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【全文無料公開・ぶんぶくちゃいな】元中共党党校教授が語る「江沢民の政治遺産」(後編)

先週に引き続き、「ニューヨーク・タイムズ 中国語版」の袁莉・編集長が聞き手役を務めるポッドキャスト「不明白播客」から、11月30日に亡くなった江沢民・元国家主席について、中国共産党幹部を育成する中央党校の教授を務めておられた蔡霞さんのお話の後編をお送りする。

前編はこちら:

後編では、江沢民を押さえつけた共産党本来の性質の他、江自身の「弱さ」や複雑さ、身勝手さなどに触れ、党内改革や胡錦濤、習近平という後継者に対する態度、さらには大きな議論を生んだ法輪功事件に対する対応など、主に彼の失策について、党関係者以外が知らなかった情報も交えて、蔡教授が分析している。

前編よりも長いものになったが、今回はさまざまな話題が語られており、なかなか興味深い「中国共産党」の分析にもなっている。ゆっくりとした時間をとってじっくり読んでいただきたい。

袁莉さん、蔡霞教授についてのご紹介は前編を参照のこと。なお、文中、[]で示した部分はすべて訳者である筆者による補足と注釈である。


◎Vlog「不明白播客」(聞き手・袁莉):蔡霞・元中国共産党中央党校教授が語る「江沢民の政治遺産」(後編)

●中国共産党の身勝手さ

蔡霞:ここできちんと言っておきたいのは、中国共産党というのはその実、ものすごく下心だらけだということです。

袁莉:…というのは?

蔡霞:江沢民は前進しなければと心に決めてはいましたが、共産党のもつ本質の、いわゆる社会主義制度からくる制約を受けていました。彼は経済の急速発展を口にし、そのための政治的な条件作りをすべきだったのにそれができなかった。つまり、経済発展を求めつつも、共産党の利益独占という立場を手放せなかったわけです。

袁莉:(ため息)

蔡霞:さらには、そんな社会を人びとが公平だと認めるよう願っていた。…そんなの可能ですかね?

まずやろうとしたことが豊かになるということでした。中国共産党だって豊かになりたかった。民衆ももう貧しさに疲れてしまい、もっと豊かになりたいと思っていた。誰もが貧困や時代遅れといった事態を変えてしまいたかった。そして、東西南北の誰もが、自分も「先に富んだ者」の一人になりたいと考えていたわけです。

彼が切り開いたのはそのための大きな空間でした。でも事態はそんなにバランス良く進むわけはない。

一部が経済的に豊かにならなければならないとすれば、真っ先に豊かになるのは誰か?

民衆が自分の勤勉さとその知恵によって、市場経済体制が提供する公平で合理的な競争環境に頼って豊かになるのか。それとも官吏を含む共産党の人間が手中に握った権力を使い、開放された市場空間に乗り込んで民間の資源を奪い取り、先に豊かになるか。そしてわたしたちが実際に目にしたのは、権力が民間の海に下り、その手にした権力で利益を奪うシーンでした。市場経済のドアは開いたものの、そのまま市場経済の中に伸ばされた権力の手は断ち切られなかった。

中国と西洋諸国とでは、その市場経済の育ち方は違います。

西洋社会の市場経済はもとは小規模農家の狭く、小さな範囲での市場監管から始まって、現代的、社会的な大型市場経済へと成長したもので、その発展は自然的に発生したものです。その過程において、それぞれ契約や法制度、多元化された利益を基礎とする利益面での訴求、民主の成長、さらには政治制度や思想文化、概念理論に対する探求などが出現し、ともに成長を遂げた。それがはっきりと見て取れる典型的な国がイギリスですね。

もう一方の市場経済は国家権力によって推進されたもので、政府が早く、多くの税収を受けられるよう、そして政府も強大になれるようにという目的をもって発展したものです。国が推進し、国が主導権を握る市場経済です。中国共産党が進めてきたのは後者です。

政府が推進し、国が主導権を握る場合、そこでは当然、権力が大きな役割を果たします。ですから、市場経済によって利益を生む空間が広がっても市場に伸びた権力の手を断ち切られなければ、暴利と巨額の利益を受けるのは誰か? 共産党ですよね。そうやって、官吏の腐敗が大量に起きたわけです。

江沢民にはそれが見えていなかったのか? いいえ、彼の目にはちゃんと映っていました。彼は官吏の個人的なふるまいを挙げて「腐敗はダメだ」と伝えようとしていました。この点は皆に見過ごされてしまった。

当時の[中央党校にいた]我われはその意図に気づいていました。というのも、彼は1995年から政治を語り始めた。その点はみんな覚えているはずです。彼はその頃から、政治、学習、正しい気風[*7]について、さらにはまた政治を語り、大局について語り始めた。

[*7]政治、学習、正しい気風:1995年に江沢民が提唱した、党幹部の教育指導意見「三講教育」の3つの柱のこと。

●中国共産党の汚職の土壌とは

袁莉:中国は以前、シンガポールを目標にしていましたよね? でもその後よく言われたのは、当時はシンガポールがいかに対外的に開放したかを学んだものの、シンガポールが法治社会であることを学ばなかった、と。制度にいかに問題があろうとも、法治社会であれば法が最も強い力を持つ。江沢民もトウ小平(「トウ」は「登」におおざと)も、彼らはその点を学ばなかった。それは彼らにとって法が大きくなってはならなかったから、党のほうが法よりも大きな立場でなくてはならなかったからですよね? だから、こうした腐敗の問題は回避することができなかった、権力が法より強かったからです。

蔡霞:そのとおり、その点はとても大事です。

実のところ共産党は長期に渡り、いわゆる「社会主義」という4つの文字を維持してはいるものの、きちんとそれを分析できずにいます。

社会主義は本質的に二つから成るものです。

一つは、一党が政権を独占すること。共産党が政権を独占しない国は社会主義とは呼べず、新民主主義になってしまう。そうでなくて社会主義でなければならないとしたのは、レーニンが共産党が国の政権を握らなければ、さらに独占的な政権とならなければならないと言ったからです。この理論を提起したのはマルクスではなく、レーニンでした。

つまり、共産党最初の本質は、党が国の主導権を握り、そこから政権を独占し、他の政党や党派にはその一辺も触れさせてはならないということ。他派が花瓶となって彩りを与えるのは許し、意見を述べることも構わないが、権力を与えてほしいと思ってはならないんです。

本質の2つ目は、共有制です。共有には明確な主人は存在せず、共有とは国有であり、国有とは官吏が所有することであり、共産党が所有するということになるわけです。

共産党というのは政治的な名義上の団体で、実際には個人、共産党の官吏によって構成されています。党員はそこに引きずり込まれた存在で、多少の利益を得たり、残り汁を吸わせてもらうことができますが、一般庶民はその残り汁すらも分けてもらえないのです。中の肉は共産党のトップ官吏たちが食べてしまう。そうやって彼らは国有や共有という名義を握っている。

つまり、中央国有企業[*8]とは、共産党のお財布です。それは決して[共産党員の]9000万人ではなく、党幹部たちが分け合うだけの存在なんです。

[*8]中央国有企業:社会主義制度をとる中国では国有企業は大きな経済の柱となっているが、その中で中央政府直轄の大型企業を指す。なお、地方政府直轄の企業も本文で語られている公有制の視点からやはり「国有企業」と呼ばれており、それと区分する際に使われる言葉でもある。

共産党の独占政権と共有制度が社会主義の二つの柱になっているのです。共有、国有という名義によって、すべての資源は共産党に独占されているわけです。そこで得られたものを受け取るのも共産党なんです。

だからこそ、市場経済が法治を叶えていくことは永遠に起こりません。それは政府がコントロールし主導する市場との交換行為が行われるだけです。そして、市場交換とはただの手段であり、国の経済生活の根本的な制度や根本的な環境を根っこから変えていくものにはならないのです。

つまり、この点は江沢民個人の限界というより、共産党の根幹にあるものが江沢民という国家指導者、政党指導者に巨大な束縛と制約をもたらしたわけです。個人の力ではそれを打破することはできませんでした。

なのに、なぜわたしは「江沢民には勇気がなかった」と言うのか。それは、彼は党の指導者、国家指導者の位置を手に入れたのですから、大きな勇気を持ってその束縛を打ち破ってみせようとすべきだったからです。でも、それをやろうとしなかった。というのも、彼は打ち破ろった後の結果に気がついていたからです。

その結果とはなにか? 法が強くなることです。法律がものを言うようになれば、共産党の力は削がれてしまいます。その独占的な地位も失われてしまう。そして一旦、共産党の独占的な立場が打ち破られれば、すべての強権が失われることになってしまう。

つまり、一党専制、一党独裁という政治的な地位がゆっくりと、そして必ず民主選挙や政治競争へと向かっていくことになる。だから、彼にはそこに向けた門戸を開くことができなかった。そのため、彼が呼びかけた党内の腐敗撲滅運動もまた、永遠に党員や官吏個人に向けた要求レベルの、道徳的なレベルにとどまってしまった。

彼はたびたび「徳による治国」や「法による治国」の両挙を呼びかけたものの、実際には「法による治国」を行えなかった。というのも、法律が向けられるのはまずどこか? …政府権力の管理と監督ですよね。だから彼は絶対に手を付けることができなかった。その一方で彼は中国共産党員の腐敗が急速に広まっているのも目にしていた。だから彼は党員に対してそれぞれの道徳や党の規律意識を高めよ、官吏グループ内の腐敗撲滅を強化せよなどと頻繁に呼びかけることで、その広がりを抑えようとしたのです。

わたしは[腐敗を止められなかったのは]江沢民個人の問題だとは思いません。その現象は確かに江沢民の時代に起きたわけですが、その根っこは彼個人にあるわけではありません。彼の最も大きな欠点はしがらみを突破するための勇気がなかったことです。彼にはそれができたはずなのに、やろうとしなかった。そして腐敗が急速に広がった。

●太子党と紅二代、そして官二代

蔡霞:さっきわたしは共産党は非常に自分勝手な党であるといいましたよね。

袁莉:そこに異論はないですね(笑)。

蔡霞:それは、わたしがある人物とのおしゃべりの中で実際に耳にした体験に基づくものです。

その人物はわたしの両親の戦友[*9]の子どもで、わたしの北京育ちの幼馴染に関わることなのでその名前は伏せますが、彼は軍に入りました。彼はその立場を利用して利益を得ることはしていませんでした。

[*9]わたしの両親の戦友:前編で簡単にご紹介したとおり、蔡霞教授のご両親は中国人民解放軍人であった。軍関係者は軍の団地で生活しており、そのためその子どもたちも小さな頃からの幼馴染として育つケースがほとんどだった。もちろん、親の後をついで入隊して幹部になる人も少なくない。

それは彼と、市場経済の成長において党内部の腐敗が急速に広がっているという話をしていたときのことでした。

当時、「紅二代」や「太子党」[*10]がそこで急速に富を増やしていた。最初は官職や地位を利用したブローカー行為から始まり、紅二代の中から空手形や二重価格[*11]を利用して財を成した人がおり、市場経済でまた同じような手段によって蓄財していた。そこでわたしは、そんなやり方で豊かになるのは間違っていると彼に言ったんです。

[*10]「紅二代」や「太子党」:中国共産党幹部の子女を指す。自身が幹部かどうかに関わらず、共産党の傘の下で特権階級としてさまざまな権利を行使できる中で育ち、同時に同じような身分の者たちと小さな頃からともに育ってきたこともあり、篤い共産党人脈を有しているとされる。
[*11]二重価格:中国共産党がもともと推進していた計画経済体制から市場経済体制に移行する時期に存在していた物品価格制度。本文では計画経済ではすべて一律に価格が固定されていたものを、市場経済で需要と供給に応じた可動価格で販売して、利益を得る手法をいう。党内の人脈を使って固定価格の商品を仕入れ、市場で売る行為によって財をなすことができた。

すると彼が言ったんです。断っておくと、彼は日頃から軍幹部と付き合っていて、その回数やチャンスはわたしよりずっと多いですし、そこで彼が見聞きした話は、ほんの内輪の話だったはずですが、彼はこう言った。

「でも考えてごらんよ。自分たちの仲間をまず豊かにさせることなく、他人を先に豊かにさせるの? もし他人を先に豊かにさせてしまえば、経済的な豊かさを手にしてから政治的な要求を求めてこないとでも思ってる?」

彼は「他人を先に豊かにさせるのはまずい、まずは自分たちが豊かになってこそ安全だ」と言うんです。個人的なおしゃべりの場だで、公開された学術的な場とかの発言ではありませんでしたから、今までこの話を口外したことはありませんが。

袁莉:…うわぁ、ものすごく現実味があります。

蔡霞:彼は「そんなふうに考えたことはない?」と言ったけど…当時のわたしにはまったくそういう視点はなかった。彼は、豊かになるのは危険なことだから、「まず誰よりも自分たちが豊かにならなくては」と言ったんです。

つまり、江沢民が道徳によって党員や幹部を制約し、腐敗しないようにと求めていたものの、制度の改革は進まず、皆が自分の抜け道だけは残そうとしていたということ。その抜け道のことは江沢民も知っていた。というのも、彼自身が自分のために残しておいた抜け道であり、それが党全体に蔓延していた。それが共産党の本質なんですよ。

そんなだったから、紅二代は悔しく思っている。というのも、紅二代の間で豊かになった人は少数でした。多くの彼らの両親は早くに亡くなり、早くに権力から離れてしまった。だから、中国で本当の意味で豊かになれたのは官二代と官三代[*12]だったんです。

[*12]官二代と官三代:「紅二代」は共産党幹部の子女を指すが、「官二代」(あるいは官三代)とは官僚や政府の高官の子女たちを指す。共産党と政府のトップがほぼ重なる中国では紅二代を含むこともあって混同されやすいが、たとえば、軍人の子女は「紅二代」であっても「官二代」ではないケースがある。「紅」はあくまでも共産党員、そして「官」は官吏を指し、本文で語られているように線引も存在する。

実際に中央国有企業ではいくつかの大家族が実権を握っています。たとえば石油業界はどこの一家が、電力はどこの一家が、鉱石は…とね。すでに一般にも知られていますよね。その家族というのは紅二代ではなく、官二代です。ですから紅二代は官二代を大変嫌っている。紅二代と官二代は一緒くたにして語られることが多いですが、大きな違いがあるんですよ。

袁莉:対立関係にあるんですね。

蔡霞:もちろん、紅二代と官二代が婚姻によって結びついた例もあります。それによって共同で利益を手に入れることができたわけです。

●中央権力のお膝元、北京の官僚たち

蔡霞:ですから、腐敗蔓延は個人の問題ではないんです。江沢民が努力をしなかったわけではありません。1995年に彼は学びを語り、正しい気風を語り、政治を語り、そして耳を傾けるようにと求めた。そして、彼は当時北京市長だった陳希同[*13]を引きずり下ろした。というのも、陳希同が彼の言葉に耳を貸そうとしなかったからです。

[*13]陳希同:中国の政治家。1983年から93年まで北京市長を務め、1989年の天安門事件の際にはお膝元の天安門広場に集まった学生と対話を試みたりもしたが、同年4月に運動を「反党・反社会的な政治闘争」と定義したとされる。1995年、共産党中央政治局委員の身分だったにも関わらず、当時北京市内最大の不動産建設に関わる汚職事件の容疑をかけられて失脚、社会を激震させた。その後息子も逮捕されている。2004年に病気治療のため保釈されたが、2013年に死去。

陳は[天安門事件後に国家指導者に抜擢された]江に不満を抱えていました。トウ小平が天安門事件を鎮圧するとき、自分たち北京市党政府の協力なくしてそれが可能だったか? なのに[トウは]上海から江沢民を連れてきてトップに据えた。国を守るために銃を撃ったのは自分たちなのに、江沢民がその収穫をかっさらったと陳は考えていたのです。

さらにその地位に就いた江沢民は、上海の官僚を連れてきて中央政府の要職につけた。一体なにさまなのだ?と、北京の官吏たちの気持ちは収まらなかった。

こうした官僚間の対立は、[杭州市長から北京市場に抜擢された]蔡奇[*14]の時にもありました。当初、彼がなぜ北京に来たのだろうと北京の官吏たちが訝しんだ。すると、彼は2017年に北京の出稼ぎ労働者の追い出し行動を起こした。あれは激しい怒りと不満の声が上がった。彼の低層生活者に対する、特に厳しく、残酷な手段は国民の間で激しい反感を巻き起こした。それと同時に、北京の官僚社会は彼に蔑みの目を向けるようになり、もともと彼のために働こうとしていなかったところにさらに強固な不協力姿勢が出来上がったんです。

[*14]蔡奇:福建省出身の政治家で、福建省から浙江省へ、さらに同省の中心都市杭州市の市長、党書記を歴任し、浙江省党委員会副書記から2014年に中央国家安全委員会に転任した。さらに2016年に北京市党委員会副書記に任命され、2017年に同市長に。また同年秋には共産党中央政治局委員として国家指導者の一人になる。2022年には中央政治局常務委員に就任した。その一足飛びともいえる出世の勢いのうらには習近平の引き立てがあり、同政権下で最も重視されている人物の一人とされる。

こうした内部の権力争いが江沢民の時代にもあり、だからこそ江が改革を進めようとしても、それを推進できなかった。そこで彼は道徳を語り、自律を求めるしかなかった。そしてそうした道徳的な自律にも、官吏世界の権力闘争が紛れ込んでおり、それは実のところあまり力のあるものではありませんでした。

1999年の上半期か下半期、あるいは2000年のことだったでしょうか、江沢民が共産党中央政治局常務委員会の「三講学習」[*7参照]の場で長いスピーチを行い、そこで自分に対する批判を行い、反省を口にしたことがあります。

最初に、党や国のために自分がしてきた長年の仕事を評価してみせました。というのも、総書記として自分の間違いや欠点を反省するにしても、党全体の功績を消し去るわけにはいかなかった。だから、この10年間に自分たちがどのような改革開放の道を歩んだか、国がいかに経済発展したかと、自分たちがやってきた仕事をまず持ち上げた。その上で自分たちにも欠点や間違いがあった、問題もあったと言ったのです。そして彼はそれを自己批判しなければならないと言い、4つの文字で語りました。

それは「見事太遅」(「遅きに失した」)でした。彼はいったい何に出遅れたと言ったのか?

当時のわたしたちはそれを法輪功[*15]に対する対応の遅れを言っているのだと受け取りました。

[*15]法輪功:気功」と呼ばれる健康療法の一つで、吉林省出身の李洪志が1990年代から始めたもの。1990年代末にはその学習者は数千万人に上るほどになり、その中には共産党員や解放軍関係者も含まれていた。1999年4月に、それまでたびたび国家安全当局の手入れを受けていた法輪功の学習者たちが、批判を繰り返していた著名学者の雑誌寄稿文に抗議して、雑誌を出版する天津の大学で抗議活動を行い、警察が出動する騒ぎが起きる。その数日後には、天津での学習者の逮捕や日頃の干渉を不服とする学習者が、党指導者が住む中南海を取り囲んで抗議の座り込みを行った。これは天安門事件以来最大の抗議活動だと記録されている。その後、江沢民は法輪功を「邪教」に認定、関係者に対する激しい弾圧や有無を言わせぬ逮捕を展開した。

●公開されなかった、江沢民の自己批判

袁莉:法輪功についてもうかがいたかった点です。というのも、彼に向けられた最も大きな非難は、法輪功に対する迫害だったからです。非常に血生臭く、残忍な事件となりましたよね。

蔡霞:ええ、わたしもそう思います。そのことについてお話する前にまず、彼が言った「遅きに失した」について説明しておきましょう。

「遅きに失した」という言葉にはさまざまな意味が想像できますが、江沢民はそれについて深く説明してくれませんでした。わたしたち中央党校の教師たちが目にしたのは彼が伝達した文書そのものだったのですが、そこにも何に対して「遅きに失した」なのかについては書かれていなかったんです。「遅きに失した」というのであればそれに続くのは「失策」のはずです。ですがそのことについて触れないまま、彼はそうやって自己批判してみせたのでした。

考えてみると、今の習近平は人や国、世界に対してあれだけむちゃくちゃな悪事を働いておきながら、一言でも自分を批判したことがあったでしょうか? 中国のSNS上で先日、目にしたのですが、中国のかつての皇帝には自分の間違いを振り返って批判する詔書の伝統があり、実際に皇帝たちが書いた批判詔書は80回もあって、うち崇禎帝[*16]は首を吊る前に2回も批判詔書を出したのに!という書き込みがありました。

[*16]崇禎帝:明朝の最後にあたる17代目の皇帝で、在位期間は1627年から44年。農民、李自成が先頭に立った反乱により追い詰められ、故宮裏の築山(眉山、現在は景山公園となっている)で首を吊って自殺した。

その後、批判詔書を出した人はいますか? トウ小平は共産党と同じで、決して間違いを認めない人だった。彼は「問題をすべて毛沢東のせいにするな。我われみんなが責任を負っている」と言ったことはありますが、自分にどんな責任があるのかについては触れたことはありません。だいたい、彼は1957年の反右派闘争[*17]の名誉回復すら邪魔しましたしね、というのもあの反右派闘争は彼が行ったことだったから。

[*17]反右派闘争:1957年に巻き起こった、中国建国後最初の大型政治運動。「右派」と認定された党内外の大量の人たちをパージした。

そんな面からすると、なぜ彼が[天安門広場で]最後に発砲を選んだのかがわかります。彼は自分の間違いを認めず、最後の最後まで抵抗し、中国共産党と庶民の対立を究極まで追い込んだ。こうして見れば、江沢民は中国共産党の中で初めて批判詔書を出したことになります。

袁莉:でも、その詔書は一般には公開されませんでしたよね?

蔡霞:そう、公開されなかった。党の中に向けてのみ語られたものです。とはいえ、党内でもどのレベルまで伝達されたのかはわたしにhもわかりません。党校の教師たちが目にできるものをすべて、中国共産党の全幹部も見ることができるとは限らないし、当然9000万人の党員は見ることはできないはずです。中央党校の教師は、党内の政策や文書にできるだけ目を通し、理解しなければならないという優先順位にありました。そうでなければ、官僚の教育はできませんからね。

それでも「遅きに失した」が何に向けて言われているのかはわかりませんでした。しかし、それでも彼には自己批判する姿勢があったことはわかります。だから、当時わたしたち内部ではさまざまな想像を凝らしました。もちろん、どれもが根拠のない、憶測でしかなかったのですが。

そのうちの一つが、トウ小平が1991年に「改革を停めてはならない、必ず前進させなければ」と提起したにも関わらず、当初彼がそれをやろうとしなかったことではないか。そして1992年の初めにトウが「改革しない者は下野せよ」と発言して初めて前向きになった。そのことを「遅きに失した」といったのかもしれません。

もう一つの可能性は腐敗の問題です。実のところ、腐敗は中国の政治体制改革に関わるもので、彼は当初、党員に対して自分を律し、道徳的に厳格になるように求めればいいと考えていたけれども、それができなかった。

彼はそれでも努力を続けていました。1995年の十五大報告では、中国の民主政治の再開について再び触れています。でも、それを推進する勇気が伴わなかった。だいたい、腐敗がすでに蔓延しているときに、どうやったらそれができるか? それは可能なのか? この点において「遅きに失した」という可能性もあったと思います。

●法輪功がもたらした衝撃

蔡霞:そして3つ目の可能性が法輪功問題でした。

法輪功が台頭してきたのは わたしの記憶では[鎮圧の]数年前からずっと、普通に存在していたと記憶しています。当時、いろんなスタイルの気功が流行っていたのですが、その中の一つだった法輪功が当局と政治的な面で対立を見せ始めた。そして天津に続いて、北京の新華門で事件が起こり、あっという間に敵対する階級闘争として語られるようになったんです。そしてすぐにそれが鎮圧され、消し去られていった。

天津の事件はある種の警告となり、続いて新華門の前に彼らが無言で座り込んだことで彼らはショックを受け、それが大変な出来事だと認識したわけです。社会勢力が立ち上がったんですから、とんでもないことだった。そこから指導者たちの「わたしの統治地位を揺らがすな」「共産党の統治を揺らがすな」「いかなる人間も我われに楯突くな」という本能が呼び覚まされた。だからこそ、彼らは法輪功に対してあれほど激しい措置を取ったのです。

そのことで江沢民はもしかしたら、「数年前から法輪功が台頭し始めていたことに自分は気づかず、それが大組織になって初めて、あんな過激な方法で対応するしかなかった。遅きに失した」と言ったのかもしれなかった。というのも、法輪功はあの当時すでに民間の信仰宗教として台頭し、かなり広い範囲の人たち、それこそ共産党内部の老人たちも巻き込んでいたのですから!

法輪功はその結果、共産党の党構築面において、社会全体の人たちを巻き込んだ存在として反面教師となり、思想面に刺激ももたらしました。共産党が社会統治能力、社会コントロール力に力を入れるようになったのはあの法輪功の事件以降でした。つまり、反面教師となったわけですね。

習近平も先日、「旧ソ連はカラー革命[*18]以降、男が一人もいなくなった」と発言しましたが、彼はそうやって逆の視点から旧ソ連、東欧のカラー革命の教訓を汲み取り、中国共産党の統治に反映させていこうとしているわけです。

[*18]カラー革命:旧ソ連崩壊後の2000年頃から、元ソ連だった東欧や中央アジア諸国で民主化を求めて起きた運動によって起きた政権交代のこと。

蔡霞:当時、中国共産党が法輪功事件をいかに処理したのかについて、わたしは内幕を知っているわけではありません。ただ、当時の文書について耳にすることはありました。わたしが党校に入ったのは1992年のことで、法輪功関連の文書を受け取ったのはその8年後くらい後、たしか99年から2000年のことでした。

あの日、学校が全員を呼び集め、大講堂で伝達文書が読み上げられました。教師は全員参加しなければならないといわれ、欠席は許されていなかったのでわたしも出席しました。そこでは学校の指導幹部7人が「中国共産党内部における法輪功に関する処理」と題された7本の文書をそれぞれ30分読み、合計3時間半かけて読み上げたのです。その7本の文書で使われていた言葉は文革時代の用語で、わたしはびっくりしてしまいました。

なぜこの文書に、文革の時代に使われた階級闘争ムードたっぷりの言葉が使われているのだろう?と驚愕しました。そして思ったのは、「[文革が終了した]1978年からすでにほぼ20年、改革開放からも20年が経っているのに、なぜなにかの問題に直面するとわたしたちの思考方法や言葉遣いは、無意識に文革のような方法で問題を論じるの?」ということでした。

次に驚いたのはその文書が触れた一文です。それは「我われと法輪功の戦いは、党と国家の生死存亡に関わる深刻な闘争である」というものでした。

これを聞いて、「あまりにも法輪功を持ち上げすぎてない?」と思ったのです。相手はたかが民間の一宗教、そして共産党の手には銃もお金もすべてが握られている。どうしたら相手がその地位やその統治を揺り動かせるというの?

その伝達の場で聞いたその言葉に、わたしは自分を抑えきれませんでした。わたしはそれまでも言いたいことをはっきりと口にしてきた人間でしたから、すぐにわたしの先輩、我われの学校で副校長を務め、管理論を担当している副校長に、「中央指導部はなぜあれほど法輪功を持ち上げるの? 共産党の政権を彼らが揺り動かすですって? 党と国の生死に関わる深刻な闘争ですって? ありえないわ。あまりに持ち上げすぎていて、大げさすぎるわ」と伝えました。

そしてさらに、「そこまで言ってしまうのは、共産党政権がとても脆弱で、他者からのちょっとした衝撃にも耐えられない弱い存在だと言ってしまったようなもの」とも言いました。「あんなの、国家政権の生死存亡にかかわる深刻な闘争なんてものじゃなく、思想的に中国共産党と民衆の心を奪い合っているだけよ」と。

●法輪功は共産党の弱点をあばきだした

蔡霞:当時、わたしはちょうど「共産党人の価値観」という博士論文を書き終えたばかりでした。それは、急激に変化する社会において、共産党人の持つ凝り固まった伝統的、古臭いイデオロギーでは党内の思想の一致を目指すことはできないし、社会の各分野の人たちを団結させることはできないと論じたものでした。

というのも、共産党の価値観念とは、「理想への信念を堅持し、人民に服務する精神を堅持するといったあれやこれやの堅持によって新しい概念を生み出し、そこから実際に人びとに国の発展を見せることができ、人民は利益を手にすることができる。共産党が前進を代表し、正義を代表するからこそ、党内の人たち、そして社会の思想的な承認を得ることができる」と主張するものだったからです。

わたしはずっとイデオロギーを研究してきた人間です。だから、あれは人の心を取り合う闘争だと感じました。逆の言い方をすると、共産党のイデオロギーはまさに一撃で萎えてしまようなものだったということです。つまり、そこには信仰がなく、その思想的資源は枯れており、その理論資源もまた枯渇していて、[事件によって]そのような枯渇した自らの状況を変える必要に迫られていた。どうやってこの社会をまとめ上げ、団結させるのか? だからこそ、そのイデオロギー自体を発展と更新を続けていく必要があったのです。

そこに法輪功が、共産党自らのイデオロギーではすでに社会をまとめ上げることができなくなっているということを暴露してしまった。ある社会、ある国で、人びとの精神が空っぽになれば、その真空状態にさまざまな思想や文化、理念が流れ込む。それは客観的に起こりうること。ですが、共産党は自分のイデオロギーを変えることなく前進しようとした、そこで[法輪功を信仰する]民衆に対して政治的弾圧を行い、残忍な手段で鎮圧したわけです。

あの事件は中国社会に大きなダメージをもたらしました。客観的な言い方をすると、自分たちの広範な基礎となる民衆に巨大なダメージと弱体化をもたらしたことになります。

というのも、法輪功の信者は知識層から低層生活者まで非常に幅広かった。低層の人たちがそれを信じたのは病気になってもお金がなく、民間の相互協力に頼るようになっていたからです。一方で知識層は長年の抑圧下にあったおかげで、新しいものを目にすることができなくなっていた。

こうやってみれば、江沢民たちはじめ当時の中央指導者たちのこの事件に対する処理の仕方は許すことができないと、わたしは思っています。というのも、それは人びとを傷つけたからです。法輪功取締りの名を借りてどれほどの人たちを逮捕したことか。信仰が違うというだけで監獄に送り込まれるなんて、現代的な文明国家がやるべきことでは決してありません。

●共産党の権力コントロールフリークたち

袁莉:もう一つ、彼がよく非難されているもう一つの問題に、2004年になってやっと軍事委員会の主席を下りたのに、その後もずっと背後から胡錦濤にあれこれ指図していたことがあります。彼は大変悪い前例を作ってしまったとか、主席を2期も務めたのだからその座を下りるべきだったのに権力にすがりついていた、と言われていますよね。このことについてどう思われますか?

蔡霞:あれは、江沢民個人の問題でした。彼個人の責任ですね。だから、わたしは最初に指導者を論ずるのは難しいと言ったんです。人間は複雑です。彼はこの国を前進させようと積極的に働きかけたし、確かに彼が指導者を務めた10年間には多くの良いこともあり、この国に大きな発展の可能性をもたらしました。でも、そこにはそんな利己的な一面もあった。彼は自分の身勝手から、引退しながらもその座を譲ろうとしなかった。他人が自分の影響力やコントロールの及ぶ範囲を越えるのが怖くて、他人に干渉し続けたのです。

それは小農経済的な考え方によるものです。彼はそれぞれの独創性を尊重せず、他人を尊重しなかった。政党にとって重要な理論、路線、政策、基本的な国策がすべて定まっている状態においては、具体的な措置決定はそれぞれの指導層が行うべきです。でも、江沢民を含めて高齢の指導者たちは皆、結果ばかりではなくその過程までコントロールしようとする。

習近平に至ってはその過程と結果もすべて握り、自分が行ったとおりにことを運ぼうとしている。だから、わたしは「フォーリン・ポリシー」誌への寄稿では、彼は大きなことも小さなこともすべて握りたがる、コントロールフリークだと書きました。権力がもたらしてくれる利にばかり気を取られているだけではなく、手放した権力によって事態の収集がつかなくなることを恐れている。問題の処理の仕方が以前の指導者の意に沿っているか、以前の指導者の意図とその範疇を越えることはないだろうかと不安で…だからすべてをコントロールしたがるわけです。

こうしたコントロール欲とコントロールフリークは中国共産党における一般的な弊害で、江沢民一人の問題ではありません。ですが、江沢民が取った管理手段は現実に彼の後任となった胡錦濤たちに大きく干渉した。彼らは自分たちで仕事ができなくなった。でも、中国共産党という、開放的ではなく文明的でもなく、また権利を尊重するという思想もない生態において、まだそれは実際に存在しているんです。

だから、弱者の立場に置かれてしまった胡錦濤は、改革を進めようにも進められなかった。さらにその改革が中国共産党内部の複雑に絡み合った利益とゴタゴタにかかわるものであればなおさらです。胡錦濤はそれらを変えようとしたが変えられなかった。

わたしは現実に中国共産党の中央政治局会議の決議文書を読むたびに、彼が足を引っ張られ、困難に陥っていることをたびたび感じていました。彼自身もまた慎重な性格で失敗を恐れ、責任を負いたがらなかったため、それらが重なりあった結果とも言えます。

だから、人間って複雑なのです、それが政党や国の指導者であればなおさらのこと。重大な歴史的変化の時代において、また頑固で、現代的とはいえない政党である中国共産党の内部は数十年に上る、鉄でできているような独裁、全体主義体制で運営されている中で、一人の政党指導者がそれを打ち破るのは非常に難しい。それは一人の指導者によって一度に打ち破れるものではなく、もしかしたら指導者が何代もに渡って引き続き打ち破ってやっとこの党やこの国を底から変えることができるのです。

この点からすれば、とても残念なことにトウ小平がまずその先頭に立ったものの、自らの手で後に続く者たちの空間を潰してしまった。そして江沢民はそれを押し開けようとしたものの、伝統的な制約を受けた上に勇気がなかった。だから、彼もそれを突破できなかった。さらに無意識に党内の悪弊を引き継いで胡錦濤を抑え込んだ。それらは大変に複雑な関係なんです。

●人びとはなぜ江沢民時代を懐かしむのか

袁莉:江沢民にはその在位中、たとえば、米国に対する態度が甘いとか、在位の期間中に汚職がひどかった、そして法輪功の問題もあった、などさまざまな批判もあったにも関わらず、今になって皆が彼を懐かしんでいる。それは皆が習近平を嫌っているからでしょうか?

蔡霞:そうですよ、もちろん! 人間は比較が好きなのです。よく「人と人を比べてもイライラするだけだ」と言いますが、もし指導者が代替わりするごとに良くなってきているなら、誰も以前を懐かしがったりしません。[魯迅の小説に出てくる]老婦人が不満を漏らしたように「代替わりするごとに悪くなっている」、共産党はまさに代替わりごとに悪くなっているでしょ!

社会の発展や政績について、それを経験した人たちは振り返って比較するものです。そしてその結果、「以前よりも今は劣っている」と感じることが多い。それが以前を懐かしむ傾向を生む。

なぜ、底辺の毛沢東支持者たちが文革を懐かしむのか? それは彼らが想像する「あの時代の良かったところ」が今は存在しなから、自分が考えた「良さ」を懐かしんでるのです。でも、その懐かしさは紛いもの。というのも、以前の時代に起きた災難のせいで今の事態が起きているのですから。でも人びとはそこまで深く考えていない。

だから、毛沢東支持者は文革を懐かしみ、毛時代を懐かしむ。まったくもって理解不能です。但し、その裏では、人びとは直感的に自分が何に満足し、不満なのかに気づいているんです。そして現状に満足しない時に過去の、もともと自分も良いとは思っていなかったものを引っ張り出して、「今振り返れば」良かったじゃないか、と思ってみる。さらに、本来良くはないはずのさまざまな制約を妙な形で拡大してしまうこともあります。そしてそれは無意識のうちに社会の進歩に抵抗するような考え方を形成するようになる。

今まさに習近平はそうした考え方を利用しているわけです。それを利用してトウ小平の当初の改革思想を否定した。彼はそうやってトウ小平が唱えた「社会主義初期段階における党の基本路線[*19]による100年間」を、彼は50年も経たないうちにほぼ潰してしまった。

[*19]社会主義初期段階における党の基本路線:1987年にトウ小平が提起した「中国の特色を持った社会主義」路線のこと。改革開放や自力更生などを呼びかけた。

習近平は、初期の頃に人びとが抱いていた、トウ小平に対する批判や江沢民に対する不満を利用して、江沢民やトウ小平を否定し、それによって毛沢東の地位を回復させ、自分の地位を高めようとしている。彼は第二の毛になりたいのです。庶民の感情がその統治者個人の好き嫌いやその政治目的のために利用されている。そのような状態では、一般庶民はこれまでどおり新たな被害者にされていく。現時点ではそのことがきちんと理解できていない人がまだまだいますね。

袁莉:非常に興味深い分析です。今起きているのは、たとえば当時映画「タイタニック」を観れたこと[*20]や当時のテレビで日本のアニメを観ることがどれほど贅沢なものだったかという思い出を懐かしむムードです。わたしはそれを聞いて思わず、みんなそんなことまで懐かしむなんて、一体今の生活はそこまで悲惨なの?と不思議に思ったくらいです(笑)。

[*20]当時映画「タイタニック」を観れたこと:江沢民は1997年に米映画監督ジェームズ・キャメロンが撮影した大作「タイタニック」をあちこちで激賛し、それがきっかけとなって同作品は中国では大ブームを引き起こした。現在、米国を初めとする海外映画は商業映画であっても厳しい上映管理下にあり、以前に比べて自由な上映が難しくなっている。

蔡霞:それが現実ですね。習近平はその後、大学の外国語教材も外国の教材ではなく、中国の教材を使わなければならないと指示を出した。まったく、この国はどうなっちゃってるんでしょ?

●江沢民にとって習近平とは

袁莉:江沢民は習近平をいかに見ていたのか、ご存知ですか?

蔡霞:彼が習近平個人をいかに見ていたかは、わたしにはわかりません。わたしは党幹部ではありませんし、党内部で実際に起きていたことはわかりません。でも、江沢民が習近平の台頭にどれほど大きな力を握っていたのか? 彼の果たした役割は、党内においてはほぼ公開された秘密になっており、[党内関係者は]誰しもが知っています。

そこにあるのはやはり、党の持つ利己主義です。それは江沢民個人の身勝手な思いが引き起こしたものでした。

というのは、まず[トウ小平時代のナンバー2であり、トウ小平のライバルとなった]陳雲の時代から「我が子は先祖の墓を掘り起こさないものだ」と言い始めた。つまり、権力を他人ではなく、自分の子どもに渡すべきだと言い始めたのです。じゃあ、誰が「自分の子」なのか、探さなければならない、となった。そうして、彼らは社会のエリートやもっと優秀な人たちが国家権力のトップにつくのを排除し、その空間を封じてしまった。そしてその狭い空間にいる「自分の子」から[後継者を]選ぶことにした。

次に、共産党内にはもともと伝統的なセクトの意識が存在していた。中国共産党には、現代的な政党が持つ党内「派閥」は存在せず、存在するのは「群れ」、あるいは「セクト」しかない。延安の時代[*21]にすでにセクトという言葉が存在していましたよね?

[*21]延安の時代:中国共産党が正式に政権を握る前のゲリラ時代のこと。

袁莉:セクト主義と言われていましたね。

蔡霞:そんなセクトのうち、一番弱かったのが「西北セクト」でした。一方で八路軍や新四軍[*22]、その他の[軍を背景にした]は非常に強い勢力だった。江沢民はそうした勢力を自分たちが制御できるかどうか、を考えた。というのも、彼はトウ小平とは違い、そうしたセクト出身ではなかったからです。トウ小平は中国共産党の初期のころから活躍し、それなりの人脈を持ち、また彼自身が勢力を持っていた。でも、江沢民はそのトウ小平の制約をうけつつもその支えがなければ、彼にはできないことがあった。

[*22]八路軍や新四軍:八路軍は人民解放軍の前身であり、新四軍は対日戦争時代に共産党と国民党の合作により編成された軍隊組織。

そんな彼が自分の後継者である胡錦濤に対して、それをコントロールしようとした。というのも胡錦濤が自分より弱かったからです。胡錦濤を[江沢民の後継に]指名したのはトウ小平でした。だから、江沢民は自分の権力を胡錦濤に渡さないわけにはいかなかった。

そして、その次の世代を指名する段になって、彼は考えた。共産党内部の規定に従って「自分の子ども」を指定することが前提であり、次に、抜擢する、あるいは直接指名するその人物は、自分がコントロールできること。そこで江沢民は自分自身が党内セクト出身者ではなかったことから、最も弱いセクトに目をつけた、それが「西北セクト」でした。

習近平は、いわゆる「党内選挙」で胡錦濤が推した「中国共産主義青年団」(以下、共青団)出身の候補者を覆したんです。共青団は共産党幹部の予備軍ですから共産党内部にも当然たくさん、共青団出身者はいました。その中の孫政才や胡春華[*23]などの人材を丁寧に数え上げ、そこから胡錦濤は共産党の習慣に従って後継者を選ぶなら、そこからきっと選ぶはずだと見て取った。そうやって精査した結果、(孫政才らより)一つ年長の李克強しかいないことに気がついたんです。

[*23]孫政才や胡春華:どちらも胡錦濤の後継者として見られていた人物。孫に対しては2017年に深刻な党の規律違反があったとして取り調べを受け、翌年収賄罪で無期懲役判決、政治権利の終身剥奪の判決を受けた。胡春華は2018年に党内ナンバー3の国務院副総理に就任したが、2022年10月に共産党の中央政治局委員を離任したため、このまま指導部を離れると見られている。

そして江沢民は李克強と習近平をいかに配置するかを考えた。そして考え抜いた挙げ句、李克強を党のナンバー2である総理にすることを決めた。共産党内部はトップダウン体制で、民主集中制などではありません。つまり、トップがこう言えばそれに従わなければならない。党トップを取り換えれば、党内の運営もまったく違うこともありえます。

もしここで李克強が党の総書記に就任していたらどうなっていたでしょう? たぶん、独裁的な面はきっと今よりかなり薄くなっていたはずです。ただ、彼に中国を急速に前進、発展させ、現代文明化するための重要で、ネックとなる問題を解決できたかどうかはわかりません。その点は彼にどれだけのパワーがあり、そして彼自身がどれほど知識、思想的な準備を行っていたか、さらには彼の胸襟や勇気があったかを理解した上で言えることです。この点は難しいところで、起こっていないことを根拠もなしに推測することはできません。なのでわたしにはどうとも言えない。

ですが、この10年間、李克強が総理としてやってきたことを見ると、少なくとも彼は習近平とはまったく違うことは分かりますね。そこから、習とはまったく違う彼が党の総書記になっていれば、その後起きたことも違っていたのではないかと考えることはできます。なのに、江沢民は自分が信じる、自分が安心できる人物をトップに据えた。それが習近平だったわけです。

袁莉:…まったく…(ため息)

蔡霞:そうして習がトップに立ち、胡春華、孫政才はその地位を追い立てられてしまった。つまり、胡錦濤がその後考えていたすべての構想は実行できなくなりました。これは江沢民たちの身勝手な考え方によって起きたものです。最も弱く立場にある者を選べば、自分がコントロールしやすいと思っていた。でも、まさか、その最も弱い立場からトップについた者を自分がコントロールできなくなるとは思ってもいなかったはずです。

袁莉:その点は、彼はその後胃が痛くなるほど後悔したのではないでしょうか?

蔡霞:人間ならそうですよね。わたしもきっと彼は後悔に苛まれたと思いますよ。というのも、結果的に彼らが苦労してこの国を前進させるためにしてきたことを…わたしは当時共産党内の人間でしたから知っていますが、当時はその歩みがどんなに遅くても、とにかく前に向かってあるき続けること、その方向を変えてはならないと言い続けてきたのですから。それがゆっくりでも、庶民はそれを受け入れてくれると信じていた。なのに、今はそれがUターンしてしまった。この国、そして党内から社会のかなりの数の、きちんとした思考能力を持つ人たちにとって、この事態は決して受け入れられるものではありません。

袁莉:蔡教授、ありがとうございました。みなさん、次回もお楽しみに。

(オリジナル音源:「不明白博客 - 蔡霞:如何看待江沢民的政治遺産?」より)

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