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早稲田卒ニート163日目〜コスパへの舌打ち〜

この動画内での話には、否定するところは1つも無い。教育を変えるとか言っておきながら効率の良い学習方法を広めるだけだったり、コスパの良い勉強方法や有利な入試制度を喧伝したりするだけ様な欺瞞とは違って、彼らは本当に「教育」の話をしてくれている。こういう哲学を持った教師が今いて、しかもそれをこれから受け継いでいける若い教師がどこかにいるならば、教育はまだまだ捨て難く、そして青年らの人生を意味あるものとして面白くするだろう。ただ、そういう教師が恐らく希少価値であるところに、豊かな教育が多数派によって押し潰されてしまいかねない危うさがある。

「コスパ」という言葉を、飲食店を紹介するYouTube動画で頻繁に目にする。たとえば「コスパ最高」や「コスパめっちゃいい」など。そのたびに眉間に皺が寄る。逆に、極めて美味いが一食の値段が高い食事を紹介した動画のコメントには、「コスパが悪い」などと書かれてある。そのたびに頭に血が昇る。勉強でさえ、「この参考書はコスパがいい」だの何だのと、くだらない発言が溢れている。いい加減もううんざりだ。

私は「コスパ」という言葉を会話において1度たりとも使ったことがないし、断じて使わぬという強い決意を持って忌避してきた。それは、金銭だろうが時間だろうが、その経済合理性によって価値を判定してしまう様な「貧しい」人間ではありたくないという意地からである。

能率化され抽象化された時間が、私たちの人間の生活の多様性を脅かす。時間の能率化、つまり経済的な画一化は、私たちの生活にも一義的な価値を押しつけるようになった。人間生活の極端な計画化、計数化であり、ディジタル化である。時間の能率化、節約は経済的な価値を生むので、そこから逆に時間が金銭によって計られ、贖われる。

(中村雄二郎「考える愉しみ」)

常に何かしらの状況に依存して在り、その中で内面という媒介によって自らの身体を晒している私ども人間が生きるこの世界の意味は、いつだって多義的である。意味とは、決して所与のものではなく、各人によって個別的具体的に見出されるべき秩序である。そして、その各人が拠って立つ背景が異なる以上、そこから立ち上げられ得る世界の意味もまた、一義的な規定に回収されなどするまい。

例えば時間は多義的である。授業をしている60分と肉体労働をする1時間は、それを過ごすときの意味が違ってくるし、授業の60分も、私にとってのそれと生徒にとってのそれは意味が異なるだろう。それに、生徒一人一人それぞれによっても、過ごす時間の意味が異なってくるだろう。

金もまた多義的である。給料日当日の1万円と給料日前日の1万円は、その額こそ同じであれ、身に染みる価値の感覚がまるで異なる。競馬で当てた1万と汗水垂らして稼いだ1万、またはおじいちゃんからの小遣い1万は、それらに対するこちらの内面が複雑に違ってくる。

人間が人間として生きることの豊かさが、仮にこの多義性によって基礎付けられるとするならば、その多義的な価値の世界を「コスパ」という経済合理性によって一元化してしまうことは、私ども人生から豊穣な意味を奪い、能率化を推し進め、そこでの時間とは、何かの目的に従属した手段としてのみあるだろう。その時間のエネルギーが、目的という一点に向かってその濃度を高めながら凝縮され収斂していくことそれ自体は、確かに充実を伴った過程となる。が、その過程の充実ぶりを計る基準が時間の経済、即ち「コスパの良さ」になっているとするならば、そこでの時間は、目的に従属した手段として無駄なく消化されるしかなくなるだろう。つまり、時間の意味が一元化されるのである。

私たち人間の生活は、そして存在は、多義的なものである。一つの価値の基準によってはかることはできない。

(同上)

私の前を走り去っていった、猫という言語を持たぬ動物に見えている世界もまた、言語を通してしか現実を理解できぬ人間が生きる意味の世界とは別の意味を持つだろう。言語は世界を分節化し秩序立った輪郭を描き上げるが、その世界像もまた所詮は言語による規定でしかない。言語を持たぬがゆえの世界像というものが彼らには見えていて、それはきっと、僕らとは全く異なった意味の世界だろう。尤も、言語なき世界に如何なる意味が見えるのか、そもそも意味が生じ得るのか、それは猫のみぞ知るのであって、彼らと共有できる言語を持ち得ぬ以上、その真偽を科学的に証明することは不可能である。よって、相互理解は断絶されているが、かえってそれゆえ究極的には言語に回収できぬ意味の可能性が、いつまでも残されている。

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