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錯覚

ディスガイース・・・たまには違う装いでいこか。まじめにまじめに・・・ふざけない象。

さて、今自分がみているものは真実かどうか確かようとしてみたことがあるだろうか。例えば写真や映像はある一部分を切り取ったもので、それがフレームに入り表示されるという、一見真実の姿にみえるが、作られたたものである。料理の画像の周りには野菜の切りくずや漏れたソースが散らばっているかもしれない。しかし、トリミングされてそこは写っていないため、食欲をそそる美しく出来上がった料理が皿に乗った状態で映し出されている。

いかにも美味しそうであるが、実際に口に入れて味わったわけではない。

動画でも死角になっている部分は多々あり、ドラマもフレームアウトすれば、カメラや照明、大きなマイクが釣り竿のように垂れ下がっていたりする。しかし画面の向こうで視聴している人々は、その作られた物語に自己投影したり、本当のことであるかのような錯覚をもって、感情移入する。

確かにそれら一部を切り取った中にも真実は潜んでいるかもしれない。しかしながら、それらの向こう側にある情景や被写体そのものの実態を読み取れる人がどれだけいるだろうか。実際にこうした制作に携わっているカメラマンやディレクターというプロの職人でさえも、他人が作ったものであれば、映し出されていない範囲の事象を想定できたとしても、それはあくまで想像の域を超えない。そこになにがあるかは知りえない。

アニメであっても二次元の世界に入り込み、登場人物に憧憬と親しみをもつて鑑賞することができる。最近は声優と主役の姿が似ていたりすることも稀ではないため、感情移入が容易である傾向にあるかもしれない。人の願望を実現させるような作品を限りなく美しく仕上げることが可能だ。

SNSの世界は最も自由な空想領域を呈することができる場である。書き手が書きたいことを表現し、見せたい自分を書き連ねる。むしろ文字だけの世界だからこそ、そこから真実を読み取る力のある人は、文の向こうに人物像を思い描き、真意をくみ取ることができるかもしれない。

あるいは動画や音声などでより実像に近い情報を呈することもできるし、自分がイメージした表現も可能であり、受け手もそれを楽しむことができる。

どんな楽しみ方も個々人で自由である。他の尊厳を冒さなければ。他人の領域に侵攻さえしなけければ、どんな虚像を描いたとしても、リアルに近いドラマの中に身を呈することも許されるのだ。

妄想空想は自由。脳内空間は誰にも侵すことのできない神聖な領域だ。ただし、大切なのは境界線を知ることだ。境界線は目に見えないが敢えて着色してみることで、侵されてはならない領域を正しく保つことができる。

ここから先は進入禁止、の看板を無視して進んだらどうなるか。その先は断崖絶壁、落下すれば命の危険を冒すだろうというイメージを持つことができないのと同じ。

現実の世界では逃れられないことや苦しみから解き放たれ、脳を開放できる場所を見つけ出すことは必要かもしれないが、自身の苦しみのうさばらしや受容を、バーチャルに強引に求めてしまうようであれば、すぐにしかるべき場所で治療をうける必要があるだろう。

大切なのは、自分自身とその状態を的確に把握することだ。そうすれば、自分は今何をして、どこに進んで、どんな心構えでいるべきかを知りうるだろう。自身で判断がつかない場合、自分以外の誰かの指摘を得ることでもそれは可能だ。

見たくないものから目を背け、自分がみたい世界を真実と思い込むのはいささか危険であろう。心の均衡が崩れる恐れがあるからだ。

一旦自分の脳を開放してみることで、真実が見えてくることがある。何かに固執している限り、永遠に虚像の中でもがき続け、心の平安への活路を見出すことはできないだろう。

内面を表出していく中に真実が隠されているように、自身の真実を見つめられる力をもつことで、賢明に生きる術を得られるのではないだろうか。


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