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【ぶんぶくちゃいな・全文無料公開】延伸する香港人ジャーナリストの芽「負けはしないと信じ続ける」

香港は7月1日にどうにか習近平を迎えて、主権返還25周年式典と新政府高官就任式が行われた。すでに日本のメディアの多くが伝えているように、今回の香港訪問は2020年1月に新型コロナの感染が拡大し始めてから2年余り、初めて習近平が一般に「中国大陸」と呼ばれる「内地」から足を踏み出したことになる。そういう意味では、香港の主権回復25周年という節目は、中国政府にとって大きな意味を持つものだったといえるし、香港政府(新、旧含め)のメンツもそれなりに立ったといえるだろう。

だが、「どうにか」と書いたのにはわけがある。

前回の「ぶんぶくちゃいな」で触れた通り、巷で噂された「ジャンボ転覆」の悪運がどっと覆いかぶさってきたからだ。

6月30日に習近平が高速鉄道で香港に到着し、「政府首脳や市民の歓迎を受けた」と紋切り調で報道されているが、出迎えた「市民」はこんな人たちだった。

習近平出迎えの様子

…これは…どう見ても、軍隊か警察関係者であろう。だいたい、習の到着に合わせて高速鉄道駅周辺は何重もの厳戒態勢が敷かれ、大交通渋滞を引き起こしており、市民は習の出迎えどころか日常生活にも支障をきたしていたのだ。加えて、これが「撮影用」だったことは、SNSに流れてきた、習が到着してから行った演説シーンの写真を見れば一目瞭然である。

習近平到着後の演説…がーらがら。

出迎えの人たちはどこへ行った?

今回の記念式典では、香港政府はメディアに対しても厳しい分別を行った。香港のメディアのみならず、海外の著名メディアも多くが会場入りを拒絶された。日本のマスメディアでは、朝日新聞や日経新聞、共同通信、時事通信なども拒絶され、会場入りできたのはNHKと読売新聞のみだったという。

それくらい厳しい報道統制を敷いたのに、この習演説のうら寂しい様子が写真に撮られ、ネットに流れるというのもなにやら情けない話である(撮った人ブラボー!だが)。

加えて、譚耀宗・全国人民代表大会香港地区代表組長が、新型コロナウイルス感染陽性であることが判明した。すでに30日朝の検査で陽性が疑われていたために、習の出迎えには出てこなかったが、午後の検査で陽性が確定した。

譚氏は、今年の行政長官選挙で「唯一の候補者」に指定された李家超氏の選挙対策をすべて取り仕切った「黒幕」である。本来の選挙なら候補者が声を発すべきところでも譚氏が出てきて発言し(対立候補いないしね)、中国政府が李氏の首根っこを押さえつけているところを十分に見せつけた。

なのに、ここに来てコロナ陽性とは。まぁ、お役目は果たしたのでゆっくり休んでいただくといいのだろう。

さらに、返還式典を前に台風シグナルが発令されるという前代未聞の事態になった。この時期の香港は梅雨っぽく、たしかに1997年の返還時も大雨が降った。まさに中国人がよく言う「天公不作美」(お空は意を汲んで良い天気にしてくれなかった)である。だが、わたしの記憶では少なくとも過去25年間、台風にぶち当たったことはなかった。

さらに、6月29日夜に「警戒」を示すシグナル1号が発令され、30日夜には「強風」を示すシグナル3号が、さらには7月1日夜には「暴風」を示す8号が発令された。一般に3号なら幼稚園や小学校が休みになり、8号は警察や病院など緊急の対応を迫られる職場以外は一挙に休業に入るというレベルである。8号が掲げられたのは式典を終えた習近平夫婦が香港を離れた後ではあったが、この間、香港はずっと大雨大風にさらされた。

わたしは現地からの報告を聞きながら、「天公不作美」どころか、「ジャンボの恨み」だとずっと思っていた。

●メディア業界失業者は2000人にも

確かに返還25周年は香港にとってある種のマイルストーンではあるものの、すでに市民はそれを大事なものとして考えようとする意欲すら失っていた。もちろん、メディアも政治も騒ぎ立てるので、それを完全に気にかけないわけにはいかないが、「自分がなんと位置づけようと、無視されてしまうのがオチ」なので、敢えて「眼の前で起きていることだけに反応してみせる」という程度でこの日を過ごそうとしていた。

逆に人々が感情を高ぶらせたのは6月24日のことだった。昨年のこの日、香港紙「蘋果日報」(アップル・デイリー)が最後の新聞を発行して廃刊した。同時に、記者や印刷担当ら1000人を超える人たちが職を失った。幹部らは「香港国家安全維持法」(以下、国家安全法)違反で逮捕され、裁判すら始まっていないのに今も獄に繋がれたままだ。

この日多くの「元」記者たち、そしてメディア従事者たち、さらには元読者たち、さらには支持者たち(わたしは購読者ではなかったが、たぶんここに含まれる)が、アップル・デイリーの思い出や、かつての報道、さらにはその後の記者たちの姿などを伝える書き込みをSNSに流した。

その数といったら、まるで「ここでこの事件を忘れさせてなるものか」という怨念を感じるほどだった。多くの人たちにとって大事なのは、お仕着せでしかない7月1日よりも「我われの思いが潰された」という怒りや恨みがこもった6月24日だった。

林鄭・前行政長官は、「政府が潰したわけではない。彼らが自分で運営停止を決定した」とうそぶいたが、上場企業の銀行口座を容疑が決定する前から凍結するというあらっぽい手段を取ったのは政府当局である。それでどうやったら企業が運営を続けられるのか? だが、今ではそう切り返すメディアもほぼ存在しなくなってしまった。

このアップル・デイリーの「お取り潰し」の半年後、ネットメディア「立場新聞」が警察の国家安全処の家宅捜索を受けた。この「立場新聞」は2019年のデモで動画を使った現場報道に力を入れ、また鋭く問題に切り込む姿勢が高く評価され、過去2回の世論調査でも「市民に最も信頼されるネットメディア」に選ばれている人気メディアだった。

摘発容疑は、国家安全法ではなく刑事犯罪条例の「扇動刊行物発行共謀罪」。元編集長、現代理編集長らが逮捕され、さらにはすでにその半年前に全員辞職していた顧問らも同時に逮捕された。そしてやはり銀行口座を凍結されたのをきっかけに、逮捕を免れた管理スタッフが運営停止を決めた。

さらに、年が明けるとすぐに、民主派支持を打ち出すメディアにおいて「最後の砦」とみなされていたネットメディア「衆新聞」も運営中止を発表し、多くの人たちを驚かせた。

この間にも、公共放送だが大変質の良い番組を作ることで定評のあった「香港電台」(RTHK)の社会派報道番組が次々と打ち切りになり、製作スタッフたちが流出。その他個別のメディアから民主視点の記者たちが職場を離れるしかない状況に追い込まれ、さらには民主派コラムニストたちも次々に執筆の場を奪われる状況が現在も続いている。

こうした、急速なメディア環境の縮小で職を失った人の数は数千人に上る。わずか1年弱の間に起きたメディア生態の激変は多くの関係者にトラウマをもたらし、実際にかなりの数の人たちが精神不安に陥り、治療を受けていると聞く。

●「もやもや」だらけの報道

わたしはその関係者の一人に、意地悪であることを知りながら、「報道の自由を守らなければと叫んでいたあなたたちが、なぜ自ら持ち場を放棄する形でメディアを閉鎖してしまったのか?」と尋ねたことがある。するとその人物はこう答えた。

「我われは、渦の中に身を置く人間の視点で考えた。このまま、しがみついて逮捕されるのを待つか、それとも生存し続けるのを待つか。激論が続いた。他メディアの閉鎖によって転職してきた同僚の中には、閉鎖だけは止めてくれという人もいた。だが、『生き続ける』ことに意味がある。みなが根こそぎ逮捕されてしまえば、何もできなくなる。だから『生存』に賭けた」

つまり、「命あっての物種」か…正直、この答えを聞いた時には半分納得しながら、半分は「威勢がよかったあのときは何処へ」と考えていた。しかし、メディアだけではなく、香港中を覆う「恐怖感」を体験してみれば、そんな彼らを責めることはできなかった。ただただ、残念だった。

実際、香港ではアップル・デイリーが無くなって以来、「新聞を読まなくなった」という人が圧倒的に増えた。そして、RTHKの社会派番組粛清後に「テレビニュースを見なくなった」という人もいる。さらに「立場新聞」や「衆新聞」が消えた結果、残った既存マスメディアにも大きな変化が現れた。

それは、既存マスメディアが記事に「疑問」や「独自の分析」、あるいは参考意見を挟まなくなったことだ。たとえば、政府の活動に関する報道では、記者がそこで見たこと考えたことよりも、そして高官が語ったこと、政府の担当者が配布したのであろう文字資料以上の文句が報道に現れなくなった。

以前なら、記者からの鋭い質問に対して高官が答えをぼかすと、「焦点を外した」とはっきり書き込まれていた。だが、昨今の記事ではたとえ答えが噛み合っていなくても、相手が言った言葉を書き込んで終わり。本来ならそこに生まれる疑問や疑念などは一切書き込まれなくなった。

その結果、ニュースは流れても、それがなぜニュースなのかのポイントが見えにくくなった。たとえば今年2月、新型コロナ対策のために李家超・保安局長(当時)がわざわざ担当者を引率して深センで中国政府の要人と会見した。それがニュースとして流れた翌日、なぜか再び、ほとんど同じ内容の記事が大きく取り上げられていた。…なぜだ?

その後、前述の元メディア関係者と話をして、初めて同じ出来事を伝える記事がなぜ2日間も大きく取り上げられていたのかがわかった。2日目の記事が取り上げた政府の正式発表には、1日目の記事には出ていたある高官の名前がなかったのである。だが、そこには「なぜ」その名前がなかったのかは、発表されていないので触れられていない。だが、丁寧に2日間の報道を読み比べて初めて、その人物が2日目報道から消えているというのが分かる仕組みになっていた。

先の関係者は、その人物の名前が表舞台から消えた裏にはなにやら政治的な「もやもや」があるらしい、と言った。その時点ではまだそれは又聞きの状態で確証は取れていないが、その人物が勤めていたメディアが「もし解散せず、まだあったら」、きっと取材したはずだと言った。だが、それはわたしが聞いても本当ならかなり衝撃的な裏話だったが、記事になれば国家安全法や「煽動罪」を口実に取締りの対象になる可能性がある話だった。

実際に前述の記事を書いた記者たちはその理由はともかく、「もやもや」に気づいている。だが、生き残った既存メディアでそれを書く空間はすでに残されていない。「公式に明らかにされていないこと」は、たとえ疑問形であろうとも下手に文字にできなくなってしまった。

それが今の香港のメディアを覆う「現実」である。

●「生き残」り、育ち始めた芽

特筆しておきたいのは、そうやってメディアが姿を消し、残ったメディアが萎縮、収縮するなかで、新しい芽も生まれていることである。

アップル・デイリーや立場新聞、衆新聞、そして先に述べたさまざまな理由で外野に出ていかざるを得なくなった記者たちの中から、ネットを使った個人メディアを立ち上げる人が出てきたのだ。

そんなメディアは主にフェイスブックやYouTube、そして課金ブログ型サイト「Patreon」などを舞台に「報道」を続けている。「アップル・デイリー」消失1周年を期に、あるフリーランスのジャーナリストがまとめたところによると、その数少なく見積もっても40を超えている。

それらは2、3人がグループを組んだものもあるものの、ほとんどが基本的に動きやすく、コストがかからない個人メディアの形を取っている。そのため、記者個人が得意とする分野が違うため、取り扱う分野もアカウントごとに政治だったり経済だったり、スポーツだったりエンタメだったり、歴史や文化だったり、旅行や世界知識だったり、IT情報だったり、報道だったり評論だったり分析だったり情報提供だったり、とそれぞれに異なっている。

どうやってSNS上のそれらを信用するか? 信用できるのか? と疑問も湧くだろう。だが、個人的に知る信頼できるジャーナリストや元メディア関係者がそれらの記事をシェアしたり、論評しているのを読めば、一目瞭然である。

そのほとんどは記者の名前すら書かれていない。「報道」と言いつつ名乗らないのは、名前を出すことで被る危険を避けるためだ。だからこそ、信頼できる人たちによる「推薦」が活きるのである。実際にすでにそのうちの3分の1から半分はすでにわたしにとっても日々の情報を知る上で大事な情報源になっている。

――つまり、これが「『生き続ける』ことに意味がある」という意味だったのだ。大きなメディアの機構から放り出された種子が今、それぞれに土から芽を出し始めたのである。今や「一人メディア」の彼らだが、一人で手に負えないとなれば元の仲間たちと協力して取材をすることもできる。そしてまた、動きやすい一人に戻っていくこともできるのだ。

●香港人ジャーナリストがみた習近平演説

ここに、先のリストにある「林妙茵 Miu」さんが、主権返還記念日の7月1日に発表した論説記事の全文を翻訳してご覧いただこう。

林さんは2020年12月まで、香港ケーブルテレビの政治ニュースプロデューサーを務めていた。だが、同テレビに体制派管理職が雇用され、報道室で大幅な首切りが行われたことに抗議して局を去ったジャーナリストの一人である。今は一部メディアで定期的に政治コラムを書いているが、敢えてメディアに職を求めるつもりはないと語る。

この論説は主権返還式典での習近平の演説について書かれているが、日本のマスメディア各社の報道記事とはまったく違う視点、つまり当事者の一人としての香港人ジャーナリストの視点をそこに見ることができるはずだ。

なお、翻訳中の[]は、日本人読者がわかりやすいようにわたしがつけた注釈及び補足である。

【林妙茵:過去最多だった「高度な自治」】

ここ2年ほとんど外へ出かけていない習近平・国家主席が最初の旅に香港を選んだこと、その姿勢は大変な意義を持っている。彼は連日のように演説を行い、香港が「雨風」や「大嵐」を経たと繰り返したことは、ある種の慰めや激励の意味があるようだ。来訪前には彼が大きなギフトを香港にもたらすと言われ、友人の中には「ギフトで不動産市場が盛り返してから、マンションを売る」、そして移民するつもりだという人もいるので、今朝の演説でどんな話をするのか、わざわざ聞いてみた。

◎「一国二制度」は長期に維持しなければならない

香港基本法には「50年不変」と書きこまれて、今その真ん中に来たわけだが、2047年はどうなるのだろう? 習近平は今回、国の最高指導者の身分でその公開の演説で、「『一国二制度』は実践によって繰り返し検証されたものであり、国や民族の根本利益に見合い、香港やマカオの根本利益に見合い、14億あまりの祖国人民の強力な支持を得ており、一般に国際社会の賛同も受けている」と述べた。今これを書いているところに体制派議員の宣伝メッセージが流れてきたが、そこには「習主席が安心を振りまいた」と書かれていた。この態度表明自体が「大きなギフト」なのだろう。少なくとも「さぁ、わたしは50年経ったからといってすぐに『一国二制度』を止めることはないぞ、いいもんなんだから、やめる理由はない。きっと続けるぞ」と宣言したに等しいのだから。但し、4分の1世紀を経て、「一国二制度」は誰の目にも、それ自体が生命力を持ち、その設計は非常にフレキシブルであり、いかなる状況にも対応でき、さまざまな手段を受け入れるものであることは疑う余地はなくなっている。もしわたしが中央指導者なら、わたしだってきっとこの看板をかかげ続けるだろう。

◎7回も繰り返された「高度な自治」

習はその演説の中で何度も「高度な自治」を繰り返した。それは、1998年(返還1周年、江沢民が来訪)、2002年(返還5周年、江沢民)、2007年(10周年、胡錦濤)、2012年(15周年、胡錦濤)、2017年(20周年、習近平)と、過去の返還記念式典上における指導者たちと比べても最多であった(1998年は1回、2002年1回、2007年5回、2012年3回、2017年1回、2022年7回)。

回数の他に、その中身も大事である。返還初期の江沢民が「高度な自治」を口にしたのは、ほとんどが中央政府の香港に対する政策における「十二文字の要言」に触れたときであり、例えば「『一国二制度』『港人治港』『高度な自治』を維持する」といった具合だった。2007年の胡錦濤の時代になると、その持ち出し方がちょっぴり変化し、「『一刻』とは中央政府が法に基づいて有する権利を守り、国家の主権統一、安全を守ることである。『二制度』とは、香港特別行政区が法に基づいて有する高度な自治権を保証し、行政長官と特区政府の法に基づいた姿勢を支持することである」となった。わたしはこれを、「こっちも、あっちも」の関係だと理解した。

2012年つまり10年前には、近年の論調が文字化された。たとえば、「根本的出発点と立脚点は、国家主権、国家安全、国家の発展利益を維持することであり…」などがそれだ。さらにこのとき、「中央権力の維持と特別行政区の高度な自治権を保障すること…を有機的に結びつけ、いかなる時も片方をおろそかにしてはならない」という物言いが初めて出現した。これは「こっちも、あっちも」の「合成」だった。2017年の習近平も同じような物言いをしている。

しかし、今回はさらに一歩踏み込んで、「中央政府の全面的統治権を維持し、特別行政区の高度な自治権の保障をそれに統一する」と述べた。また、中央政府の全面的な統治権を「特区における高度な自治権の来源」とみなし、中央政府の全面的な統治権の実施は、香港の高度な自治権の保障と「統一整合したもの」と主張した。

いかに「整合」するのか? どんな点において「整合」するのか? 今後、特区政府が高度な自治権を施行する際に、ある種の制度配置、あるいは行政メカニズムを中央政府の統治権と「整合」するという意味なのだろうか? 本日の演説で7回も「高度な自治」に触れたのは、その概念を再構築するための布石ではないのか? 注意しておきたい。

◎三権の関係

2008年7月、国家副主席だった習近平が香港を訪れ、香港政府高官と会見した際、「道理をわきまえ情理にかない、団結した高効率な…行政、立法、司法の三つの機関が相互に理解し、相互に支え合う」としたことが、大きな話題になった。そして、2017年に国家主席として7月1日に香港を訪れ、新政府の行政、立法、そして司法機関の責任者と会見した時にこう述べた。

「行政機関の主要官吏であろうと、また立法、司法機関の責任者であろうと、国の概念を持つべきである…国の立場に立って観察し、問題を考え、国家の主権、安全、発展の利益の維持を自覚し、国家としての責任を果たす習慣を持つべきである」

今回の習近平の論述はこうだった。

「特別行政区はしっかりと行政主導の体制を実施し、行政、立法、司法機関は香港基本法と関連法規に照らしてその職責を履行し、行政機関と立法機関が相互にバランスを取り合い、また協力し合い、司法機関は法に基づいて独立して司法権を行使する」

ここでは[2年前に盛んに使われた]「三権の相互協力」という言葉は直接用いられなかった。演説では「コモン・ロー」が2回出てきたが、それらは香港の独特の地位と優位性について語った時に触れたもので、その「金箔の大看板」(新たに司法長官に就任した[元法廷弁護士公会主席の]林定国氏の言葉)の価値を非常に重視しているかのように見える。

ちょっと脇にそれるが、5年前に習近平は新しい行政長官と政府高官に面談した時、それぞれに演説を行い、その動画も公開されている。今日の[政府の広報担当局]新聞処が公開した動画は[行政長官や高官ら]全員による記念写真撮影前の挨拶だけで、国家主席の発言は含まれていない。また、習近平と[新行政長官の]李家超の面談の動画はわずか12秒という短かさだった。5年前の林鄭月娥のときには二人が言葉を掛け合う様子が2分半に渡って撮影されていたのに比べると、大きな違いである。

◎4つの希望を読み直して感じる不足

この点は誰もが気づいているはずなので、多くは語らない。習近平が触れた4つの希望とは、「政府は治政レベルの引き上げに努力すること」「発展の動力を絶えず増強すること」「民生面における不安の排除、解決にきちんと努めること」「共同で平和安定を保護すること」である。これはどれも過去5年間の林鄭月娥政府が最もうまくやれなかったところだ、と彼の目には映っているのだろう。特に最初の希望は非常に直接的、はっきりと「急務」と言われたことを、舞台の下に座っていた林鄭氏はどんな気持ちで聞いたのだろうか。

返還式典中の一幕:
上段左側が林氏、同真ん中はトウ炳強・保安局長、右側が林鄭月娥・前行政長官

こんなこと以上に人々の関心をさらに引いてしまったのが、[林鄭長官の夫]林兆波氏の白い靴下、座位、船を漕ぐ姿だった。5年前、まったく同じ場で彼が穿いていた白い靴下は、皆の笑いものになった。意外にも、今日のあの白い靴下はわたしにとってある種の慰めとなった。それはまるで、「after all these years」(月日は経ったが)、彼は変わっていないのだ、心から好きなことであれば、世界中に上から下までどれほど酷評されたとしても、いかに天地が崩れ落ちようと、心を貫き、初心を失わなければ最後にはそれが「スタイル」になっていくのだ、と皆に教えてくれているように感じられた。

たかが一回の演説のためにこんなにだらだら書き連ねるわたしを、「ナンセンスだ」とか、「まじで負け犬だな」と思う人もきっといるだろう。だが、もしかしたら、これは神が敢えて一部の人間に、特権階級の演説を真に受けて真剣に意見を述べるよう仕向けておられるのかもしれないのだ。

主権返還から25年目の今日、この書き込みは間違いなくちょっとばかり目障りで、場違いだろう。まるで正装した人たちの間に突然現れた白い靴下のように。でも、わたしはそれでも負けはしないと信じ続けたい。

(原文:「提『高度自治』最多的一次」

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