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ジャーナリストと「社命」の関係について考えてみた。

ツイッターを見ていたら、この書き込みが目に入ったのでちょっとわたしの理解を書いたら、林毅先生からこういうリプがあった。

言いたいことは大変良くわかるのだが、どうも自分的にしっくりこないところがあって3回くらい読み直した。それで気がついた。

「社命」という言葉だ。

ツイートの本意は上のツイートをクリックして流れで読んでほしいのだが、つまるところ、林先生はミャンマーで拘束されたロイターミャンマー人記者釈放後のことを心配しておられるわけでその気持は分かる。そのことについてはわたしもリプを返し、わたしの知っている事例をお伝えしておいた。

ところで、この「社命」という概念。「社命でお仕事したのに、逮捕されるのはかなわんやん」という言い方は日本人的にはよくいわれる。だが、この「社命」って英語でなんていうんだっけ? そういえば、政治がらみの現地ジャーナリスト逮捕を伝える英語報道で、この言葉を聞いたことも見たこともない気がする…

この一連の出来事を伝える英語報道を読み直してみると、そして当事者や周囲の記者たちの抗議の声を読んでも、「社命」に相当する言葉は出てこない。出てくるのは「報道の自由」「報道の権利」「報道の義務」などの言葉だ。そこには「会社」は存在していない。

存在するのは、ジャーナリスト一人ひとりの判断による「報道すべきかどうか」という価値観のみで、逮捕、有罪判決に対する抗議活動で御旗となっているのも、「ジャーナリズムの正当性」のみ。「社」はここでも姿を表さない。

考えてみれば当たり前だ。ジャーナリズムという精神は「会社」が与えてくれるものではないからだ。メディアの業界は一人ひとりの独立した、そして成熟した判断能力を持つ、プロフェッショナルが支える(はずの)業界だからだ。

一方で、林先生の「社命だったらかわいそう」という考え方もわからんでもない。わたし自身も現地で、また日本に帰ってきてからも、日本の記者さんたちが「社命」「会社がいうから」と言い訳するのを何度も耳にしてきた。社命で仕事するのは会社員の本分だもんね。

ここに、口では「社会に責任を負う」「社会の木鐸である」と言っている日本の記者さんたちが、実は独立し、成熟した判断力を持ったジャーナリストかどうかという前に、まずは「会社員」であることが如実に現れている。彼らはいざとなると、「社命」の影に隠れて、自分がやった(あるいはあえてやらなかった)ことの責任を会社におっかぶせてしまう。それではまるでどこかの謝罪会見に立った民間企業の責任者と同じではないか。その人たちがどうやったら「社会」を代表できるわけ? 矛盾してるじゃん。あんたの社会ってあんたの会社なのに。

一言で「ジャーナリスト」と言っても、日本国内と国外ではこれほど違う。ミャンマーで逮捕されたロイター記者は、ジャーナリストとして自分がすべきと信じる報道をし、それが政府の逆鱗に触れて拘束された。そのことを「社命」のせいにする報道を、わたしは今のところ目にしていない。

つまり、「ジャーナリストだって会社員」ではないんですよ、本当のジャーナリズムの世界においては。件のミャンマー人記者だって決して将来的にロイターに雇ってもらうことを期待しているわけではないかもしれないのだ。政府に嫌がられても報道すべきことを報道する、その原則が彼らにとってロイター社の記者であることよりも大事な、ジャーナリストであることの勲章なのだ。これは日本の会社員記者たちのほとんどが持っていない、あるいは持てていない気概じゃないか。

【参考記事】

社命に抗うと、日本ではこうなるわけですよ。


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