんてものは最初からなくて、病的性質がたまたまうまくハマっただけ、ということです。(あくまで僕個人の考察です。)

もちろん僕がまだ本当のギフテッドに出会ったことがないだけかもしれません。しかし、本物のギフテッドとはどこにいるのでしょうか?
いるならばぜひお会いしてみたいものです。

社会や個人は何ができるか

さて、では社会や個人は所謂ギフテッドの子供に対して何ができるのかという話に移りましょう。

結論としては、「褒め過ぎないこと」「邪魔をしないこと」
これだけだと思います。

以下自分のポスト

また、先ほど述べたように、ギフテッドなんてものは、病的性質がうまくかみ合っただけのものと考えています。

つまるところ、こういった病的性質に対する社会的なサポートが重要であることは言うまでもありません。

たまに「人に迷惑をかける存在は排除すべき」という考え方の人もいますし、実際何か嫌な目にあったのだろうとは思うのですが、人間は誰しもが他者に迷惑をかけて生きているものです。

もちろん程度は人によって異なりますが、より程度が大きくなってしまう人を配慮してあげることができれば、小程度の人たちも生きやすくなると思うのです。

そういう意味で、福祉や公的なサポートは重要なのです。もちろん、自分の負荷にならない範囲で周りの人たちと助け合うことも重要なのです。

おわりに

みんなが生きやすく、みんなそれぞれの能力を発揮できて、誰も自ら死を選んでしまうような事態にならないことが理想です。

こういうことを大真面目に語ると、「現実を見た方がよい」「限界というものはある」といった話を実際にされるのですが、理想を高く持たずにいては、達成できる内容のレベルも下がってしまうと思うのです。

"Think Globally, Act Locally"の考え方でできることからやっていきましょう。

それでは。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?