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早稲田卒ニート35日目〜ハリウッドザコシショウとシュルレアリスム〜

「シュルレアリスム」(仏・surréalism)は、日本語で「超現実主義」と翻訳される。これは仏語の前置詞「sur」(英・over)と名詞のréalism(英・realism)それぞれの直接的な日本語訳に由来する。「シュールなコント」などと使われるあの「シュール」という言葉が身の回りにあるシュルレアリスムの用例である。

アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言』

しかし、「surréalism」は飽く迄「surréalism」であって、「sur-réalism」でもなければ、「sur・réalism」でもない。仮にsurが前置詞で後ろの名詞réalismと手を組み1つの文法的共同体を形成するならば、それは形容詞句または副詞句として働く。つまり、「現実を超越した」か「現実を超えて」などとなる。しかしここはsurréalismで1つの語、即ち1つの概念であるから、意味上は「超現実」の「超」という一文字が「現実」にかかって形容詞的に機能する。

ダリ「ナルシスの変貌」

20世紀のシュルレアリストたちが一貫して、「-」も「・」も用いてはいなかったということは、それはつまるところ、surとréalとは概念的に分裂されるべからざる関係にあるのであり、「現実」を「超える」のではなく、「超現実」という概念それ自体が客観的世界像として想定されているということであろう。

そして、ここでいう「超」という言葉づかいは、超やばーい、超キモチー、超ウメー、超メンドクセー、超ウゼー、なんて言うときの「超」と近いということになる。これらの「超」は副詞であるが、いずれにせよ、その様がより一層際立つという様な意味である。それゆえ「超現実」とは、現実を超越した主観的世界観ではなく、むしろ、現実の実相をひときわ克明に暴き出す客観的世界像のことを指す。

またそれゆえ、「超現実」は「現実」と地続きの関係性にあるということにもなる。起きている時と眠っている時の境界線は私たちにとって決して明瞭ではない。気付いたら眠りに落ちているし、次の瞬間への意志を持って目を開けるのでもない。ならば、睡眠時に見る曖昧なあの世界は、覚醒時に見ている目の前の世界から全く隔たった非現実とは言い切れまい。夢とは、現実から乖離した非現実ではなく、現実の奥に潜む超現実の世界である。

このように、現実との連続性において現実の深奥、即ち超現実へ迫りゆくという意味でシュルレアリスムを考える時、ハリウッドザコシショウという男が浮かび上がってくる。

ハリウッドザコシショウの「誇張しすぎたモノマネ」はまず、「普通の◯◯は」から始めて、その後に「誇張しすぎた◯◯は」と続く。誇張しすぎた方は、もはや何がなにやらわからないことさえある。が、その前に普通のバージョンをやっておくから、もはや原型を留めてすらいない誇張も理解できる。つまり、現実に根差し、そこから現実の強度を高めた超現実へ進むという連続的段階を踏むのである。

これの一体どこが福山雅治なのか。
状況に依存しなければ、もはや何者かわからない。
現実と超現実との融合。

とんねるずの番組で「細かすぎて伝わらないモノマネ」という企画がある。が、これは矛盾してはいないだろうか。本来、「細部まで完全再現」や「ディテールにこだわった」という方が、より現実を正確に伝えるはずである。しかし、細かすぎると、つまり現実に対して忠実でありすぎるとかえって現実が伝わらないというパラドクスを引き起こすのである。この時、シュルレアリスム、即ち「超現実主義」の概念が意味を持ってくる。一見、現実から背いたように見える「超現実」へと潜り込むことで、僕らを現実そのものへと引き戻す。

巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』

ハリウッドザコシショウの「誇張しすぎたモノマネ」に、シュルレアリスムの一端を見出す。ややこじつけがましさがあろうとも、ちょっと見方を変えてみることに面白みがあるということでお許しいただきたい。

ただ、YouTubeにあるハリウッドザコシショウの動画に、「寝ている時に夢で見る様な世界」とか「夢でも見ている様な感じ」などとコメントされていることもある。やはり、僕らがどこかでザコシに対するシュルレアリスムを認めている可能性を否定することは難しいかもしれない。

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