【ぶんぶくちゃいな】習近平の逆鱗に触れた? 「懐刀」高官と「富豪」企業家に見る末路

春節直前の2月中旬、魯煒・元中国共産党中央宣伝部副部長の失脚を正式に新華社が発表した。すでに昨年11月に中国共産党中央紀律検査委員会の公式サイトで、魯煒元副部長が「深刻な規律違反の容疑で、組織の審査を受けている」ことが伝えられており、すでに正式発表は時間の問題とされていたのだが、それにしても2月の失脚確定は中国メディアでさざなみのように広く伝えられ、その「衝撃」の大きさをうかがわせる。

安徽省出身の魯は、1980年代に広西壮族自治区で政府系メディアの記者としてキャリアを始め、1991年に国営メディア「新華社」の同自治区桂林支局長に就任。その後、新華社広西壮族自治区分社責任者を経て2004年には新華社の副社長とトントン拍子に出世街道を歩んできた。当時の温家宝総理の「人情深く、開明的で努力家の好々爺」のイメージ流布に貢献したと言われる。その功績が認められたのだろう、2011年から2年間、首都・北京の市政府宣伝部長を務めた。

この北京市宣伝部長時代に、北京市で発行されていた市場メディア「新京報」を同市宣伝部直属に納めた。「新京報」は広州市に本社を持つ南方メディアグループが創設し、同グループが高い人気を集める鋭い視点と高い問題意識を持った報道手段で知識層に大きく支持されていた。

南方メディアグループについては、拙著「中国メディア戦争」でもかなりのページを割いて紹介したが、同グループが広州市で発行している「南方週末」や「南方都市報」は社会問題や地方政府の問題に深く切り込み、気骨のある報道を続け、地方新聞だったのが全国に愛読者を広げるほどの影響力を持っていた。

広東省を中心に感染が広まったSARS事件報道、その真っ最中に起こった大学生不審死の「孫志剛事件」スクープは社会制度を変えた。読み応えのある調査報道で一時代を築いたものの、それだけに一方で既得権力層からの圧力も度々受けた。特に、「新京報」初代編集長に就任した程益中氏が2004年に汚職容疑で逮捕された事件は、実は前職の「南方都市報」編集長時代の報道に対する政府の報復だった。

そんなさまざまな大事件を乗り越えて生き残ってきた南方メディアグループの報道力や感染力を完全に断ち切ったといえる事件の一つが、首都北京における「新京報」の市政府宣伝部直属化だった。その後「新京報」はすっかりかつての舌鋒を失い、また同グループ自体にもさまざまな政府の管理の手が伸び、すでに勢いはまったく衰えてしまった。

2013年に習近平が国家主席に就任するとすぐ、国務院(内閣)直属の国家インターネット情報弁公室主任に栄転。この人事が発表されると、わたしの周囲の中国ジャーナリストたちの間で、そのことがたびたび話題に上がっていた。「メディア暗黒の時代が来る」。今振り返ると、魯は習近平の「懐刀」として立派にその役目を果たしたといえる。

まず、人気SNS「微博 Weibo」(以下、ウェイボ)上で絶大な影響力を持っていた有名マイクロブロガーたちを呼びつけ、「懇親会」という形で睨みを効かせた。ほとんどが企業家だったり、投資家だったりという「社会の成功者」の顔を持つブロガーたちにその場でネット発言に対する「七条のボトムライン」を突きつけ、法律、国家利益、社会主義制度、道徳などの面から各々に規制を通告。

その場で不服を申し立てたブロガーもいた。が、その後になってそのプライバシーを暴くような出来事で別件逮捕され、テレビで晒され、謝罪させられるという屈辱的な事件へと発展。これを機に人気ブロガーたちは口を閉ざし、また一般ユーザーの自由な発言も萎縮してしまい、ユーザーの大量ウェイボ離れを引き起こした。

この事件をきっかけに、現在に至るまで中国の公共言論は萎縮したままで、その萎縮状態が「常態」になっている。ウェイボを去った人たちの多くがスマホを使ったSNS「微信 WeChat」(以下、「WeChat」)に移ったが、ウェイボのような見ず知らずの人も含めた公共の場に向かってではなく、知り合いとの間だけのやりとりを楽しむのが主流になってしまった。彼の就任時にジャーナリストたちが心配していたとおりになってしまった。

●「欺騙中央」「肆意妄為」「野心膨張」…並ぶ罵詈雑言

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