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「広報です」と名乗らないことで、関係構築できる層がある

少し前に、言葉遊びが激しいなーと思ってしたツイートです。PRパーソン界隈では「“広報”と“PR”の違い」とかも議論されたりするのですが、もはやそこまでいくと、概念を切り取る言葉の定義から社会を捉え直すという、言語学ベースの社会学の範囲なんですよね(社会学部出身)。

どうでもいいとは思いつつ矛盾するのですが、私は少し前から「広報です」と名乗らないようにしています。

まあわかりやすさを求めて、昨年とかはキャッチーに「フリーランス広報」とか言ってみたりしてたんですけど。でも、広報担当者の集まりとかに行くたびに感じる違和感があって、最近は控えています。それについて書きますね。


「広報」という肩書きについてまわるイメージ

たくさんの広報さんたちや、そのまわりの人たちと接して感じたのは、「広報」ほど“キャラクターイメージ”がついてしまっている職種もめずらしいなということでした。

「キラキラ広報」とかいう言葉がありますが、「華やかで対面コミュニケーション能力の高い女子社員」のイメージが強いんですよね。特にベンチャー、スタートアップ界隈においては。

自分でいうのもだいぶあれですが、私は「外見がそこそこ華やかな若い女性」枠にどうしても入るので、そのイメージの対象ど真ん中になってしまう感覚がありました。

特にフリーでやっていると「メディアと会食したりして仲良くなって、いっぱい取り上げられるようにしてくれる人でしょ」という空気を感じることもあって、とてもやる気が削がれてしまいました。コミュニケーション戦略や情報開発など、関係構築のところ一緒にやりたいのになあ、と。

「広報」として関係構築できる範囲は限界がある

職種名としての「広報」の捉え方は、昭和からアップデートされていないなーとも感じました。

もともと「広報」という言葉の起源は、戦後にGHQによる民主化政策が進められ、自治体などの「行政広報」が強化された時代まで遡ります。アメリカからPublic Relationsの概念が輸入され、場当たり的にに和訳が充てられたのがはじまり。

行政広報と企業広報は違うところだらけですが、経済成長に伴ってそのまま民間企業にも応用されていきました。今では時代はまったく変わっているはずなのに、大企業を筆頭に「広く報じる=広報」が植え付けた印象を半世紀以上も引きずっているのです、日本人は。

「情報発信の仕事」とか「プレスリリース書く人」とか「メディアとやりとりする立場」とか。表面的なところだけが見られがち。基本的には裏方で黒子なので、なかなか職種イメージがアップデートされないんですよね。

広報と名乗ってしまうと、手法に寄った狭い役割が想起されがち。この見られ方を引っさげたままだと、関係が構築できない層がいることに気づきました。「広報です」と名乗るとあまり相手にされなかった人に、「PRSJ認定PRプランナー」の名刺を出すと話が通ったり。

なるほど、自分の肩書きまでも関係構築の材料にするのが、真のPRパーソンなのか!

とはいえ、場面によって使い分けるのもPR戦略の一環

まあそうはいっても、頑なに「広報」を拒否しているわけでもありません。すばらしい広報さんはたくさんいますし、「広報」と名乗ることでスムーズにいく場面も山ほどあるので、使い分けるようにしています。

報道番組の人や新聞記者さん、古い体質の企業や行政関係の方や、そもそものビジネスの畑が違いすぎる人にたいしては、「広報です」ということも全然あります。他企業の広報さんと話すときにも、合わせます。

相手がコミュニケーション系のお仕事全般に対して2レイヤー以上の見方をもっている場合、「広報」は使わないことが多いです。同業種の人や、マーケティング系の人、編集者やライターなど。彼らは各々の頭のなかにある立体的な構造のなかのどこかに、すでに「広報」を位置づけているからです。

対外的に自分のポジションを伝えるときに、相手にあわせて言い方を変えることも、PR戦略のひとつだなとよく思います。同じ打合せであっても名乗り方次第で進む話も進まなかったりするので、場面にあわせて円滑に話を進められそうな名乗り方を使い分けます。

これはPR会社のときにすごく実感したことで、何百件とメディアの方にコンタクトを取るなかで学びました。最初の切り出し方で、全然反応が違うんだもん。ちょっと考えれば当たり前のことですが、自己紹介の時点から関係構築が始まっているんだなーとか思います。



そうそう、言葉の定義付けの話でした。「広報」でも「PR」でもどっちでもいいけど、社会の反応を見ながら言葉を選びとっていくセンスを磨きたいです。

言葉は現実を切り分けるツールでしかないけれど、社会は言葉によってしか定義されない。

これは社会学を勉強しているとよく出てくる通念です。「言葉遊び」がたくさんの議論を生むのは、それがそのまま「社会に対する見方の違い」を表しているからなんですよね。

言葉にまつわるふわっとしたイメージとか、それを使うことで相手にどんな見られ方をするのかとか。社会の流動性にともなって言葉もどんどん変わっていくので、敏感にキャッチしていかないとなーという感じです。

個人的には、「広報」という言葉のイメージをアップデートするのは厳しそうなので早く消えてもらって、「PR」を普及させたほうがいいかなっと思ってます。

おわり。


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