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赤い団扇【第88回都市対抗野球大会・東芝対JR東日本戦】

 西日本における「夏の野球」が甲子園ならば、東日本は都市対抗野球だろう。
 都市対抗野球とは毎年夏に開催される、社会人チームが参加する野球トーナメント大会である。80回以上開催された歴史ある大会だ。
 社会人野球ということで、世間一般の認知度はとても低い。でも、もしも一度ご覧頂けたのならば、その熱気に圧倒されることを僕は保証したい。甲子園のような熱狂と、プロ野球と遜色ないプレーヤーのスキルの高さ。これが気軽に、涼しい東京ドームで見れるのだからたまらない。

 そんな第88回都市対抗野球大会も折り返しを過ぎた、とある真夏の日曜午前10時半。東京都・JR東日本と川崎市・東芝の準々決勝戦が、今まさに始まろうとしていた。
 JR東日本は今大会の優勝候補に挙げられているチームだ。特に、先発投手を務める田嶋大樹への期待感はとても高かった。ここまで2試合を投げて、どちらも完封勝利。危なげなく相手打線を1安打に抑えた1回戦、ピンチをつくるも圧巻の投球でしのいだ2回戦。どちらも前評判通りの内容だった。エースの風格が漂っている。
 対する東芝はこの大会を7回制覇している名門だ。このチームの最大の強みはクレバーな攻撃と言えるだろう。出塁した走者をきっちり得点圏まで送り、しぶとい打撃でしっかりホームに返す。決して実力に不足はない。
 どちらかというと、このチームのマイナス要因は野球ではなく、バックヤードである。連日連夜、経済ニュースで流されるこの会社の話題は、大変ネガティブなものだと誰もが知っている。そのことと野球部の状況がどう結び付くかは不明である。3塁側の応援席も外野席前までしっかり埋まっていたが、2階席の一部も埋めはじめた相手と比べると、やはり「勢い」には差があると感じてしまう。

 そんなこの日の東京ドームは、どういう訳かいつもより暑く感じた。冷房が効いている室内であるはずなのに、どうも身体は涼しくならない。
 そういうときは団扇が役に立つ。
 都市対抗野球の隠れた楽しみの1つが、各チームが無料で配布してくれる応援グッズだ。あるチームはタオルを、あるチームはスティックバルーンを。そのグッズの中でも一定の勢力を占めるのが団扇なのだ。かつて炎天下の後楽園球場で、ゲームをしていた頃の名残かもしれない。
 そして、東芝の団扇は他のチームと異なり、一回り大きいのも特徴である。仰げばたっぷりと、風が体に入ってくる。大きいお陰で鞄にしまうのも一苦労なのだが。
 さて、グラウンドに目を向けると、もう両チームの挨拶は終わっていた。JR東日本の選手たちは守備位置にたどり着く。マウンドの田嶋が、投球練習を始める。果たして東芝は、この怪物を倒すことができるのだろうか。

   ◆

 試合は序盤から動いた。1回裏にJR東日本の2番バッター・東條が先制のホームランを放つ。東芝は出鼻を挫かれてしまったが、4回表に金子のタイムリーで同点に追い付く。この1点が、田嶋にとっては今大会初失点だった。やはり東芝は手ごわいチームだ。
 一進一退の攻防はまだまだ続く。6回裏と7回表に両者が1点ずつ加えたあとの7回裏、ランナー2塁のチャンス。JR東日本の打者は影山。当たりはそれほど大きくはなかったが、内野と外野の間にポトリと落ちた。一瞬の間が生まれる。2塁ランナーはためらうことなく、ホームベースに突っ込んできた。勝ち越しの1点がJR東日本に入った。
 東芝ビハインドのまま、9回表を迎える。今日は苦しいピッチングが続いているが、今大会のベストピッチャーである田嶋だから……。東芝の応援席に重苦しい空気が流れた。

 しかし、悲壮感が強まれば強まるほど、東芝のプレーヤーたちは冴えていた。1アウトから5番・松本が2ベースヒット。得点圏にランナーが出た。続くのは34歳の大ベテラン・大河原。全盛期は過ぎたとはいえ、ここぞという勝負強さはまだ健在のバッターだ。
 田嶋が投じたのは、山なりの変化球。少し体勢を崩しながらも、バッターは食らいついた。外野へと打球は飛ぶ。完璧な長打ではないが、松本は迷うことなくホームへと滑り込んだ。同点。試合はまたしても、振り出しに戻った。誰もが大声をあげ、喜びあう3塁側の応援席。それとは対照的に、田嶋は静かにマウンドを降りた。

   ◆

 延長戦に入るも決着せず、12回を迎えた。ここからはタイブレークが導入される。1アウト満塁からの選択打順制でゲームを行う。スリリングな状況下で試合は始まる。
 まずは東芝から。バッターは佐藤旭。この試合はまだノーヒット。JR東日本は左腕の三宮がマウンドに上がっている。
 少し甘く入った変化球を、佐藤は見逃さずに振りきった。レフト前にボールが落ちた。3塁ランナーは間に合う。2塁ランナー・井上も迷いが無い。際どいクロスプレー。主審の判定は……セーフ。応援席は再び歓喜に包まれた。東芝が2点のリードを保ったまま、いよいよ12回裏を迎える。

 東芝、勝利へのカウントダウン。そのマウンドには、柏原史陽という男が上がっていた。地区予選で敗退したJX-ENEOSからの補強選手として、今大会に挑んでいる。安定感のあるコントロールが魅力のピッチャーで、9回裏からパーフェクトなピッチングをここまで続けていた。
 先頭打者の小室をセカンドフライに打ち取り、2アウト。あと一人。バッターは先制ホームランの東條だった。そして、ここからの攻防がとても長かった。
 粘る東條、抑える柏原。2ストライクは取っているのだが、ウイニングショットが全てカットされてファールになる。先に音をあげたのは柏原だった。押し出しのフォアボール。JR東日本、遂に1点差。

 次のバッターは、この試合で打点を挙げている丸子を迎えた。間違いなく、全てが決まる勝負になる。
 そしてまたもや、とてもとても長い勝負になってしまった。力を込めてストレートを投げる柏原、何度もカットし粘る丸子。JR東日本の応援席から流れるチャンステーマは、「JRファイヤー」。原曲の「NIGHT OF FIRE」はパラパラでも使われる明るいダンスチューンなのだが、なぜかこの局面では低音が強調されているような気がして、それがまたおどろおどろしい魔法の呪文のように聞こえてきた。
――いったい、何球投げているんだ。もう諦めればいいじゃないか。
 そんな囁きが、どこかから聞こえてくる。

 その恐怖に耐えながら、東芝応援席は見守り続けた。そして、エールを送り続けた。赤い大きな団扇を手で叩き、音を奏でる。ばん、ばん、と厚紙とプラスチックが合わさった音色が、東京ドームに響いている。
 すがるような思いで、誰しも団扇を叩いている。

 柏原が投じた6球目。丸子のバットにボールが当たった。その打球は弱々しかった。一塁手の山崎が大事に受け止め、落ち着いてベースを踏みつけた。5-4で東芝の勝利。アマチュア野球としては非常に長い、3時間半のゲームはようやく幕を下ろした。

   ◆

 終了の挨拶を迎い終えた瞬間、東芝側の応援席は脱け殻になっていた。
 壮絶な勝負に打ち勝ったことに対する嬉しさよりも、ここまで頑張って負けなくて良かったという、安堵感と例えたほうが適切だろう。
 そんな状況の中で、僕はあることに気がついた。ある者はそれで再び左手を強く叩き、ある者は火照った自らの体を冷ますかのように扇ぎ、またある者は挨拶にやって来た選手たちに向けて労いの風を送っていた。
 ここにいる誰しもが、赤い大きな団扇を手放そうとしなかった。
 いや、放したくなかったのだ。もしも放してしまったら、負けてしまうかもしれないから。この試合に、本当に勝ったということ、自分たちの心の中に落とし込むまでは、離せないのだ。

 この観客席にはまだ、団扇では扇ぎきれないほどの、熱闘の名残が漂っている。

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