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価値があってもなくても

negativityネガティヴィティは、
結局のところ、勘違い、思い込みといった『誤解』から生じている。

ここから出発した行動パターンを
延々と繰り返しているところに問題がある。

本来、根本的な原因を直視することによって、
エネルギーの解放が起きる。

ネガティヴィティなエネルギーが
永遠に続くということはなく、
滞りは充満し、
どのような形であれ、いずれ終焉を迎える。
死が最もわかりやすい例だろう。

自分の奥底に抱えている、
密やかに絶望的な先入観や破壊的な概念は、
そこを直視することが
つらければつらいだけ、
全力でそこと向き合うことを避け続けていく。

「根本的な原因に気づきました」
「手放せました」

一見、解放へと向かい続けているかに見える
様々なプロセスは、
直視することを避けている限り
自分以外に満たすことのできない要求を、
外側の世界に突き付け続ける。

自分の奥底で歪んでしまった願望や欲求を、
正当化する理屈をこね続ける必要はないのだが、
抱えている感情の奥底に恐れがある限り、
冷静に公正と客観性を持って
自身と向き合うことは、かなり難しい。

「生きようとするものは
命を投げ出さなければならない」
イエス・キリストの言葉

自分で手に入れなければならない物を
人から得ようとするあまり、
無価値な自分を装い、
まるで道化のように身を削って
上納金のような何かを差し出すことさえあるだろう。

自己犠牲の上に成り立つ何かはあるのだろうか。

それでいて影の自分「エゴ」は負けることを避けようとするあまり、ありとあらゆる評価を下し続けるだろう。

思い込んだ概念によって、
勝った、負けた、と、そう思い込んでいるだけで、
エゴの『自分』が、損か得か、
恐いか、恐くないか、
そんなことに関わらず、
全ての目の前の出来事、目の前の人が、
ありのままであるのを認めた時、
自分に与えられるべき本当の権利が
見えてくる。

とてつもなくへり下る傍らで
もっと自分を見て!認めて!と叫んでいると
自分の無価値感は増大していくように思う。

どちらの自分にも
満足することはないだろう。

恐れを向き合い受け入れて生きよう。

命を投げ出すとは、
自分の恐れそのものと向かい合ったところに見えてくる世界なのかもしれない。


良き人生の旅を。

The place to start putting things
right is in yourself.

Dear world.

with all of my hearts.


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