見出し画像

早稲田卒ニート169日目〜幸福の輪郭〜

昨日「親ガチャ」の話を書いたが、親がゴミだと子供が苦労する。親ガチャでいえば、私は大失敗である。親など早く死ねばよろしいし、私が殺したいとさえ思う。その親を作るのもまた親の親であるから、ゴミ人間を作った祖父母のこともまた恨むことになる。祖父はよく、「どうしておらいの◯◯はああなんだべなあ」と自分の娘に愚痴を言ったが、そんな娘にしたのはお前自身なのであって、そのろくでなしな教育によって作られたゴミのせいで、今私が大変な迷惑を被っているのであるということを、少しも考えられない無頓着である。理性もなく努力もなく、成長への意志もなく「ただ生きる」だけの人間を親に持つくらいなら、そんなゴミはいない方がマシである。

折り合いをつけるということが、生きる以上はどこかで必要である。何ら一切の不満もない環境は、家庭だろうと学校だろうと会社だろうとあるまい。現実にあって、理想はその姿を完全な状態で現すことはできない。だからといって人間である以上は理想を放棄するわけにはいかないから、そのとき折り合いをつけるということが求められるのである。

折り合いとは恐らく、何を選び何を捨てることで人生を作るかということなのだろうと思う。今までは、選ぶ方に力点がかかっていた。それが捨てる方に傾いてきたのは、ほんの最近のことである。今は、早稲田の街で暮らすことができるならそれ以外のことは何を捨てたって構わないくらいに思う。すると、自分に見える「幸せ」というものの輪郭が少しずつ明瞭になってくる気がする。まるで、個を抑制することでかえって自己の輪郭が鮮明になる人格形成のようである。小さな幸せとかいう価値観は、謙虚に生きるための人生訓たり得るだろうが、そこには、幸せの小ささが見えるために何かを捨てなければならなかったという切ない背景を感じずにいられない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?