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生きづらさの底にあるもの

思い通りにならない…と思うのは、こうしたらこうすべき、という選択肢の答えが自分のなかで、ほぼ決まっているからだ。

正解がひとつということは、それ以外の答えは全て間違いや全否定ということになる。
自分が描いた答えが返ってこないことは、絶望に値する。

選択の自由は無限にある、と言いつつ、正解がひとつ(もう少し考えてみたら、あとひとつかふたつくらい浮かぶだろうか)だと、結局は白か黒、善か悪かにわけているので、とても苦しい。

白を望んだのに黒がくるなんて!
善いことが起きるはずだったのに、違う結果になった、もうダメだ!
自分へのムチは何十回でも何百回でも、それこそ永遠にグルグルと振り下ろされる。

苦しめているおおもとは他でもない、そう選択している自分自身なのだが。

本来、選択の自由は、自分に、また相手にも同様にあり、お互いがお互いに選択の自由を認めあっていたら、争いは起こらないだろう。

「こうでなければならない」は巧妙に形を変え、人のためにと言いながら、相手をコントロールしたいというパワーゲームに興じていることもある。

これほど疲弊するものはない。

疑心暗鬼のなか足をひっぱりあっている。

「先にいかせてなるものか」

「おいていかないで」

これは一体何なのだろうか。

生きづらいと、自分を追い詰めているのは、
なぜか譲れない自分自身の中にある正しい正解ということも多い。

自分のなかにある正解に苦しみながら、さらに、周囲の環境に同じような価値観や視点を持つ場に身を置き続け、もがき苦しんでいる。

自分を痛めつけることばかりが起こっても、
正解と違ったことによって、
「ほらね、やっぱりダメじゃん」という奇妙な確認が行われていることもある。

正解を決めたのは誰なのか?
それはなぜ正解なのか?

もしかすると、その正解を選ぼうと決めた時、生命の危険にさらされていたことがあるのかもしれない。

経験の差が、何をどのように判断するかの差になって当然である。
それに、全てにおいて感じ方はひとりひとり違っていいのだから、正解なんてあるわけないのは当たり前だ。

それでも、ああでもない、こうでもない、ともっともらしい理由を述べながら、崩れそうな自分を必死で守っているのが、私たちなのかもしれない。

それはそれで間違いではないし、どのように生きても、どのように感じてもいいのだと、ありのままの今の自分を受け入れた時、自分を縛りつけている生きづらさの鎖が見えてくるのではないのだろうか。


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生きづらかった『私』を振り返った龍公愛実プロフィール





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