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早稲田卒ニート118日目〜ホモ=シンボリクス〜

明日、急遽中学生の授業が入った。そのためにテキストを読んでいるが、なんとソシュールの名が出てきて、「シニフィアン」と「シニフィアエ」が簡単に説明されている。バラバラの人間が同じイメージを共有できるようになるところに言語の記号的意義があるという文章である。

Ferdinand de Saussure

外からきた「記号」=内にある「記憶」

この処理の途中で、脳内で「絵」を描き上げます。「絵」が鮮明に描けたときにはじめて「わかった!」と感じるのです。

(竹内薫『教養バカ』)

確かに「わかりやすい授業」を受けたとき、目の前に無い現実がイメージとして一気に開花した感動を覚えている。頭の中にある硬直した文字情報に突如生命が吹き込まれたような感じがした。

私に「わかりやすさとは、脳内に絵を描かせることだ」と気づかせてくれた人がいます。フェルディナン・ド・ソシュールというスイスの言語学者です。

(同上)

筆者はこの、「わかった!」に行き着く一連の過程を、ソシュールが気づかせてくれたと言っている。「知った」でも「教わった」でもない。あくまで、「気づかせてくれた」なのである。この言葉使いには「発見」の喜びと、ソシュールへの「感謝」とが込められていることと思う。

人間は記号を扱う生き物です。記号には、ひらがなや漢字、アルファベットなどの文字はもちろん、数字や音符も含まれます。地球上の生き物の中で、記号を駆使してコミュニケーションできるのは人間だけ。記号は、長い年月をかけて改良してきた便利な道具なのです。

(同上)

人間が人間として、即ち共同体として生きるために、バラバラに解体されてしまいかねぬ「個」を繋いでおく手段が求められる。言語で結びつけられるならば言語共同体を作り、貨幣であれば貨幣共同体となり、または宗教であっても文化であっても、他の動物には共有され得ぬ何かを共有することで人間は人間として生きる。カッシーラーが言ったように、記号を意味として理解し共同体を作る人間は、「ホモ=シンボリクス」である。

Ernst Cassirer

我々が言語を共有することの計り知れない恩恵に与っていることは確かである。しかし、言語という象徴の共有を人間の本質とするならば、言語を共有できぬ者はもはや人間の本質を失っていることになってしまう。例えば障害者施設で職員が入居者に暴力を振るったという事件のニュースが流れるが、あれは施設の職員と言葉の不自由な障害者との間で言語の共有が不可能になることから生まれる、「ホモ=シンボリクス」の宿命的な不幸が噴き出しているのではないか。

「何回言ったらわかるの!」と子供に説教する母親の苦悩も、事情は似ているのかも知れない。

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