批評再生塾2017 第6回課題「『10年代の想像力』第一章冒頭を記述せよ」さやわかメモ

2017年9月13日に五反田・ゲンロンカフェで批評再生塾(第3期)のゲスト講師として登壇しました。受講生へは「『10年代の想像力』第一章冒頭を記述せよ」という課題を提示しており、当日は提出された批評文への講評も行っております。というわけで、提出された課題に僕が事前に付けていたメモをここに公開します。全16000字以上!!!!

なお、課題文はこちら。
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/subjects/6/

今から10年前の2007年、宇野常寛は『SFマガジン』誌上で『ゼロ年代の想像力』を連載開始しました。この連載は90年代以前のポップカルチャーに描かれた物語とゼロ年代以降のそれとを比較的に検討し、後者に日本の今日的な精神の表れと社会の様相を読み取る革新的な評論として、当初から高く評価されました。
この連載はのちに単行本としてまとめられ、現在ではゼロ年代を代表する批評書とされています。その冒頭部分は連載時からいくぶん加筆修正されてしまいましたが、しかしそれでも過去と現在を明快に弁別し、時代や社会について端的に説明した、本書全体の論理をわかりやすく説明するものとして読むことができます。
「2010年代のカルチャーの特徴をある作品(群)を例に挙げて、これを今日の時代意識や社会状況などと結びつけて語ってください」
これはつまり、文化と社会を相関的に語ってくださいということです。あなたがもし、2010年代に批評家としてデビューするつもりの人間であるなら、過去と現在を踏まえつつ最新の文化について語り、それが今の社会をどう描いているのか、さらには今の社会に何を示唆するのか、必ず、それを書けなくてはなりません。これは極めて実践的な課題だと思ってください。
ただし、以下の条件を満たしてください。
(...以下略)

以下コメント。ちなみに、受講生の並びは順不同です。

●脇田 敦「歌のディズニーランド 50周年を前に -「アイドル」にとっての1970年と2011年」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/hanoisan/2277/
「3組の歌詞を観れば」「誰かが事前に制作サイドを指導したことがわかる」というのは根拠が特に示されていないのが気になりました。このほか全般に筆者の主観ありきで論が進められるところがあり、読んでいて「えっ、なんでなんで、ちょっと待って」という気持ちになりがちです。
全体の構成としても、冒頭からアイドル史の解説に割く文字数が多く、なかなか本論に到達できないのでこの文章が何をしたいのか理解できないまま読み進めなければならなくなるきらいがあります。しかもそのアイドル解説が、最終的に課題の論旨たる2010年の日本社会への影響とどう繋がるのもちょっとわからなかったです。
それをアイドルの歌詞に基づいて詳しく説明するのかなと思いきや、70年代のアイドルは「成長」を歌っていたという話は最後になって急に出てきます。今まで解説していなかったことをもとに結論を書いてしまっているので、唐突に思いました。
加えて言うなら、これは「2010年代の文化はこうあるべきだ」と筆者が思っているというテキストではありますが、2010年代の時代意識はどういうものか表せという課題からは逸れたものではないかなと思いました。

●谷頭 和希「浮世絵とスカイツリー~「読み替え」の想像力をめぐって~」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/improtanigashira/2229/
前半は非常に面白く読めました。資料を細かく提示しているのも非常に好印象です。ただ宇野常寛の郊外論やクドカン論はゼロ年代のものでありますから(2010年に出されたPLANETSの『ゼロ年代のすべて』という本――すなわちゼロ年代の総括本です――の表紙はショッピングモールの写真が表紙であり、郊外論が大きなボリュームを占めています)、その状況がなお2010年代後半まで継続しているとするべきだったのかは疑問が残ります。もしそうだとしても、単純にそれを引き継ぐのであればこの筆者がこれを書く意味とはあったのか。
気になる点は他にもあります。たしかに「あまちゃん」はアイドル文化を東北に混ぜることで読み替えを行ったのかもしれない。これは浮世絵にハンバーガーを描くことと同じだと言ってもいいでしょう。つまり偽史の捏造です。しかし東京に江戸を見出すようなスカイツリーのキャッチコピーなどは、江戸と東京というわかりやすい類似性があるゆえに安易な伝統へ傾倒した、似つかわしいものに似つかわしくジャポニズムを再導入しているもの、すなわち筆者が危険視する、国家や民族にとっての「読み替え」です。それは偽史の捏造とはちょっと距離がないですかね。両者が同じ「読み替え」だというには、ちょっと論理的な補助線が足りないのではないか。簡単に言うと、「土地の記憶」を探ることをそのまま「読み替え」というのは、いささか強弁ではないか(記憶は隠されているとしても存在しているのだから、「読み替え」てはいないのでは?)。
これだと、ちょっときつい言い方になってしまいますが、筆者は宇野常寛の提示した「読み替え」という言葉に乗せられて、言葉から連想したままに例示をしているように見えてしまう。件の議論を受け継ごうとしようとするあまり、スカイツリーなどの新しい明確なランドマークとファスト風土のような無個性な風景を同一視しようとしてもいるようだ。
そうでないのであれば、宇野常寛の「読み替え」という言葉を継承しつつ、自分の提示している事例をきちんと腑分けしていくべきかなと思います。もしくは、スカイツリーは本来なら無個性な塔だ、とか言いきってしまい、全部を「読み替え」の理屈で語れるようにしないといけない。
また筆者は前述のように、資料を細かく提示しているのは素晴らしいのですが、それらをガッチリと理論を研ぎ澄ませていくために使うには、もう少しだけしっかりやってほしい。たとえば2000年代から2010年代への変化という話でマンションポエムを比較していたにもかかわらず、宮藤官九郎については2005年に変節があるというのはちょっと話が食い違っていて、その不整合の回収が行われなかったのが残念です。
また特に後半では検証するのにも疲れてしまったのか、「2010年代のランドマークタワーが単純な直方体ではなく、どこか風変わりな形をしているものが多い」という感じに、筆者の印象を書いてしまったようなところがあり、ちょっと首肯できない。
ならばこの筆者は東京都庁を「単純な直方体」だと思っているのか?直方体の建物というと一般的に考えてモダニズム建築が思い浮かびます。そしてそれへの反動としてポストモダン建築や脱構築建築が生まれているわけですよね。そういう流れがあって「単純な直方体」でない建築は80年代から存在しているにもかかわらず、筆者はそれを2010年代的なものだと言い切ってしまう。
僕はいま、たまたま建築になんとなくの知識があるからこういう反論が可能でしたが、そういう知識がなくても、あらかじめ批判的に自分の文章を検証しておくことは可能です。特に、こういうふうに「今の時代はこうなのだ」とか言いたいときは、ちゃんと自分で「じゃあ過去はそういう時代はなかったのだろうか?(自分は今こそがそうだと思うけど)」と思って調べてみることです。いま文章で言い切ろうとしていることについての逆・裏・対偶を一瞬で思い巡らせましょう。そして、もし過去にもそういう時代があったとなれば、また違ったものが書けたはずです。
一例を挙げると、磯崎新は震災で倒壊した建物を見て、そうした脱構築建築の時代は終わったとしています。また新国立競技場の流線型を活かしたザハ案が却下され、わりと平凡に「伝統的な」意匠が込められたように見える隈研吾案が採用されたのも記憶に新しいです。すると、世の中はそれこそ、筆者の危惧するような、政治的な悪しき「読み替え」のほうに進んでいる(スカイツリーもその一例だ)けど、我々は正しい「読み替え」をすべきだ、みたいな論旨になっていくかもしれません。
ただどっちみち、前述したようにファスト風土とか読み替え(は、まあ一応そのあとだけど)というゼロ年代に既に存在した概念を単純に継承しながら例示を続けていく方法だと、それは宇野常寛や三浦展のモデルに当てはめて現実を解説しただけ、ということになります。だったら宇野常寛や三浦展を読んでいればいいし、またそれだって今さら古びてもいるかなと思います。2017年だからこそ書ける、この筆者が新たに提示する都市論とか現代社会論、カルチャー論が読みたかったし、読ませなくてはならないかなと思います。

●高橋 秀明「90年代を代表する作家はどう10年代と向かいあったのか」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/hide6069/2242/
言葉の使い方でところどころ引っかかるところがありましたが、何とかなるレベルかなと思います。しかし論旨はどうでしょう。「強い女」と言われると、ちょっと昔の政治家だとサッチャーとか土井たか子とかもいたと思いますし、そもそも「女が強い時代」というのも戦後ずっと言われてきたところがあります(たとえばウーマンリブなんてのもありました)。ポップカルチャーの世界で言っても、たとえば「戦闘美少女」が批評で注目を集めたのは90年代のことです。そういう時代のことを忘却して、この文章は「今」存在する強い女を挙げて、今は強い女の時代なのだ、と言ってしまっている。それだと納得できません。
まず、過去にもそういう時代がなかっただろうか、と考えねばなりません。それはググるだけでもわかるはずです。もし、過去にもそういう時代があることを知って、こりゃだめだと思ったらその論は取り下げるべきでしょう。それでもなお10年代は「強い女」の時代だという論旨にしたいなら、それらと筆者が書こうとしているものがどう違うのかを書けばいいと思います。
「百合」についても同じで、「自分がそう思っている」ということを検証せずに書かれているように思います。するとどういうことが起こるか。「「百合」のポップカルチャーで一番に出てくるのは、『ゆるゆり』」だと言いつつ、「どちらというと日常を淡々と描く「日常系」や「空気系」と呼ばれるものに近いかもしれない」と言われてしまうと、読んでいる方はじゃあこれは「百合」じゃないのか?タイトルが「ゆり」だから百合なのか?と混乱してしまいます。おそらく筆者の中では話として成立しているのかもしれませんが、その思考の流れが読者にはわからない。
そして最終的に、この文章だと「百合」が日本社会にどう関係あるのか、また「強い女」と「百合」がどういうふうに相関しているかがよくわかりませんでした。結果的に、「今、カルチャーだとこれらが来ています」ということを並べた文章のようになってしまったように思えます。

●じょいとも「英雄の失権とマクロ・ヒストリー:2010年代私観」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/joytomo/2276/
単純に、2010年代の文化について書いた部分がものすごく短いですね…。というか、作品タイトルしか書いてない。各作品がどんな内容で、なぜそれが2010年代的なのかを記せという課題の要求には応えていないと思いました。さらに、そもそもこの文章は歴史的事実を列挙したもののように見えますので、批評とはちょっと違うかなと思います。

●イトウモ「あれでもこれでもいい」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/gonzomi/2281/
これは少々、長すぎるようです。筆者が単著を出されるときにはこういう書き出しにしていただいてもいっこうにかまわないと思いますが、しかし今回の課題が要求しているのは「架空の書籍の第1章を書け」ということではなくカギカッコで指定している部分でした。さらに言うと、本全体の論旨をコンパクトにまとめたようなシノプシスとして機能する1章とせよ、ということでした。
また読者の大多数が既に了解していると思われる震災前後のことについて詳細に記しているのは措くとして、その一方でこの文章だと現実の出来事の説明の中に作品名が散りばめる形を取っていて、カルチャーについての批評として読むのはいささか難しいかなと思いました。

●太田 充胤「第一章 【恋ダンス】恥ずかしげな過去形で複製された身体運用のリスト、あるいはアイデンティティ【踊ってみた】」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/lemdi04/2273/
たいへん面白いと思います。パフォーマンス系のカルチャーが10年代に重要だったというのは僕の関心領域や普段書いている内容にも重なるところがあり、非常に魅力的な論考だと思います。
ただこれはちょっと長すぎます。そして、それ以上に悩ましいのは、そのわりに「踊ってみた」というものに対する説明を手順を踏んで行っていない感があり、結果的に文章全体が混乱しているように思いました。
たとえば序盤でいきなり「2007年、ニコニコ動画で【踊ってみた】タグが誕生してから早10年、はじめは極めてオタク的だったはずのこの営みは、気がつけば地上波テレビドラマという極めて非オタク的な空間で行われるようになっていた。」と言われても、それを見たことがない人には何のことかサッパリ分からないのではないでしょうか。では単に不親切なテキストなのかと思いきや、中盤以降になって『マルモのおきて』等の例示がたくさん始まり(その数もいささか多すぎるように思いますが)、なんとなく踊ってみたというものについてこれらの例示を使えばわかるのかもしれないと少なくとも僕には思わされた。
これらを冒頭のほうで挙げながらちゃんと説明してから本論をやるか、または冒頭の方ではハルヒとか恋ダンスというものに説明を割き、『マルモのおきて』あたりの流れは省いたほうがよかったと思います。そのうえで、「とはいえこのコピーダンスという文化自体は、なにも00年代後半に始まったことではない。」として、原典を知らないでも可能なダンスの模倣というのはいっぱいあったけど(パラパラや盆踊りなんかも挙げつつ)、しかし「踊ってみた」は、あくまで映像から模倣するミームであるというところに話を絞った方が文章としてはきれいにまとまるかなと思います。
そうでなければ、よくも悪くも、若手の、こういうカルチャーが好きな人が、こういうカルチャーを知っている人だけに届くように書いた文章という感じがしてしまう。今回の課題はなるべく多くの人に届くようにという条件をつけたものでしたから、そこからは少し外れてしまっているかなと思います。
また一方で、東浩紀の二次創作論でも、既に原典を知らなくてもいいということは指摘されていたはずです(シミュラークル論はオリジナルなきコピーについてのものですし、その後の「n次創作」というのはそういう含意のある言葉でした)。だからこれは論旨の補強としてはあんまり使えない気がします。こういう、あえて挿入したゼロ年代批評的なタームは、かえって踊ってみたが10年代よりもゼロ年代に指摘されていたものでしかない、ということを強調してしまう結果になっていて、だったら使わない方がよかったかなと思います。
そもそも全体的に、「ゼロ年代批評」や「インターネット時代」みたいなものに漠然とした信頼があって、それによって島宇宙を越えていくというストーリーが筆者の中にはあり、それに「踊ってみた」を当てはめてみたというふうに読めてしまうところがあります。それだとまずいです。ネットで島宇宙を越えるなんてのはそれこそゼロ年代から言われていたことで、その中心に据えられるのが「踊ってみた」になっただけでは、ゼロ年代とどう違うのかよくわからない。
それだと安易ですし、しかもそのストーリーは今やいささか古いものだと思います。ゼロ年代的なタームだけで考える癖が取れていない、という言い方でもいいでしょう。今の文化や社会状況などをきちんと見据えることがまず第一に大切なこととしてあります。たとえばですが、ゼロ年代末期以降からは「踊ってみた」でもボーカロイドでも、結局は有名な固有名が現れては特権化していくという流れがあるわけで、そこまで含めて語って初めて10年代的であるとは言えるのではないか。
これは一例なので、社会に対して絶対にそういう理解をしろというわけではないですが、いずれにしても「10年代ってこうだ」というご自身なりの認識をして、それにあわせて手持ちの理論(あなたの武器)をアップデートするか、または古びてきたものを批判的に再考すべきかなと思います。

●みなみしま「ポップなき時代にポップを探して」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/9090mm/2256/
宮台真司の「島宇宙」を使っていた人はほかにもいらっしゃいましたが、これは90年代に作られた概念です。それを素朴に2010年代を表すものとして使うのはあまりにも古くないだろうか、と思わされました。たとえば今の時代というのはポピュリズムの時代だなんて言われます。それは全体主義的な傾向ですよね。島宇宙とはちょっと違ってきてるわけです。
じゃあ文化にだけは島宇宙化が残っているのか?だけどオリコンチャートなんかを見ると特定のミュージシャンに支配されているようにも見える。あるいはみんな紅白歌合戦に出たがったりする。そういう状況にあって、島宇宙という概念をそのまま使うのは危険かなと思います。使うなら何らかのアップデートが必要だろうと思います。
そしてこれはアートにおいて過去に導入された「ポップ」という概念についての文章であり、ポップカルチャー批評ではなかったかなと思います。
別に自分はポップカルチャーの批評をやりたいわけではない、アートの批評をやりたいからこれでいい、と思うかもしれませんが、しかしそもそも「ポップ」という概念をアートに持ち込んだ人たちは、まさしく批評的な手つきで越境的にアート内部にそれを導入したはずです。望めるならば批評家としてやっていただきたいのはそういう仕事です。彼らが過去に行った「ポップ」という概念を自明のものとして語り直すことではない、というふうに思っていただけるととてもうれしいです。
もし、いわゆるジャンル批評としてのアート批評を志すとしても、自らが外部へと接触することで、シーンに対して大きな影響を与えるものを書くことができるようになると思います(たとえば椹木野衣は『シミュレーショニズム』の中で音楽カルチャーを外から持ち込んだのだって、そういうことですよね)。
内容はまとまっていると思うので、そこがとても残念です。

● 小川 和輝「思い出をめぐる消費−クラウドファンディングと新しい創作姿勢−」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kazukigenron/2280/
「自己承認欲求」がいきなり「思い出」という概念になるのがやや唐突で、もう少し手順を踏んでほしいところです。たとえば自己承認欲求とはつまり、我々が自分の「思い出」を他人に見せたがっているのだ、と一言書くだけで全然読んだ印象は違うと思いますよ。
また文学賞のブームというのは(芥川・直木賞に限らなくても)今に始まったことではないのですが、なぜそれを2010年代の流行として捉えているのか、この文章からは判然としません。行列云々を話題にするよりも、SNSなどを通じて、それを写真やテキストの形で定着させるということが今日的な「思い出」の本質なのだ、みたいな文章の流れにしたほうがよかったのではないか。
全体の論旨としては面白く読んだのですが、最後に「ここから先の章では」とか書いているのが少しがっかりしました。課題文に書いたのは、本全体の議論が冒頭でコンパクトにまとまっているから宇野常寛はよい、ということでした。それをやっていただきたかったです。

●渋革まろん「〈現実〉のもっと近くに―演劇化するセカイの想像力」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/shibukawa0213/2266/
この文章はつまり近代文学を通しての実質的な近代批判から成り立っていて、その挑戦的な姿勢は、2010年代の思潮や社会のあり方にあわせてただ作品論を展開するものではないという意味で、今回の受講生の中では唯一のものだったと思います。そこがまず好ましい。
また正直、ここに書かれている身体性への傾倒は僕にとって好ましい時代性ではないですし、反動的な前近代への接近に過ぎないのではないかとも思えるのですが、でもこれは明確に2010年代はこういう社会になっている、という指摘を含み、論考としてはこれこそ僕が読みたかったもので、とても素晴らしいです。この序論では「演劇化するセカイ」について問題を孕んでいることも書き手は指摘しながら、しかし最終的には価値判断を保留しているわけで、この先でどのような処方箋が提示されるのか、思わず気になってしまう内容でした。このくらいの内容を書いて、ようやく単に好きなものを書いているわけでない批評として、その中身についてうるさ方からとやかく言ってもらえると思います。
しかし瑕疵もあります。まずとにかく長いです。課題が要求したのは端的に全体の論旨をまとめてくださいということでした。議論の内容はたいへん面白いのですが、今これをたとえば宇野常寛のように今すぐ『SFマガジン』の連載として載せるのは難しいのではないでしょうか。筆者はいまだ無名の書き手と言えますから、ひょっとしたら、これを載せてくれるメディアはなかなか少ないかもしれません。
また、多くの人に読まれる文章であってくださいと課題には書きました。論述は丁寧で、前節の最後に次節で何を書くか記すなどの配慮が細かく成されていて大変に好ましいですが、いずれにしてもこのボリュームだと、それだけでかなりの読者を減らすはずです。というか、論旨が何だったのか思い出せなくする人が増えていくでしょう。本の序章を書くということに気負いすぎてか、いささか自己満足的な冗長さを生んではいないでしょうか。ハードコアな長いものを書く若い人が、結果的に一部のジャンル系読者(この論考の場合なら演劇界隈やボカロ界隈、どうかするとサブカル批評界隈など)にのみ支持されたり、また大学研究者に収まっていくのを僕はしばしば見てきました。そうではなく「批評を再生する」ことを志すのなら、このやり方、この内容はいいと思うので、読まれること、キャッチーになる工夫をしたほうがいいように思います。
また前半、二次元と三次元という区別自体がなくなっていくという話はわかるのですが、2.5次元が二次元を三次元化するものとして扱われてみたり、かといって『シン・ゴジラ』を二次元として扱ってみたりと、筆者の書いている段階で用語の混乱が起こっているようです。その混乱自体が筆者の書いている事態を表しているわけですが、ここは慎重に腑分けしながら論を進めるべきだった、というか用語が混乱してしまうということが前提なのですから、だったらあえて混乱させてしまい、「用語が混乱してしまった。しかし、これこそが筆者の指摘したい状況なのだ」というふうに書くという、メタ解決によるレトリックがよかったのかなと思います。
どうするにせよ、その混乱に気づけなければどうにもならないと思います。それは、この文章全体が筆者の猪突猛進的なパッションを感じさせつつ、だからこそいささか読者を突き放す部分を持つ(長いとか)ことと無関係ではないはずです。今自分が書いていることがどのように読まれうるか、しっかり客観視し続けながら書くといいのではないでしょうか。

●ユミソン「可逆性に折りたたまれたものの転回」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/yumisong/2292/
これは「経済の文化」についてのお話としては楽しく読めましたが、ポップカルチャーについて書くとしたら、もう少し踏み込んで具体的な作品について論じる必要があるでしょう。バスキアの名前が出ていますが、アート方面から捉えるポップという言葉は、基本的にはポップカルチャーそのものを指しているわけではありません(概念として導入しているだけです)から、これはポップカルチャー論としてはちょっと読めないかなと思いました。
また、それによって2010年代の日本がどのように捉えられるのか、という点でも今ひとつ踏み込みがないと思いました。そもそも日本で消費文化が注目されるようになったのは80年代ですから、せめてそれとここで論じたいポイントの違いくらいは理解させてほしかったように思います。
そして「と言っても政治のことはわからないが…」とか言われてしまうと、読者としてはじゃあなんでこの文章書いてるの、という気持ちになってしまいます。課題だから書いている、というのではあまりにも悲しい。嘘だとしても精一杯に虚勢を張って堂々としていないと、読者は不安になるものなのです。

●北出 栞「媒介者の発見、あるいは時空間を超越する経験について ~『2010年代の想像力』序章
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kitade/2253/
とても読みやすく、いい文章だと思います。ところどころ、細かいところで説明不足なところがありますけど、編集者がちゃんとしてれば校正で何とかなるレベルではないでしょうか。指摘しやすく気になった点としては作品名にせめて発表年くらいは書いてくれないと読者は時系列を感じながら読めない、ということですかね。特に大量に固有名が出てくるのですし。文章にいちいち書くと可読性が下がると思ったのなら、すべて註にしちゃえばいいですよ。
しかし「約束」によって主要登場人物にのみ円盤に意味が持たされているというのをARアプリと重ねるのは少しむずかしいかなと思います。登場人物は要は円盤について記憶を共有しているに過ぎず、ここにはアプリに相当するものがありません。たとえば円盤が現れた日に子供が生まれた夫婦などがいたとしたら、その人たちにだって円盤は意味があるものですよね。だからこの比喩はちょっとダメです。ちゃんと相似になっていない。むしろその後の議論である画面外の視聴者にとって意味が発生するという話の方がこの比較をやるならまだ似つかわしいように思います(モニタを通して視聴することがアプリとして作用する=物語を外部あるいは別レイヤから眺めたときだけ意味が発生する、とか)。たとえ話が別にたとえとして機能していない、というのはネットとか見ているとよくある例なのですが、その轍を踏まないようにがんばりましょう。
そしてとても残念なのはこの論考の主旨がどこに置かれているのかがきちんとしめされないことで、冒頭のネットアーキテクチャの整理とその後のKey作品の話、さらに物語への欲求への話が、実に断章的に並べられていように感じられる点です。たぶんこの筆者が最も気持ちを注いでいるのは、「今はコミュニケーションの時代と言われるけどそうじゃない、物語への欲求だってあるんだ=それは主‐客の物語以降の、準‐客体の物語なのだ」ということなのかな?と思いました。
しかしそうなのであれば、それを主軸において一本のラインとして読めるように文章を構成するべきです。具体的には、冒頭のSNSについての記述の時点で「物語よりコミュニケーションが有利だとされている」みたいな話をすべきだったでしょうし、そういう論旨でまとめていくならば、たとえば『天体のメソッド』の参照先としてのみ考えられる『Kanon』についての詳細は全く省くべきでしょう。
書きたいこと、触れたいことがいろいろあるのだと思いますが、散漫にそれを示されると読者としてはひとつのストーリーとして読むことができません。批評に限らず、どんなコンテンツでもそうですよね。メインテーマは何なのか、とか、それをどのような順序で読ませるか、みたいなことを考えた、ちゃんと構造のある文章を作るといいと思います。すると、この内容だとそこまで長文にもならないはずです。

●吉原 啓介「第1章 僕たちの作るこの「セカイ」にキミなんて必要ない!?」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/448ra/2263/
震災というのは「~であれば」という想像力を許さないというのは非常に面白い視点だと思います。これは批評的にいいものだと思う。
しかし「世界の危機に陥った人類たちがある巨大な意志のようなものによって、ひとつの有機体へと統合していく」作品は昔からあるのではないですか?たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」とはどう違うのですか?「○年代の作品はこうだった」と言い切りたいのであれば、もうちょっと「間違いなくそうだ」と思えるように言葉を尽くしたほうがいいかなと思います。
『アイアムアヒーロー』についてもそうでした。『エヴァ』の「使徒」という敵だって、戦う意味がないにもかかわらず襲ってくるという理不尽さに意味がありました。それとはどう違うのでしょうか?また『ゴジラ』は原爆の記憶が反映されながらも、それが天災のようなものとして描かれるところに日本人の心性の表れがあったと言われています。それも、意味もなく訪れる脅威ですよね。
過去にもそういう作品があったということに気付いたら、「あれとはココが違います」と言うことで、かえって現代性を際立たせることすらできてトクです。だから、「○年代の作品はこうだった」と言い切りたいときは、むしろ過去にこだわっていろいろ調べてみてください。
そんな感じで、いろいろと疑問点が出てきてしまう論考でした。しかし最初の「今の時代はこうだ」という切り口は、今回みなさんが提出してくださった課題の中でも批評的なものがあったと思います。個人的にはちょっと異論もあるのですが、それはまずはこの論考がきちんと形を成してからするお話かな、と思います。

●寺門 信「プロローグ:「失敗」することを失敗し続けた時代」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/jimonshin/2268/
テレビのネタ見せ番組はたしかに減りましたが、ブルゾンちえみや平野ノラが結局はネタ見せから出てきていることを思うと、まだその影響力は強いのではないですか?
また波田陽区ら4人がユニット「一発屋2008」を結成したのはその名の通り2008年のことです。つまりこの時点で一発屋は飽和気味だったわけですからYouTuberの影響で一発屋が増えたというのはちょっと苦しい…というか、一発屋という言葉を「一発芸をやる芸人」という意味で使っているなら、それは単に間違いでは。
そんな感じで、いろいろと前提になる部分で言い切ってしまっていることが、「え?そうだっけ?」と思わせるところがあります。こういうのは、きっちりと反論の芽を潰しておくべきです。言われた後で「それはこういう意味でさー」と説明することはたやすいのですが、言われる前に先回りして文句を言われないようにするのが評論的な文章の作法かなと思います。
さて、それはともかく「一発屋」というのをインパクト重視のネタをやる芸人を指しているのだとしても、その先の論旨はどうでしょうか。ネット/既存メディアという対立軸はわかりやすいですがありふれていますから、今どきは何かひねらないといけないかなと思います。他の受講生の方もそうでしたが、ごく単純に「ネット最強」みたいな素朴な実感で書くのって、簡単ですけどそれは一般の人が考えてることと変わらないってことなので、批評を書くならもう少し自分のその実感からも距離を取らないといけないでしょう。
たとえばですが、むしろYouTuberのほうがネタの面でも演出面でもテレビ的な文法を真似ているとか、もしくは、そういう瞬間性を求めるのはどっちのメディアが先というのではなく、瞬間性を求めてしまうことこそが時代性なのだ、みたいな書き方のほうが、読んでいて「おっ」と思えるんじゃないでしょうかね。一例ですが。
そのほか。「この「失敗」という観点から考えたとき、10年代の一発屋常態化の状況が問題なのは、「失敗」が完成されないまま放置され続けることにある」以降の議論がわかりにくいです。なぜ一発屋なら放置されるのですか?一発屋のワンパターンなボケは飽きられる=ツッコミの必要を感じない=だから放置されるということかな?だけど「そのツッコミはつねにその芸人を見る観客にだけ委ねられている」以下のくだりは、別に一発屋に限らずすべてのピン芸人に言えてしまうことではないのでしょうか。そうでないなら、このように読まれてしまわないようにすべきだと思うのですが……。
あと、「失われた20年」や日本社会の「失敗」についての話は、思わせぶりではあるものの具体的ではなく、イメージに頼っているように思います。そこを掘り下げて書くのが今回の課題の要求だったかな、と思います。

●谷 美里「酸欠少女はなぜフードをかぶるのか?」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/misatotani/2289/
自分の本についても書かれているから言うわけじゃないですが、これは非常に面白いです。フーディーのノームコア性からボーカロイド、メカクシ団に連結していく手つきはポップカルチャー批評として的確な手順を踏んだもので、明快かつ知的な興奮がある。僕の書き方にも少し似ている。
しかしもうひと押し、そうしたカルチャーに反映されている新しいメンタリティが私たちの社会にとって「どう」なのか、「なぜ」なのか、などがないと、とりわけ年長世代の読者や、こういうカルチャーに興味がない人たちを納得させるものにはならないと思います。「今の若者はこうなんです」はわかったけれども、「こう」だから「どう」なのか。「なぜ」「こう」なのか。そこを書くのが一番難しいことはたしかなのですが、たぶんこの書き手は、そこが今後の課題になるのでは。それは、自分の書き方にちょっと似ているから思うことでもあるんですが。

●灰街令「Automatic Objective Polyphony ――10年代、20年代の想像力草稿」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/akakyakaki/2251/
実際これは未完成の原稿なのでしょうが、それはともかくとして、ちゃんと面白い部分はありました。けれども、たとえ未完成だとしても、さまざまな付記を記すより前に、課題が要求した「2010年代の日本社会と比較的に論じる」というところを満たす方向で進めていない、というのが気になりました。「モノによって駆動する世界」という考え方はいいとして、それを作品内から見出す前に、今の日本社会がそういう状況になっていると言う必要があるでしょうし、さらには、それがいいことなのか悪いことなのか、とか、今後どうなる、とか言わないと、ここで語られているカルチャーや思想に興味のない人(社会に興味のある人)にはあまり読んでもらえない文章になってしまいます。
また、文化や思想に興味がある人にとっても、「モノによって駆動する世界」の表現を枝葉末節にわたって具体的に解説するわりには、それが今日、何を推し進めているのか、というような期待を抱けません。結果的に、個々の作品解説が有機的に結びつかず、全体の論旨を形作れないことになります。すると筆者が好ましいと思うものが現れている作品や表現を並べ立てた文章のように読めてしまう。
いわゆる表現論やアート批評、美学としてならこの文章のやり方はまだあり得るかもしれませんが、どちらにしても今回の課題の要求に応えるものではないようです。課題文に書いたように、批評家として書くなら、ここを越えなければいけないのではないか、と思います。

●伏見 瞬「言葉が、人を殺すとき」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/shunnnn00/2293/
別に構わないのですが、今どき伊藤計劃(SF小説)はポップカルチャーという範疇に入れていいのでしょうか。いや、そもそも虐殺器官はどう考えてもゼロ年代の作品ではないかな……と思います。
それはともかくとして、伊藤計劃論としては面白く読めました。ただ、課題が要求している日本の社会と比較的に論じるという点では、少し弱いなという感じがありました。途中でTwitterなどの話が出てくるのはかなりいい感じなのですが、それならそれで筆者自身がそういうテクノロジーが登場した時代についてどの考えていて、どのような提言を行うのかという部分が足りません。最後で急に國分功一郎などの名前が出てくるのも、いかにも取って付けたような感がありました。
実は、今回の課題で皆さんにもっとも足りないだろうし、ぜひやっていただきたいと思ったのはその部分でした。ポップカルチャーの批評は、作品に寄り添って、丁寧に語ればいいというだけのものではないです。現代を語り、社会を語るということが要求されます。この書き手は、そこに尻込みしてしまったかのように見えます。しかしこの人は文章が書ける人なので、物おじせずに堂々と書いてみてほしかったかなと思います。

●山下 望「ガチとフェイクの皮膜論 -- アイドルでもヒップホップでもない『10年代の想像力』」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/yamemashita/2236/
これ、面白いです。しかしちょっと文章に挑発的にひねくれたところがあって、そのせいもあってか、一文が奇妙に長い読みにくさを誘発しています。タイトルもそうですし、題材がプロレスだからしかたないところもあったのかもしれませんが、持って回った居丈高な調子を重視した、いわゆる「サブカル」的なものだという形容もできるでしょう。
こういう書き手は個人的に嫌いではないです。が、もうちょっと誠実そうなフリをしたほうが批評の読者の間口としては広くなると思います。これは単なるテクニックです。題材が論壇プロレスとか生臭いものにかかわるからこそ、すましていた方が面白がってるわけじゃないんだという感は高まりますし、内輪ノリじゃないんですよというふうにも振る舞えるので、広い読者にちゃんと読んでもらえるはずです。
しかしそうはいっても文章は長く、やや散漫なきらいがあります。たとえば上記のことに少し気を配っただけでも、ここまで長くはならないのではないかなと思います。
たとえば最後の「ここ数年で急速に大都市の風景を塗り替えるまでになったハロウィンの仮装ブームについては、今論じても季節外れになってしまうので控えたい」みたいな書き方も、「じゃあ最初から書かなきゃいいんじゃないすか。あなたがハロウィンにも目配せしてると示唆したいだけ?」と意地悪を言いたくなります。
プロレスについては、明らかにきちんと資料を選んで、調べ、提示しているところが感じられて、とても誠実な書き方です。特に読む必要はないと課題文には書いたのですが、『ゼロ年代の想像力』の連載版にもきちんと目を通しているのは非常に好感が持てます。だからこそ、今の状態だと、批評界隈の若手みたいな人が「業界」をナナメに見ながらダラッと書いたみたいに受け取られたらいやだなあと心配に思います。議論の骨格がしっかりあるだけに。
とはいえ、出てくる批評書の多くがゼロ年代のものなのはちょっと残念ですが、宇野常寛の指摘した「戦わなければ生きられない」という状況それ自体が今日にはプロレス的なゲームとして上書きできるという指摘は、これは本当に大変面白く、批評的な読み応えを感じるところです。よくあるプロレスファンは何でもプロレスで語ってしまうのがよくないというか全然ダメで、ポップカルチャー批評にもすぐプロレスを出してくるのがかなり読む気を削ぐところがあるのですが、この文章はそうではなくて「いや、今は気付かないうちに自然とプロレスがキーワードになっちゃってるよ」と言って見せつけるところがとてもうまいです。プロレスありきで話をしてるんじゃなくて、結果的にプロレスが中心になってしまったよね、という逆転になっているのがうまい。
アイデアや調べ方にいいところがあって、それは近年の若い書き手にはなかなか見られなくなっている美点なので、構成力とか文体の洗練(パターンを増やすのも大事)などを磨いてほしいです。そうしたほうが、結果的にこの書き手の与えたいインパクトや切れ味は増すでしょう。


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