違和感を覚える言葉

そういう風に言うんだな・・・
と今まで大した疑問も抱かず使ってきた言葉がある。
いや、のどに小骨が引っかかるぐらいは違和感がずっと続いていたというほうが正しい。ただ、そんな小骨なんて気にしている余裕がなかったから、チクチクするなーと思いつつ、次々起こる大出血を止血する作業に明け暮れていた。

止血しまくった後のかさぶたは、時と共にきれいに剥がれ落ち、やれやれこれで一息だわ・・・となったら、急に小骨が気になりだした。一気に何が気になっているか書き出してみようと思う。

療育→なんで教育じゃないんだろう。教え育むではいけないのか。
就学→なんで入学準備ではいけないんだろう。特別支援学校だって、支援級だって、普通級だって 入学準備でいいじゃないか。
受検→なんで受験じゃないんだろう。高等特別支援学校を受けるときはこの検だった。それとも、受検と受験は違うんだろうか。確かに支援学校の試験内容は独特だ。ただ、範囲もなければ何を試されるのかもわからない。着替えの後のロッカーやお弁当を食べている時間もチェックされてたよ。息が抜けず、範囲がわからない分 それはそれで難しいのだ。
就労→就職じゃだめなの?最低賃金を払わなくていい環境を維持するために就労って使うのかなとネジくれた母は思ってもみたりする。

なんで、子どもに障害があると、ただ学校に行ったり働いたりすることに対する言葉が変わってしまうのだろう。
確かに、学校に行っても学ぶことも違うし、働く環境だって一人前に出来ることは少ないのもわかるから、その辺の区別をつけられるのは当然だと思う。
何でもかんでも弱者の立場で、差別だなんだと叫ぶのはある種暴力だとおもっているので、その辺にこだわりはないのだが・・・

この小骨はやっぱり今でもチクチクし続ける。


私の息子は、今働きたいと言っているが、なかなかこれが・・・
まぁいいのだ。あたしはすでに彼が障害者だとは思っていない。
出来ないことが出来るようになったわけでもなければ、同年齢の子たちと比べてしまえば幼いし劣ってることが多いのもわかっている。
だけど、善悪の分別が付く成人になった。
そこで、私の中ではもう彼はすでに障害者ではないのだ。目が見えない人が眼鏡を手に入れたら大丈夫なように
足が悪い人が杖を持てば歩けるのと同じように
声の出ない人が手話なら意思の疎通ができるのと同じぐらいの 完全ではないけれども、ちゃんと独自の知恵と工夫で日常生活を送れる力をつけられたから。

ま、次は経済力をどうするかなんだけれども。

それで思うのだ。

働きたいという。どんな仕事ができるかなという。
働きなさいという。就職活動してみなさいという。
面接いくら失敗したっていいぞーという。それも社会勉強だという。


就労しなさいとは家族は言わない。本人も就職したいという。家族も息子の就職先については話し合う。こんなのどうだろう。あんなのどうだろうと。

就労に向けてというのは、福祉だけだ。


社会に居場所を探すんじゃなくて、働きたいんだよ。居場所じゃないんだよ。居場所になるかもしれないけれど。
わかるかなー・・・この微妙で大きな違い。


なんだろう・・・
福祉にはたくさん助けてもらった。確かにそれは間違いないんだ。
だけど、なんでこんなに違和感がぬぐえないんだろう。



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