【ぶんぶくちゃいな】「日本」を離れて考える北朝鮮核ミサイル問題

日本が関わる国際的な事件が起きた時、日本のメディア報道が日本の立場(視点)でのみそれを語るようになったのは、いつのことからだろうか。

わたしが香港でニュースの仕事に関わるようになる前、あるいは関わり始めた頃は、海外情報と比べて日本の報道に多少の不足(海外のニュースや話題、視点が抜け落ちているとか)を感じることはあっても、今ほど確固たる「視点の偏り」を感じたことはそれほどなかったように感じる。

そういえば、ここまで書いて初めて思い出したのだが、わたしが2003年に作家村上龍さんが主宰する「Japan Mail Media」(JMM)にコラム連載を始めたのは、まさに北朝鮮をめぐって開かれた最初の6者会談に関する日本と海外メディアの報道始点の違いを書いた記事がきっかけだった。日本では6者会談がまるで「拉致問題」解決が大きなテーマになっているように語っていたが、中国語や英語のメディアを読むとそこには「拉致」の「拉」の字もなく「北朝鮮の核」がテーマであるという違和感について書いたものだった。

つまり、この時すでに日本メディアが海外から日本国内に伝える内容が国際的な観点から大きくずれていたことになる。そして当然のことながらそれを読み聞きした日本人が語る6者会談は常に世界的視点とはと別次元となった。見事な「ロスト・イン・トランスレーション」だった。

当時は日本において北朝鮮というと、確かに日本人の拉致問題がトッププライオリティだった。政府も国民の期待に応え、解決策を示さなければ、という思いがあったことは否定できない。しかし、だからといって報道する側が6者会談のメイン議題だった「核の問題」を差し置いて、大きな紙面や時間を割いて、あるいは大量のつばを飛ばして「拉致問題」ばかりが取り沙汰されるのはさすがに異常だった。日本メディア以外の報道を読んでも、会談でそこまで拉致問題が討論されているとは決して思えなかったからだ。

逆にメディアが日本の視聴者や読者に対して、まるでそこでは拉致問題が喧々諤々と話し合われているかのようなイルージョンをもたらしたことを考えると、その姿勢はある種犯罪に近い。現実にはそれほどの優先度を持って語られているわけではないという「客観的事実」を、マスメディアは巧妙に国民から隠してしまったのだから。

さらに英字メディアには、日本代表があまりにも拉致事件ばかりに執着しすぎることが話し合いの障害になっているという報道も流れたことすらある。それでも、日本政府は日本メディア向けに拉致問題をトップに置いたブリーフィングを続け、メディアも海外メディアの報道に脇目も振らず、拉致問題ばかりを取り上げ続けた。

それは日本政府による、自国人向けのプロパガンダだったと言えるのではないか。

当時、そういう問題意識を6者会談報道に関わっていたマスメディア関係者にぶつけてみたが、彼らの答は「日本人にとっての関心事だから」だった。そうやって大衆の「関心」を口実に政府の意図に迎合し、実際に国際社会で何が起きているのかを伝えないという手段を選んだのだった。

そして、今、我われは北朝鮮が繰り返すミサイル試射や水爆実験を直面して、その暴走をいかに押し止めることができるのかを論じ続けている。そこまでのお膳立てをして注目をひきつけ続けた拉致問題も、残念ながらその後なんの進展がないままだ。

もちろん、今さら思い出話をしても仕方がない。だが、そうした「偏った視点」の報道は一体誰に何をもたらしたのだろう? 14年前の6者会談報道に関わった現場の記者たちは、今の事態をどう考えているのだろうか?

●「日本語」中心メディアの弊害

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