【一読再考】河崎環さん:ジャニー喜多川氏の「好み」と女性ファンの「好み」は恐ろしいほど一致していた…本当にファンに罪はないのか (プレジデント・オンライン)

ジャニー喜多川による長年の所属タレントに対する性被害報道がやっとここまで大きくなったのは、なにはともあれやはりBBCの報道が大きかったといえる。もちろん、過去にタレント自身も声を上げていたし、また文春などで報道されてきた過去があるとはいえ、ここまで日本のメディア及び社会が真剣にこの事件に向き合ったことはなかった。

それでもBBCの報道当初、日本国内では「日本の文化への理解が足りない」とか「喜多川へのリスペクトがうんぬんかんぬん」という声が上がり、それこそマスメディアも「BBCが伝えて騒ぎになっている」程度でしか取り上げなかった。が、さすがに「他者」の目から踏み込んだ忖度のない報道だからこそ遠慮がなく、これがジャニーズ事務所、さらには日本の芸能界とそれを助長してきた「パンドラの箱」の蓋を開ける力へと繋がったのだろう。本来あるべきメディアの責任と力、ここにあり、だ。

これは逆に、日本の報道というものがどれほど「日本的な慣習」の忖度のなかにあるか、ということを示す問題でもある。もちろん、「ガイジンだからできること」といってしまえばそうだが、ならば日本のメディアもイギリスの醜聞を暴いてみてはいかがだろうか? そんな余裕も根性も、またジャーナリズムの根幹に根ざした精神ももっていない人たちが、「ガイジンだからできた」とうそぶくのは、これまた責任逃れも甚だしい。

メディアでやっと大きく報道されるようになってきたら、一部メディア人が「公開謝罪」してみせたけれども、そのメディア関係者もそんなジャニーズ関係者と付き合いがあるわけでそれについて何も語っていない。もちろん、共演したタレントと袂を分かつべきだとは言わない。だが、少なくともカメラの前で謝罪して見せるなら、そしてそれを「メディアの人間として」というならば、そこから一歩踏み出して「メディアの人間として」さらなる真実を追い求める姿勢を見せるべきではないのだろうか。「メディアの人間として」謝罪して終わり、じゃ、それこそ謝罪に至った「当時の自分」を再演してみせているだけではないか。

その一方で、ジャニーズ事務所の会見の気持ち悪さはもうここで触れる必要はないと思うが、その後のメディア報道は「既定路線」に向かって進んでいる。「どこが広告契約を切るか切らないか」「所属タレントはどうするのか」、さらには「事実を暴露するタレントはでてくるのかどうか」といった上滑りのネタ探しに追われ、「何が根本的にダメなのか」を徹底的に追求する姿勢を見せているメディアは、大騒ぎしているメディアのほんの一部の一部にしか過ぎない。結局、これまでと大して変わらず、被害者への救済はジャニーズ事務所内部の問題に収めこまれ、報道の視野から消えていくのだろう。

そんな既視感のある、同質化に向かいつつあるジャニーズ問題に、河崎環さんが鋭く切り込んだ記事を発表している。ジャニーズ問題は実は、ジャニー喜多川が引き起こしたものだが、それを助長し育て上げたのはメディアであり、広告主であり、なによりもジャニーズファンであり、それに違和感を抱かず「価値」を与え続けた日本社会全体だった、という分析だ。なかなか切り込みどころが鋭く、読んでみてこの視点があったか!という思いだ。

ご一読ください。


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