【ぶんぶくちゃいな】「香港の娘」アニタ・ムイが遺した「時代の豪気」

香港デモを描いたドキュメンタリー作品「時代革命」が、華語映画界のアカデミー賞といわれる台湾金馬奨で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した。このところ、香港は映画がもたらす話題が満載だ。

そしてここ一月ほど、毎日のニュースチェックの際に大変懐かしい名前がたびたび目に入ってくるようになった。

梅艶芳、英語名で呼ぶならアニタ・ムイ。

1980年代から90年代にかけて、主権返還前の香港において、文字通り「ポップスの女王」と呼ばれた歌手である。歌手としてだけではなく、女優としても、華語映画のアカデミー賞といわれる「台湾金馬奨」や香港映画賞などで主演女優賞を受賞したキャリアを持つ。

さらに、音楽や映画の他にも、恋多き女として、あるいは情に厚い「渡世人」として、はたまた多くの人気芸能人たちとのにぎやかな関係において、当時の芸能界のみならず、社会的な話題を振りまき、ファンであろうとなかろうと、当時を知る香港人ならすぐにいくつかの彼女にまつわるエピソードを語れるほどの大スターだった。

しかし、2003年、香港でSARSが大流行したその年の暮れ、ガンで死去。享年はわずか40歳という若さだった。彼女はこの数年前に家族の中で最も親しくしていた姉を同じガンで亡くしていた。この年の4月には彼女が兄妹だと認めていた、やはり超人気歌手で俳優のレスリー・チャン(張国栄)が、そして彼女の死の直前にはこれまた超人気作詞家の林振強も亡くなっており、この3人の死に香港ポップス界は重い衝撃の中に沈んでしまった。

その彼女の名前が突然あちこちに浮上し始めたのは、この11月にそんな彼女の伝記的映画「梅艶芳 ANITA」が封切られたからだ。「彼女と同じ時代」を生きた人たちが次々と映画館に駆けつけ、その感想と追憶をあちこちに発表し始めたのだ。

もともと伝記映画というのは映画自体の出来の良し悪し以外に、瞬発的な批判が出現する。生前のモデルが存在し、その魅力が映画の元素になっているわけで、そんなファンたちを満足させることは非常に難しいし、まずその伝説的人物を演じる人物が「似ているかどうか」が必須要件として論じられるからだ。

特に生前のアニタは非常に個性的な容貌の持ち主だったし、それに加えて演技力でファンたちを納得させられる俳優はほぼ存在しないといっていい。それだけに製作側の苦労とプレッシャーは容易ではなく、3年ほど前にモデル出身の新人女優、王丹ニー(「ニー」は「女」偏に「尼」)に白羽の矢を立てたのも、彼女がなんとなくアニタに目元が似ているからだったのは間違いないだろう。だがその演技力は未知数で、実際には体型が痩せぎすのアニタに似ているようだが、背の高さが他の俳優と比べると目立ったことが気になったと述べている人もいる。また、レスリーを演じる俳優への評価が「似ていない」のオンパレードで、製作側としては「似ているかどうか」にそれほどこだわっていたわけではなかったのかもしれない。

それでも、主演の王が「がんばった。似ていなくても伝わってくるものがあった」というものから、「彼女はアニタを演じるには若すぎる」というもの、「世代の違いを明らかに映画の中で見て取れる」というものまで並ぶ。これはこれでまた話題を呼び、わたしのようなアニタを知る人間も一度観てみたいと思う効果を生んでいる。

わたしもまだ作品を観れていないので、ここでは映画の出来の良し悪しを語ることはできない。だが、現在の時代背景もあり、多くの人たちがこの映画を通じてあらためて主権返還前の香港を思い起こし、またアニタ・ムイという一歌手の事績を通じて当時の香港社会がいかなるものだったのかを論じているので、それらと一緒に、「アニタ・ムイ時代の香港」をここでまとめておこうと思う。

●「百変」した香港とアニタ


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