見出し画像

Last Note 星川堅信


こんにちは!
早稲田大学バスケットボール男子部です🧸❤️‍🔥


連載・Last Note📝
先日のインカレで引退した4年生による
部活生活を綴ったラストブログシリーズです!


今回は、早稲田の大黒柱、星川堅信🔥
このラストブログ、非常にハイカロリーです…!
形容し難い星川の世界観に浸れる
超大作ブログをお楽しみください!




以前までは、暇つぶし程度に書いたエッセイのようなものを自分のNoteのアカウントにて公開していましたが、最近では、エッセイは全く書かなくなってしまいました。その理由は、文章を書く楽しみを忘れたからではなく、語弊を恐れずに且つ感覚を誇張して言うならば、読者、つまりあなたのことを信用できなくなってしまったからです。この感覚は、明確に意識されないにしても、何かを書いてそれを世間に公表しようとする人の大半に感じられているのではないでしょうか。残念ながら、批判のされやすい世の中です。「炎上覚悟で書いています」「批判されるとは思いますが」「これは個人的な感想なので、異論もあると思いますが」このような文句から始まる記事(や動画)をよく見かけるようになったと思います。このような前置きは、読者(視聴者)に対して信頼を寄せられなくなった筆者(配信者)による怯えの表出として見ることができます。
今回、部活動の引退に際して、ブログ作成の依頼を受けました。文字数に制限はなく、指定されたトピック以外についても加筆可能であるそうなので、久しぶりにエッセイを書く良い機会としてこれを捉え、小さい文字を結合させることで大きな気持ちを描こうと試みてみます。先に述べておきますが、このブログを通して、ぼくは読者であるあなたのことを無条件に信頼することにしています。

ちなみに、指定されたトピックは、以下の7通りです。まずは、このトピックに倣って進めていこうと思います。

①      自己紹介
②      インカレの結果に対して
③      バスケ部に入部した経緯
④      入部当時の目標・それに対する現在
⑤      部活で一番印象に残っている思い出
⑥      後輩に伝えたいこと
⑦      応援していただいた皆様へ


自己紹介

星川堅信です。名前のみによってぼく自身に関係する範囲のどこまでをあなたに紹介・説明できるのか分かりませんが、もしあなたの目がぼくの名前の上に何らかのイメージを見てくれるのなら、そのイメージがぼくについて語ってくれることでしょうし、或いはあなたの目がぼくの名前の上に何のイメージも見出さず、つまりあなたが僕の名前をただの4つの漢字の集合として見るのなら、「これがぼくだ」とぼくが思っているぼくの人物像をあなたに伝える必要があるのかもしれません。けれども、1人の人に対する印象は、人の数だけあるようにも予測できますし、その予測内の人間という変数にぼくを当て嵌めてみても、その予測は形を変えないままであるように思えるので、ぼくが認識しているぼくをあえてここに表記することは、大勢存在するぼくのうちの1人のぼくを召喚する徒爾の行為でしょうから、割愛することにします(ただ自己紹介が苦手なだけです)。とはいったものの、このままでは、その人の色が最も濃く出るはずの自己紹介の欄に、名前+奇矯なことだけを書いて終わることになってしまうので、ありきたりではありますが、ここからはぼくの好きなこと等と書くことにします。
まず、ぼくは読書が大好きです。その行為の先にプロという域があるなら、そこを目指したいくらい大好きです。ひとたび小説を開けば、悩みや葛藤や欲望を抱えながら生活を送る人物(ぼくは彼らをイマジナリーフレンドと呼んでいます)にたくさん出会え、ぼくの語彙では決して到達し得ない解像度の小宇宙を無重力でどこまでも浮遊でき、形式が一人称なら主人公の視点で世界を見つめられ、三人称なら作家さんの世界に潜り込むことができます。ページを捲れば捲るほど、縦書きの黒い文字の上に漂う自己の影がありありと見えてきます。脳内で生成されるぼくたちの言葉には、生成後すぐさま口から吐き出される言葉と、生成後そのまま脳内で破壊と修正とを繰り返すことで徐々に発酵していく言葉との、2種類があるように思います。前者が好きならばお喋り好き、後者が好きならば読書好きと言えるかもしれません。ぼくは作家さんの脳内で数年間発酵されていたように思える言葉が大好きです。小説はそうした言葉ひとつひとつが蓄積することで語られます。言葉と同じように、小説の流れ(ストーリー)も作家さんの脳内で長い年月をかけて発酵されています。つまり発酵された言葉が発酵されたストーリーを構築するために使用されています。発酵食品は身体にいいと聞きますが、小説もそうなのでしょう。ぼくの身体と精神とを健康に保ってくれています。このように、小説を一種の発酵食品として定義すれば、ぼくが何らかの理由で1冊の小説に対して面白くないという感想を抱く際(あまりありませんがたまにあります)、本当に面白くないのは小説自体ではありません。それはきっとぼくの感性の方です。発酵食品になりきれない僕の感性が、ただただ腐敗しているだけのように感じられます。好きな作家さんを以下に列挙しました。なお、敬称は省略させていただき、五十音順に表記しました。

絲山秋子、上田岳弘、宇佐美りん、円城塔、遠藤周作、大江健三郎、小野正嗣、小山田浩子、金原ひとみ、川上未映子、川端康成、柴崎友香、諏訪哲史、高橋弘希、高山羽根子、滝口悠生、太宰治、田中慎弥、谷崎潤一郎、遠野遥、中上健次、長嶋有、中村文則、夏目漱石、西村賢太、羽田圭介、原田マハ、平野啓一郎、又吉直樹、町屋良平、三島由紀夫、宮本輝、村上春樹、村上龍、村田沙耶香、森見登美彦、山崎ナオコーラ、吉田修一、綿矢りさ

ぼくは図書館も大好きです。身体だけを持って入館しても、それを許容してくれるような寛大さが大好きです。大学の中央図書館に行くと、平日か休日かに関わらず、大勢の人が、勉強に勤しんだり、読書に興じたり、論文を漁ったり、机上に突っ伏せて仮眠を取ったり、様々なことをしています。全員が沈黙を保ちつつ孤独に作業をしています。そういう空間が好きです。中央図書館は基本的に、平日と土曜は9:00開館、22:00閉館、日曜日は10:00開館、17:00閉館です。4年間で何度も開館待ちをしたり、閉館まで残ったりしました。開館から閉館まで籠ったこともありました。素敵な場所でした。中央図書館には、いつも決まって同じ席に座りたがるおじさんがいます。教授か学生か分からないおじさんです。特定されてしまう恐れがあるので、何階のどこの席に座っているおじさんかは書きません。きっかけは忘れましたが、ぼくは今ではおじさんと会釈をし合うような間柄になりました。ただ、街中で対面すればきっと気まずいので、会うのは図書館内だけで大丈夫です。4年間ありがとう、おじさん。たまにお気に入りの席を取っちゃってごめんね。けど早い者勝ちだから。大学卒業後に中央図書館に入館できなくなるのは寂しいですが、これからは自分の部屋を図書館風にしたいと思います。BOOKOFFの110円コーナーで発掘し続けた文庫本も、今ではおそらく500冊ほどになりました。ちょっとした図書館風の部屋なら作れるかもしれません。まずは本棚を購入するところからです(多分買わない)。
ぼくは何かを書くことも大好きです。本ブログのように、予め書くべきトピックが定められている記事は、書いている話の内容がどうしても徐々に脱線していってしまうのであまり好みませんが(現にぼくは今、「自己紹介」のトピックの中にいます。迷子)、小説は全てが筆者に委ねられ、ぼく次第で自由に書けるので大好きです。いまも小説を書いている途中なのですが、書き始めた当初は、小説家になりたいという気持ちは全く持ち合わせておらず、ただ「書くのってどのくらい大変なのかな?」という疑問の答えを獲得すべく、書き始めただけでした。結果、何かの話を書けた上でその内容の稚拙さに難しさを感じ取るのではなく、何も書けなかった白紙の上に難しさを見ました。やはり素人はプロには敵いません。しかし読書をしているだけでは持ち得なかった種類の作家さんへの尊敬を、実際に書いてみることで獲得することができました。相手の立場に立つという意味が少しだけ分かりました。もともと何かを批判をするような性格ではないと自覚していますが、他人や他人の努力や他人の努力の結晶は簡単に批判できるものではないと改めて感じました。

大量の本

ぼくはお絵描きも大好きです。お絵描きをするのは電車での移動中や寝る前などの時間です。iPadに描き込んでいます。本当に小規模でいいので、或いは赤字でもいいので、いつか展示会みたいなものを開いてみたいと思っています(来てね)。また、これはぼくにとってあまり喜ばしくないことですが、昨今では、AIによって半端ない速度で絵や文字が生成されるようになってしまいました。AIの描く絵を見たことがありますか? ぼくは、お絵描きは好きですがアートには疎いので、AIの絵に対して凄いという単純な感想しか抱けませんが、しかしAIの絵を欲しくなったり買いたくなったりしたことは今までに一度もありません。これからもないと思います。これは、質の高い絵が必ずしも良いわけではないとぼくに認識されてきたからだと思います。ぼくにとってその絵を描いたのが誰であるかの方が重要視されてきたからだと思います。こういう意識を抱いているのは僕だけではないように予測されます。そうした意味で、本当に絵で収益を得るつもりなら、その絵を描いた人の人柄や立場などが、消費者から「あの人の絵なら買いたいかも」と思ってもらえるようなものである必要があるように思います。これからの時代、絵は、著名人にとっての貴重な収益源になるような気がしています(知らん)。

ぼくの絵
これもぼくの絵

ぼくは珈琲も好きです。以前、フレンチプレスをするための珈琲メーカーを購入しました。珈琲の味も好きですが、珈琲豆を挽いている時間も好きです。
ぼくは散歩も好きです。徒歩90分くらいの距離までなら歩いて向かうことができます。知らない土地を歩くのが特に好きです。日頃、成長している或いは前進していると実感できることは意外と少ないですから、実際に身体を前に進めてそれに似た感覚を抱こうとしているのかもしれません。
ぼくはラジオも好きです。特に、大学の同期の春日(通称きゃすが)から教えてもらった「ゆる言語学ラジオ」を聞いています。高校のバスケ部の先輩がやっているラジオも聞いています(思想強め。灰汁多め。) (SABRINA)
ぼくは映画も好きです。「ミッドサマー」「時計仕掛けのオレンジ」などは繰り返し観ました。ですが、やはり小説のほうが好きです。ぼくは意味が分からなければ分からないほど面白いと感じます。映画は小説に比べて分かりやすいようにできているように思います。YouTubeなどの動画もそうです。映画や動画では「ここで笑ってください」「ここで泣いてください」「ここで怯えてください」というようなタイミングが明示されています。その分かりやすさ・理解のしやすさが生み出す解釈の窮屈さがあまり好きではありません。YouTubeは全く見ないので、流行っているYouTuberなどの話に入って一緒に盛り上がれたことがありませんが、それはまあいいです。
ぼくが大学に入学した4年前、ちょうどコロナの感染が全国に拡大し始めました。それで部活動の練習は中止され、寮にいれずに実家に帰省することになり、パソコンの画面上で初対面の挨拶をし合ったり授業を受けたりしました。例えば、水泳の授業もオンラインで実施されたため、ぼくはZOOMを繋げたパソコンの前に口を開いた阿呆面で立ち呆け、上半身だけでクロールの動きをやってみせました。ぼくの腕は悲しく空を切りました。教授は泳ぐのは得意かとぼくに聞きました。ぼくは苦手だと答えました。さらに全く泳げないと答えました。教授は大丈夫だと言いました。何が大丈夫なのかは不明でしたが、結果的には合格をもらうことができました。エアークロールで失格をもらうほうが難しいでしょう。それで泳げる気になったかと問われれば全くならず、むしろ益々泳げなくなってしまったように感じました。ぼくにとって、コロナはその全てが悪というわけではありませんでした。例えばコロナは、行きたくない誘いを断るための優秀な万能薬でした。「最近コロナが流行っているからちょっと怖いな…」と僕に誘いを断られた記憶のあるみなさま、本当にすみませんでした。おかげでたくさん本を読めました。
先日、教授や院生やゼミ生の同期による多大なるご協力を得て、卒業論文を無事に提出できました(ありがとう正木研)。単位の取得も済んでいるので、あとは卒論の合否を待つのみです。ポンコツですが、何とか卒業できそうです。

卒論制作風景
実験協力のザカ


インカレの結果に対して

先日行われたインカレは、トーナメントの2回戦にて、東海大に81-46で完敗し、ベスト16で幕を閉じました。東海大戦では、大きなレベルの違いを体感しました。「インカレは4年間の集大成」と胸を張って言えないほど、チームとしても、個人としても、今年の秋、大きな傷を負いました。ぼくたちチームは、今年の秋のリーグ戦の結果を受けて、2部降格となってしまいました。これまで先輩方が繋いでくれていた1部の舞台でした。来年から後輩たちを2部の舞台でプレーさせなければならない事実に、情けなさと無力感とが募るばかりです。インカレの出場権は、ぼくたちが自力で勝ち取ったものではありませんでした。けれども、出場できるからには絶対に勝ち上がってやろうとチームで話し合いました。4年生としては、2部降格というあまりの不甲斐なさに、リーグ戦後、どのように皆と接していいか分かりませんでした。インカレに向けてどのようにバスケットに取り組んでいいか分かりませんでした。皆に合わせる顔がないとさえ感じていました。しかし、後輩たちが「インカレでは4年生のために頑張りたい」と口を揃えて言ってくれました。その優しさに本当に救われました(みんなありがとう)。インカレは、結果としてはベスト16でしたが、結果以上に大きなものを得ることができた大会でした。ぼく個人やぼくたちチームの頑張りが、応援してくださる方々の目に、ぼくやぼくたちの抱いている感謝の表象として映り、そうした方々の気持ちの起伏に少しでも繋がればと願って挑んだ大会でした。皆さま、本当にありがとうございました。


バスケ部に入部した経緯

進学校といわれるような高校を卒業して早稲田に入学したため、ぼくのことをあまり知らない方からは、たまに「頭いいんでしょ」と言われることがありますが、本当は本当にポンコツです。先日もあったのですが、夜中、疲弊して帰宅すれば、洗顔フォームを歯磨き粉と勘違いしたまま歯を磨きますし(本当に苦い)、朝方、寝ぼけていれば、髭を剃るために顎につけたクリームを、髭を剃る前に水で流したりします(虚無)。この前は、歯磨き粉で顔を洗いました。夏、アイスを袋から出して、片手にアイス、もう片方の手に袋を持ち、誤ってアイスの方をゴミ箱に捨てました。手許に残った袋を見つめて首を傾げました。
高校では、留学生のいるチーム(主に東山)を意識して練習していたように思います。同期とペアを組んで自主練をたくさん行った記憶があります。朝練では原田太一と一緒にベンチプレスに励みました(朝練ではウェイトをしてもシューティングをしても何をしても自由でした)。それが終わると、授業を受けて、夕方から練習を行い、学校から徒歩数分の距離にある睦寮(→今では使用されていないようです)に帰って、寮生と共に和気藹々と風呂に浸かり夕飯を食べました。素敵な思い出です。
大学でも寮に入りました(先日、退寮しました。現在、1人暮らしです。怯)。高校の寮と比較すると、大学の寮はもの凄く落ち着いていました。高校の寮は、ほとんど動物園でした。寮の各階にある寮生の部屋が、珍獣を閉じ込めた檻のように見えました。
たくさんの人の支えがあって、ポンコツは今も何とかやっていけています。いつもありがとうございます。
経緯を書くのはあまり好きではないので、この辺で。

高校の後輩ケニー


入部当初の目標、それに対する現在

部員の全てがプロ選手を目指しているわけではないと知りながら、大学の部活動に入部しました。ぼくは、入学当時、大学卒業後はプロ選手になりたいと思っていたので、今思えば、周囲からの刺激に頼らずに如何にして自分で自分を刺激するかが成長の鍵だったように思いますが、おそらく入学当時のぼくはそんなことは考えていなかったように思います。大学のレベルにいち早く到達することのほうを重要視していたように思います。当時のことは、正直に言えば、よく覚えていません。「今、ぼくが何を考えているのか」でさえ、不明ではないにせよ、明確に自覚できていないように思えるのに、「当時のぼくが何を考えていたか(=何を目標にしていたか)」をはっきりさせることは、今のぼくにとって意外と難しいです(屁理屈)。
大学3年生の秋、今年と同様になかなか勝てなかったリーグを終えて、ぼくは初めてバスケに対して精神的且つ身体的な疲弊を感じました。プレータイムが長く、どれだけ藻掻いても勝てなかったからかもしれません。それでもバスケをやめたいとは思いませんでしたが、少し休みたいと思いました。その冬は、それまでの大学1年時・大学2年時に行かせていただいていた特別指定のお誘いをお断りさせていただき、大学入学後、初めてとなるオフシーズンをのんびりと過ごしました。ほとんどの時間を、本を読んで過ごしました。極楽でした。そうした時期を過ごして、やはりぼくはプロ選手になりたいと思いました。何が理由かは不明ですが、性格的な問題なのか、ぼくは地味な作業を継続することが得意です。そう自覚しています。思い込みから始まったものなのかもしれません。これのおかげで、自分で自分を刺激するのに要する力が少量で済み、周囲の方の力をお借りしながら、少しずつ成長できたように思います。
現在、ぼくは越谷アルファーズに特別指定選手として加入しています。まだ合流から数日しか経過していませんが、試合にも出場することができました。ありがとうございました。けれども夢が叶ったかと自問すれば決してそうではなく、今からまた新たなチャレンジが始まったような心持ちです。これから毎日小さなものを積み上げていきます。よろしくお願いします。


部活で一番印象に残っている思い出

弟の開聖との対戦です。家族と同じコートに立って試合をするという思い出は、これからも色褪せずに鮮明なまま脳内に残り続けるように思います。思い出は、その頃が戻ってこないと知っているからこそ儚くて尊いのだと思います。そうした意味で、大学での4年間、そして誇張なしで今までの22年間全てがよい思い出です。文字数的に淡泊なトピックとなってしまいますが、ぼくの思い出はぼくだけのものですから、ここには書かず、心に大切にしまっておくことにします。

開聖デカい


後輩に伝えたいこと

何人かの作家さんの小説を読み比べればわかると思いますが、作家さんごとに独自の文体(=文章体系)を持っています。例えば、川上未映子さんはあまり句点を使わない場合があります。「、」で区切られ続ける長文が癖になります。村上春樹さんは比喩が特徴的です。三島由紀夫さんは一文を数階層から構成することがあります。そうした文を理解するには、ぼくの場合、数回読み返す必要があります。
これとほとんど同じことがコミュニティにも言えると思います。つまりコミュニティごとに特有の言語体系を持っているように思います。家族には家族の、会社には会社の、チームにはチームの言語体系があるように思います。要は、あるコミュニティにおいて、よく話される言葉があり、ある問題を解決するために頻繁に用いられる方法があり、流行っている語彙や仕草があると思います。そして、そうした固有の言語体系はコミュニティ間で異なっているように思います。今までに様々な団体に所属してきましたが、ぼくの経験則からもそうだと思われます。
ここからが要点ですが、作家さんからコミュニティに転用されたこの傾向のようなものは、個人にも反映できると思います。例えば、ぼくにはぼくだけの言語体系があります(そう信じています)。つまり、ぼくがよく話す言葉があり、ある問題を解決するためにぼくが頻繁に用いる方法があり、ぼくの中で流行っている語彙や仕草があります。これをぼくはぼくだけのもの、特有のものだとやはり信じています。このぼくの言語体系は、確かにぼくの武器になるのですが、一方で、ぼくが悩みを抱える原因にもなり得るように思います。
言葉を用いることによってのみ、思考がされます(知らん)。言葉をまだ何も習得していない自分を想像してみると、何も考えられないように思われます。つまり思考は、言葉がある一定の規則をもって配列されることで正常に機能するのでしょう。この「ある一定の規則」というのが、ぼくのいう「言語体系」です。言語体系は人によって異なりますから、言葉を並べるある一定の規則も人によって異なります。悩みも思考の一部だと思われますので、悩みを表す言葉を配列させるある一定の規則も人によって異なります。これが、同じ状況におかれているのに、一方では何かの悩みを抱える人がいて、もう一方では悩みを抱えない人がいる理由だと思います。
悩みを解決する策として、他人の持つ言語体系や、自分の属していないコミュニティの持つ言語体系を借用してみてください。そうすれば、悩みの形を示していた言葉がきっと配列を変えて、希望か夢か、そうした何かを表す姿に変身してくれるはずです。小説を読むとは、そういうことのように思います。可笑しな表現をすれば、自身の言語体系を破壊するために、言葉を配列させるプロである作家さんの持つ言語体系を吸収する作業が読書です。このように書くと、いかにも自身を向上させるストイックな営みかと思われて敬遠させるかもしれませんが、別段そんなことはありません。太宰治は「本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である」と言ったようですが、ぼくは、人はみな一様に孤独だと思っています。本を読まないことが悪いことだとは微塵も思いませんし、強要するつもりも全くありませんが、もしあなたが孤独を感じるようなことがあるのなら、小説はいつでもあなたを受け入れてくれる優しい媒体ですから、動画や映画が流行るこの時代に、あえて書店に足を運び、本を読んでみてください。経験は図らずとも自己破壊を齎してくれます。もしあなたがいまの自分に不満な点を見出すのなら(小説以外でも構いませんし、むしろその方がいいのかもしれませんが)、旅に出たり、身体を動かしたり、ライブに足を運んだりして、様々な経験を獲得し、それらに自己破壊を手伝わせてみてください。「タイパ」などの言葉が流行り、無駄に見える行為が周囲の目によって冷たく見下され、効率的な作業が正義とされる時代になりました。けれども、もし、一見すると無駄に見えるその行為があなたの大好きな行為なのであれば、是非とも継続してください。すぐに手に入れられるものに愛着が湧くことは絶対にありません。皆さんの今後の幸せを心から願っています。


応援していただいた皆様へ

これまでに本当に多くの方々がぼくのことを支えてくださったおかげで、今のぼくがあるように思います。最近、父親から繰り返し言われる言葉があります。
「これからは、今までに与えてもらった大きな御恩を少しずつ返していく時間」
ぼくがまだまだ未熟なのは自分でも重々承知していますが、それでもぼく以外の全ての人に対して何かを与えられる人になれるように、日頃から試行錯誤と自己破壊を繰り返し、成長していきたいと思います。これからもよろしくお願いします!




**********


ふう。ここからは指定されたトピック外の、いわばぼくのエッセイです。肩の力を抜いていきます。段落やトピックにも気を配らずにいきます。内容の順番なども適当です。最近、大抵のことは思い通りにならないと思っておけば、思い通りになることに気がつきました。こうした気づきの数々が、ぼくの精神安定剤です。偉人と呼ばれる人たちが様々な名言を残していて、現代人はそうした言葉を座右の銘などとして崇拝していたりしますが、ぼくにとっては、他人から生成された言葉を信仰の対象とするよりも、自分自身から生成された言葉を信仰の対象とするほうが、価値があります。自分の経験だけを基盤として、その上のみでこれだけは真実だと自分が思えることを表す言葉を、自分の語彙力だけで生み出すことは意外と難しいです。なので、それが出来たときには、その言葉はぼくにとってかなり価値のあるものになります。最近、周囲の人に優しいと言われることが増えました。ぼく自身でも人に優しくするのが得意なのかもしれないと感じてさえきています。それはぼくが優しい自分が好きだからだと思います。穏やかな心の自分が好きだからだと思います。余裕のない自分や、無礼な自分に嫌悪を抱くからだと思います。自分の理想像に対して圧倒的な忠誠心を持っていれば、例えばぼくの場合、どんなときも一定のレベルを保ちながら、優しくいることができるのだと思います。ぼくはコンビニでは現金で会計を行うことが多いです。一円玉と五円玉を募金したいからです。募金は大学に入ってから行うようになりました。募金はいいですよぉ(少額ですが)。なぜこのブログにぼくが募金していることをわざわざ書くかというと、自慢したいからではなく(多少はあります)、募金がぼくの精神的な健康をサポートしてくれるからです。ぼくが購入しようとしている商品をスキャンし終えると、コンビニ店員さんは合計金額を教えてくれます。ぼくは店員さんにトレーを介してお金を渡します。店員さんがお釣りをくれます。その内の一円玉と五円玉を抜き取って、募金箱に入れます。店員さんは「ありがとうございます」と言ってくれます。この1人分のお礼を、ぼくは世界中のお礼の代表として聞き、人知れず満足しています。そうして「店員さんにお礼を言われるために募金しているわけではないんだよなぁ」と思いながら、自己陶酔に沈んでいきます。この陶酔は、社会貢献の陶酔です。「募金をすれば社会がよくなる」などという教科書的な文句をここに書きたいのではありません。ぼくはそんなにできた人間ではありません。要は、募金をすれば、たった数円を支払った対価として、社会に貢献できているという感覚を得ることができます。この感覚は、社会的な生き物であるぼくたち人間にとって、重要な感覚だと思います。もしあなたが今、あまり社会に貢献できていないと感じているのなら、すぐさま上着を羽織ったのちに靴を履き、コンビニまで駆けていって数円分だけ募金してきてください(?)。数千円でも数万円でも構いません(?)。そうしてニヤニヤしてください(?)。そういえば、小銭がぎりぎり入るくらいの隙間が空いた募金箱の中に札が入っているのを稀に見かけることがあります。社会貢献の感覚の獲得を渇望した人による札募金なのでしょうか(失礼)。では、明日は本ブログの掲載日なので、ここら辺で。早稲田大バスケ部広報氏、本当にお待たせしました!






最後までお読みいただきありがとうございました!

星川の次のステージでの活躍と
早稲田大学の更なる飛躍の応援
よろしくお願いします!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?