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10周年記念インタビュー連載 vol.8〜活動初期、キリ(後編)〜

11月1日(金)に新宿紅布で開催される、Mr.ワリコメッツの10周年記念ワンマンライヴ『拾』。そして、Mr.ワリコメッツ10年の歩みを探るべく始まった、このインタビュー連載企画。今回は、vol.6の続きで、活動初期についての、キリの話。後編。
(●インタビュアー ○キリ)

*ヘッダー画像は、ミニアルバム『A life of frog』のジャケット用写真の、オフテイク。


●では次に、セカンド・ミニアルバム『A life of frog』について聞きたいと思います。まず、発売が2012年の5月で、レコ発で青森、仙台に行ったと聞いてますが。


○そうですね。

ゴールデンウィークに、『フロッグ』(=『A life of frog』)を(青森、仙台に)持っていった記憶がありますね。

あのー、青森、仙台はジケンズ(=The Jikens)と「一緒に周ろう」みたいな話になって。

エイジさんと元々バンドをやってたケンタさん、青森時代にエイジさんと一緒にバンドをやってた、そのケンタさんに、エイジさんが「なんかイベントできない?」って声をかけて、それで青森はケンタさんがイベントを組んでくれたんです。

そこにジケンズを呼んで。

もう無くなっちゃううんじゃないかなぁ、弘前マグネットっていう、結構デカいライブハウスでやって。

仙台は逆に、ジケンズが呼んでくれて。


●仙台はなんていうライヴハウスですか?


○サテンドール。

そこはライヴ・バーみたいな感じでしたね。


●このツアーでの思い出は何かありますか?楽しかったこととか、辛かったこととか。


○うーーーん。

これ、あんまり書いちゃいけないんだろうと思うんですけど・・・(この後いろいろと話は聞いたが、インタビュアーの判断により、ここは自粛。簡単に言えば、ボーカル・エイジが否定的な発言を受けたことに端を発する、青森でのトラブル。)・・・が一番記憶にはありますねぇ。


●ツアー先でそんなことがあったんですね。青森と仙台では、どちらが先っだったんですか?


○青森が先ですね。


●そうしたら、その後の仙台は大丈夫だったんですか?


○仙台では、もう、お葬式みたいな空気でしたよ。

ライヴ前にラーメン屋に行ったんですが、その時エイジさんが「ライヴになったら昨日のことは関係ないから。」みたいなこと言って。

それで本当にエイジさん、鬼気迫るライヴをしてましたねぇ。


●うーん、ちょっとどこまで使えるか分かりませんが、興味深い話ですねぇ。


○わりとエイジさんはその頃尖ってたっていうか、尖ってるっていうよりも、こう、なんていうんでしょうねぇ、孤独だった感じはちょっとありますねぇ。

あんまり味方がいないっていうか。

最終的に自分が、っていうか。

その頃に言ってたことですげぇ記憶に残ってることがあって。

「すげぇもの、誰にもマネできないような音楽を作って、死んでやろうと思ってる」って言ってましたねぇ。

当時のエイジさん、やっぱ俺ん中では結構怖かったですもんね。

今でこそ、こう、わりと丸くなったっていうか、純粋に音楽が楽しくて今やっているなぁって感じがしますけど、当時はいろんな、野心とか、世の中に相手にされない苦しみとかもすげぇあったと思いますねぇ。


●では、『A life of frog』のレコーディングはいつ頃だったのか覚えてますか?


○たぶん2012年の1月とかじゃないですかねぇ。

冬場に録った記憶があります。


●前作『バキューンとガム』の発売が2011年の夏だったことを思うと、結構ペースが早い感じがしますね。


○まぁなんか、『フロッグ』に入っている曲で書き下ろしって、「A life of frog」と「オーラリノ」くらいだと思うんですね。

「ジョン」と「ジェニファー」はその前からあったはずです。


●『A life of frog』のレコーディングで苦労したことは何か覚えてますか?


○苦労したことねぇ、、、まぁなんか、すべてにおいて苦労しましたねぇ。


●全てにおいて!?


○うーん。

まぁ、『バキューンとガム』を録って、レコーディングというものの空気感にはある程度慣れてきた感じではあったんですけど。

『バキューンとガム』が勢いで出したファーストだったのに対して、『フロッグ』はちょっと変化球みたいなアルバムだったんですよね。

いきなりインストから始まるし。

それに『フロッグ』の中では効果音とかも結構使って、あとキーボードとか入れたり、ノイズ的な音を入れたりとか。

純粋にロックンロールのアルバムかって言われると疑問が残る感じのものだったとは思うんですけど。

まぁ、わりかし意欲作だったんですよね。

ただ、技術とかがまだ伴ってない段階での意欲作で。

だから録ってみて、なんか思ってたのと違うなというところがやっぱりたくさんあって。


●なるほど。


○俺ん中ではちょっとこう、消化不良なアルバムだったのかな、という感じですよね。

でもまぁ、危機感とかすごく強くて、一枚目と同じようなことしてちゃダメだっていうのがあって。

二枚目はちょっと違った感じのことをしないといけないなと。

たぶんそれは、エイジさんが強烈に感じていて、『フフロッグ』というアルバムに色濃く反映されているはずです。


●では、そんな中でも、「これはよかったんじゃないかな?」と思える曲はありましたか?


○それは「ジェニファー」じゃないですかねぇ。


●どういった点で、ですか?


○「ジェニファー」って、ワリコメッツの前身バンド、ロンパースって言うんですけど、ロンパースがやってた頃の原曲から比べると、もっとずっとストレートになっているんですよね。

ロンパースって、曲展開が激しかったりとか、転調したりとか、テンポが変わったりとか、あとブレイクとかすげぇ使ったりとか、なんかこう、アレンジを詰め込むようなところがあって。

そういう、無駄というか、いわゆる贅肉みたいな部分を削ぎ落として削ぎ落としてシンプルにしたっていうところが、一個の到達点だったんじゃないかなぁと俺は思うんですよね。


●削ぎ落としていってシンプルに!という到達点。


○ たぶんそれまでに散々そういうこと(=詰め込むようなこと)をやってきてて。

葛西さん(Mr.ワリコメッツの初代ギタリスト)とかもそういうアレンジが好きだったりとかして。

それに対して、たぶんエイジさんは贅肉を削ぎ落としていこうとしたのかと。

エイジさんは前々からよく言ってましたけど、太らしてって太らしてってアイデアをたくさん入れて、曲をこうお腹いっぱいにしてから、いらないところをカットしていった方が絶対面白いもんになるっていうことを自論にやってたところがあって。

それまでは「あぁ、これだ!」ってものとかを全部詰め込んで結構ヘンテコな曲にはなってたと思うんです。

それをカットしていってという作業を重ねて到達したシンプルさ。

その成果が「ジェニファー」には見られるんじゃないか、と。


●なるほど。


○でも、それはたぶん普通の曲作りでもあって。

みんなよく分からない状態で、音楽もよく知らないし、技術もないし、「こういうイメージで作りたい」って言われたものもよく消化できていない感じが当時はあって。

めちゃめちゃ遠回りな曲作りをやってたと思うんです。

たぶんエイジさんはそういう中で、曲を作っていくという作業に慣れてもらおうと思ってたんじゃないかな、という気もしますね。


●ワリコメッツの歴史、もっと言えばワリコメッツが生まれる前から脈々と続く歴史のようなものを感じます。次の話に移らせてもらいます。『フロッグ』のツアーでは、青森、仙台以外にも、大阪、京都、名古屋、岐阜に行ったと、エイジさんから聞きました。


○たぶん『フロッグ』のツアーで行った、、、かな?

いや、どうかな?

なんか、名古屋とかに行ったのは冬場だったような記憶があります。

もし『フロッグ』を出してたんであれば、その翌年の話になりますよね。


●2013年ですか?2012年の12月にナオさん(Mr.ワリコメッツの初代ドラマー)が辞めているということなので、それだと辻褄が合わなくなりますね。


○そうですよね。

だから名古屋とかに初めて行った時は、まだ『バキューンとガム』しかなかったんじゃないかな。


●ということは、大阪、京都、名古屋、岐阜への初めてのツアーが『フロッグ』のレコ発だった、というのは記憶違いかもしれませんね。


○たぶん名古屋とか関西は2012年の2月頃だったという気がします。


●では、2012年9月開催のイベント、『ロックンロール世紀』についてお聞きします。まず、イベントの当日、強く印象に残っていることはありますか?


○イベントの当日?

うーん、なんでしょうねぇ。

いろいろありますけど。

「こんなにお客さん入るんだ!」っていうのは思いましたね。

100人くらいだったかな、確か。


●ライヴ内容自体は覚えてますか?演った曲とか。


○いやー、覚えてないなぁ。


●エイジさんも覚えてないって言ってました(笑)。


○いや、でもねぇ、結構酔っ払ってたと思いますよ(笑)。


●それで覚えてなかったりするんですかね?


○いや、死ぬほど飲んでたわけではないと思うんですけど。

「景気づけに」みたいな感じですかね。

結構「緊張しい」だったんで、そういうことはあったかもしんないですね。


●『ロックンロールロール世紀』には夜スト(=夜のストレンジャーズ)も出演してるんですよね?それが今ではキリさんも夜ストのメンバーになっていて、なんだか不思議な縁ですね。ちなみに、Mr.ワリコメッツの夜ストとの出会いはいつなんですか?


○2011年とかだったかなぁ。

『オン・ザ・ロード・アゲイン』(=『On The Road Again』)の頃ですかねぇ。

対バンしたんですよね。

深野さん(=Mr.ワリコメッツが当時お世話になっていた、浅草クラウッドのブッキング担当)から「夜のストレンジャーズを今度呼ぶから、ワリコメッツ出ない?」って言われて。

オレ、夜ストの名前自体は、地元の友達から聞いてたんですよ。

「カッコいいよ。絶対ハマると思う。」って言われていて。

で、実際初めて観たらすっごいかっこ良くて。


●やっぱり浅草クラウッドなんですね!


○クラウッドでしたね。

いろんな繋がり、騒音寺もそうですけど、いまだにライヴを一緒にやってくれる先輩達との繋がりは、結構クラウッドが作ってくれたものだったりするんですよね。


●それが今では無くなっちゃいましたもんね、浅草クラウッド。


○結構悲しいですね。


●『バキューンとガム』を録ったりもしているし、ワリコメッツの歴史の中でもかなり重要な場所だったと見受けられます。


○結構重要な、初期の礎を築いた場所ですね。


●では、1回目のインタビューの時に、活動初期の出来事で特に印象に残っていることとして、ナオさんの脱退のことを挙げていたので、そのことについて聞かせてください。まず、辞める話が出たのはいつですか?


○えーっとですねぇ、2012年の、たぶんロックンロール世紀が終わった後じゃないかなぁ。

で、「年内はライヴが決まっているから、そこまでは頑張ってくれないか」という話をして。


●辞める話を聞いた日のことは覚えてますか?


○あー、まぁ、覚えてますけど。

ナオさん自身がまずエイジさんに言って、それでエイジさんから電話がかかってきたんじゃないかな。

まぁ、予兆はあって、「時間の問題かな」という雰囲気はありました。


●辞めると聞いた時は、やっぱりショックでしたか?


○うーん、そうですね。

やっぱり俺たち、ナオさんで2枚アルバム録ってるし、その後の活動も残っているし。

周りにあまり知り合いもいなかったから、もし辞めるとなったら、バンドはそのまま進んでいかないといけないんで、ドラムを探さないといけないわけじゃないですか?

でも、知り合いも全然いないから、「どうしよう?」と。

「今ちょうど軌道に乗り始めたくらいの時にこんなことになって、誰に頼めばいいんだ?」って。


●前回話を聞いた時に、「解散の危機」という表現を使ってました。これは人によって、同じ状況でも感じ方も違うでしょうし、本当は解散の危機でもないのかもしれないということも踏まえてお聞きしますが、キリさんが「解散の危機」という言葉を使ったことには何か理由がありますか?


○ありますね。

「次のドラム、どうしよう?」っていう話になった時に、俺とか葛西さんが、結局、どうしようっていうのを決められなかったんですね。

で、エイジさんはもう、ワリコメッツにたぶん限界を感じていて。

『ロックンロール世紀』みたいなことやって、カンフル剤打って、盛り上げていこうってやってたと思うんですよね。

でも、俺たちがあまりにも何も考えてなさすぎて。

俺と葛西さんが。

葛西さんは分からないですけど、俺は少なくとも何も考えてなくて。

それに対して、たぶん嫌気が差しちゃって、「ドラム探しは、“わー”はもう手伝わないから。お前たち2人でなんとかしろ。」みたいに言われて。


●「もうワリコメッツは止めるか」みたいな話が出たわけではなく、、、


○でも、後々聞いたら、「あん時は、本当に、早く終わっちまえ、このバンド」みたいなことはちょっと思ってたって言ってました。

たぶんちょっと、捨て鉢みたいな気持ちになってたんだと思います。


●そういうこともありつつ、なんとか募集はしたわけですよね?


○そうですね。


●具体的にどんなことをしましたか?募集のチラシを貼ったりとか?


○いやー、そういうのはしなかったですね。

したかもしんないですけど、たぶん大々的にはやってないし、やってたとしても、たぶんあまり役には立ってないですかね。

それで、深野さんに相談したんですね。

ここでもやっぱり深野さんなんですけど。

「良いドラムの人いないですか?」って言ったら、何人かあげてくれたんですけど、その内の1人が当時ダンスグッズにいたヒロヤさんでした。

そういう風に人に相談したりとかが、当時の状況では一番有効な募集手段だったかもしんないです。


●なるほど。決まるまではなかなか大変だったでしょうね。


○でも、必ずバンドって、次に行く時にそういう障害みたいなのってあって。

一枚壁をぶち破んなきゃいけない瞬間って絶対あるんですよね。

今振り返ると、たぶんそれがきたんだな、と。

でも、当時は何もできなかった。

どうしたらいいか分からなかったですね。



インタビュー : 2019.9.5(木) 新高円寺にて
(記憶に基づいて喋ってもらっているので、記憶違いによる誤りやメンバー間で情報が食い違う場合がございますが、インタビューのライヴ感を残すため、それらの訂正は行なっておりません。ご了承ください。)

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