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早稲田卒ニート161日目〜勉強はリンクを貼ること〜

自転車も荷物も盗まれ、一向に返ってくる気配すらない。次の転職にも失敗した。そしてこの暑い中、毎日片道50分歩いて通勤するのも一苦労である。これからどうやって生きていけばよろしいのか、これっぽっちもわからない。富山時代、高校生が、「え〜、あの先生って名古屋大学出身なの〜!そんなところ入れたら人生安泰じゃ〜ん!」と言っていたのを思い出す。そういえば私も昔は、「早稲田に入ったら一体どれだけ順風満帆な人生がそこに待ち受けているのだろうか」とほくそ笑んでいたことがあったような気がする。

ところが今、こんな有様である。何もかも上手く行かずにもがいている。「進路」に悩むのは、何も学生だけとは限らない。

「こんな自分にでも居場所があるのではないか」と信じて目指した早稲田の様に、今は、自分の様な奴でも存在することが許される「場」と巡り会うことを願ってやまない。念のため付言しておきたいが、「ありのままの自分」を受け入れてくれという意味では決してない。そんなわがままを言うほど幼くはない。

大衆に馴染めない奴にとっての「居場所がある」というのは、誰からも干渉されず孤独でいても構わないという意味である。と、少なくとも浪人生までの自分はそう思っていた。が、恐らく違う。友人、知人、恋人や教師といった、目に見える他者との繋がりではなく、何か「超越的な他者」と関係づけられるところに、自らの存在の基盤を見出すのであると思う。早稲田とは、そのためのより包括的な存在としてあった。何でもオッケー、誰でもオッケーというところが、早稲田の素晴らしき寛容さを表している。たとえ身近な友がいなくとも、全てを迎え入れる早稲田という超越的な他者となら常に関係している。単数形としては生きられない人間は、そうでもして居場所を求めなくてはならない。人間は、「関係」という座標の中でこそ自らを定位するのである。

毎週金曜日は、中1・2の授業をしている。富山時代を振り返って、私もたくさんの反省をして悔い改め、授業を作り直している。とにかく本文を丹念によく読み、文の繋がりを辿り抜くことを肝心、要としている。また、設問に無くとも意味段落に分けることを要求したり、傍線が引かれていなくとも、恐らく理解が難しいだろう一文の説明を求めたりしている。

退屈の顔が見えたところで話を挟む。あるいは、接続詞を選ぶ空欄問題や、指示語の内容が直前で決まってしまう問題であっても、ただ正解を言うだけにならず、何とかして意味ある時間にしようと思って話をする。

今日は、接続詞空所補充の解説で上記の様な話をした。

「学習指導要領で、言葉の『関係』と『役割』が強調されているのはなぜか。俺たちが人間として生きるということは、関係の中で役割を持って生きるということだ。誰とも関係づかずに生きることはできない。社会に出る前の諸君も、家族の中で例えば親と子の様に関係づけられる。そして、学校という縮小された『社会』の中でもそれを学んでいる。例えば学級や部活や委員会という組織は、そのための工夫だ。その中で他者と関係し、役割を担って生きている。教師と生徒、先輩と後輩、委員長や副委員長など。同じ様に、言葉にも関係と役割がある。だからそれを学ぶことは、人間として生きることを学ぶ基盤としての意味がある。接続詞だから前後をサッと読んで何となくこれっぽいとか、指示語だから直前の内容だとかで答えは当たるかも知れないけれど、それで終わらせる質の低い勉強に甘んじては勿体無い。君らは、その1問から一体何を学ぶのか」。

勉強の成果をマルの数だけで判断するようにならぬためのせめてものお節介として話すわけだが、後ろの方で不機嫌そうにしている中学生も顔を上げて真っ直ぐこちらを見て聞いてくれる。有り難い。

つい調子に乗って、本文にある「科学」という話題について、僕らがやってきた、今やっている、そしてこれからもやっていく勉強が全て科学であるという話に転じた。街を歩けば目にする「眼科」や「皮膚科」、「内科」に「小児科」などという看板にある「科」という文字が一体何を意味するか。それが近代学校における「教科」や「科目」の「科」という文字とどう繋がっているか。そこから、バラバラの教科の横断可能性と、その「繋がりに気づく」ということの重要性を伝えた。勉強とは、「リンクを貼る」イメージである。知識を蓄積するだけではなく、繋がりに気づくということ。成績が伸びるかどうかはもとより、それができると、何より勉強が楽しくなるのである。勉強は量か質かという議論があるが、こういう観点で勉強をすれば、どうしたって質が伴うに決まっている。

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