見出し画像

「おかめ日和」の炎上騒動への一考察

作品を世に出した以上、対する批判や感想を述べることは誰もが自由である。

だが最近の傾向として、実際の作品を吟味したうえで、責任を持って発言しているのではなく、誰がまとめた意図的な断片や一部だけを見て、全体を判断するような無責任な批判が増加しているように感じる。

無料配信分、または一巻のみだけで判断してはならないのか、という意見もあるだろう。もちろん、そこまで読み「自分には合わなかった」「こんな描写や作品は嫌いだ」という感想なら良いと思う。嗜好は人それぞれであり、相性があって当然だ。

だがおかめ日和に対する今回の炎上は、
「虐待問題に実際苦しみ、傷まだ癒えず、それに類似した物事に過剰反応する層」に対して、作品の強い部分のみを意図的に抜きだし、「モラハラの典型例である」と説明文を付けて拡散したことが発端になっている。
その反応も批判に大きく傾くのは当然だろう。

「おかめ日和」を全体から俯瞰すると、確かに1巻は「起承転結」の「起」の部分であり、物語の根幹となる「問題行動を起こす夫」と、「怯える妻」の振る舞いが、誇張され表現されている。
「こんな問題を抱えて、なぜやっていけるの?」という疑問を抱く段階。
普通の感覚で読む読者は、周囲キャラの反応に頷くはずだ。周囲キャラは夫婦の在りようを異常と判断しているし、双方を咎めている。

夫婦円満でモラルも健全で幸せいっぱいのほのぼの家族ならば、読んでいて安心だろうが、それでは「ツカミ」にはならない。
これはエンターテイメントたる漫画であって、夫婦のあり方を啓発する資料として描かれたものではないのだ。

だが批判者は自分たちの強い思い込みと間違った知識で「これはモラハラ定番」と判断し、最初の過剰な部分を切り取り、印象操作を行った。
そして肯定的な意見を持つ読者に対して「怖い。彼らが存在していることこそがホラー」と否定的なイメージで表現した。

それに対し、

・「おかめ日和」全巻読み込み、各行動の背景を理解した上で判断した批評なのだろうか?でなければ、あまりに作品批判・評価としてはお粗末なのではないだろうか?
・そもそも評者のモラルハラスメントの定義自体が間違っているのではないだろうか?


などといった反論が出て来るのも当然である。

作品批判の自由は、その反論の自由を妨げるものではない。
つまり批判すること自体は自由だが、その批判を批判、または反論することもまた自由であろう。

自分の感想として「これは嫌い」「受け付けない」という呟きなら良い。

だが今件の煽動層は「これはモラハラ、つまり倫理を狂わせる虐待を扱う作品であり、それを肯定するもの(愛情として判断するもの)はおかしい」という、いわば「倫理・道徳」を元に大上段で批判・批評し、印象操作で世論を操ろうとした。それこそがモラルハラスメントのやり方そのものなのだということも、実に皮肉な話だと思う。

一時期の勢いはだいぶ落ち着き、逆にこの炎上騒ぎを通して作品を知り、読者も増えているという効果もあるようなので、この騒ぎ自体もネガティブな効果ばかりではない。

だが、言論統制とは、国や政府からではなく、実は内側がなされるものだということを、改めて痛感させられる出来事であった。


余談1

私が全巻読んで思うのは、たしかに「おかめ日和」はほのぼのではないと思うし、父親の言動には問題がありすぎ、対する妻の反応も模範的とは言えない。

別感想で述べたが、これはモラルハラスメントではなく、パワーハラスメントによるドメスティック・バイオレンスではないかと思っている。
そしてかなり特異な事例である。

多分あのままだと、長男は思春期に酷い反抗期になると思うし、一番父親に似るのも長男だろう。
それを夫の父親(ご多分に漏れず、夫もまた父親と祖父から酷い虐待を受けて育った被害者であった)から続く負の連鎖と言う人もいたが、だが三世代通して見ていると、暴力・暴言に関していえば、段階を踏み、少しずつ改善されている。
少なくとも夫は、青年期はもっと荒れて、直接的な暴力を行っていた。
だが後半になればなるほどそれは緩和され、直接的暴力は激減する。

夫は反省してないという評価もあったが、そんなことはない。ちゃんと自省しモンモンと悩んでいるのである。それが行動になかなか結びつかない自分にも苛ついてる。それ自体は成長過程としてはよくある事だ。

美しく大団円で終わった話を蒸し返すのも無粋だが、読者としては是非、その後日談も番外編でいいから描いて欲しいと思う。
恐らく長男はじめとした子どもたちの成長を通して、夫婦はまた成長していくのだろう。
そう、成長譚としては、あの話はまだまだ終わらないのだ。


余談2

モラルハラスメントではなくドメスティック・バイオレンスというならば、同じ虐待だろうという意見もあるだろう。

だがあの漫画の描写がモラハラか否か。その判断ひとつで、視点は大きく変わってしまう。

モラハラを描いているという前提で見てしまうと、夫のすべての行為は「作為的な嫌がらせ」ではないか、という視点になる。判断する物差しが変わってしまうからだ。

実際、あのまとめを読んでから漫画を見ると、先入観からあれもこれもモラハラに思えてしまい、一つ一つ検証しながら読み解くクセがついてしまう。

確かに夫は幼児性が強く感情制御が下手で、偏狭で古臭い価値観を持っている。時代の波についていけない不器用さを、新しいテクノロジーに対しての異常な嫌悪感と力技でごまかしている。しかし彼のその言動は、他の家族や人物からは「古くて頑固」と看破・一蹴されている(子どもは力技で押さえられているが)。

土下座までして謝る妻の態度は悪手ではあるが、彼女ですら「夫の態度はそのまま社会に出すとまずい」と判断している。
これはモラハラとは言えない。モラハラで完全支配されている被害者であるなら、社会のどこに出しても夫は立派だと思うはずだからだ。

あの作品をモラハラと断じてしまうことは、それを肯定する読者(肯定する読者はあの2人間に愛情があると判断している)もまた否定することと同義になる。

作品を批判・批評・研究・検証をする権利は誰にでもある。がしかし、発言する際には微妙なニュアンスで「そう感じる」「そうではないか」ぐらいの慎重な姿勢が必要になるだろう。心の有り様を伝える用語を用いることは、それだけ重いことなのだ。自省を込めて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?