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早稲田卒ニート134日目〜人生における「会」〜

 血を吸う側は必ず相手より小さい。長い距離、相手を追っかけていくわけにはいかない。どうしてもある場所にじっとひそんでいて、相手がそこにやってくる機会を待つほかはない。
 だからヒルにしても、ノミにしても、ダニにしても、吸血性の動物はじつに長い期間、飢えに耐える。彼らはほとんど休眠した状態で、じっと相手の出現を待っている。相手の存在をキャッチする嗅覚器官だけは眠らずにいて、千載一遇の好機の到来を今か今かと探っている。

(日高敏隆「動物の言い分 人間の言い分」)

矢を番え、弓を打起こし、体を開きながら弓矢を引き分ける。やがてその矢は頬に触れ、この時初めて弓矢と身体とが一体化する。それから直ちに矢を放ってはいけない。矢が放たれるのに充分な時が満ちるまで、じっと待つのである。この状態を「会」と言う。「持って満する」若しくは「持って時する」という意味で、これを「持満」または「時満」と言う。「満を持す」という言葉はこれに由来する。じっと待ち、自身の身体の中心から上下左右に延々と気合いが流れ続け、その気合いがやがて充足し発動するまさにその瞬間、身体が胸の中筋に従い左右均等に割られ矢は放たれる。これが「離れ」である。

弓道家を最も悩ますのは「会」である。本来持ってはならなぬ、的に中てたいという的中欲。数秒先の自分の未来が気になって仕様が無い。弓道家は皆共通してこの欲に苛まれる。まだ時が満ちていないのについ矢を離してしまう。的を前にすると、なかなか待てるものではないのだ。しかし、待てぬ弓道家は精神が欲望に屈しているという点で、弓道家として二流以下と見なされる。


待てと言われて待てないなど調教前の犬も同然だ、と思われるかも知れないがそれは少し事情が異なる。犬は、「よし」と言われれば待望の食事とありつくわけだが、弓道は、時が満ちるまでひたすらに待ち続け、愈々その時が来たらば一度出会ったはずの矢と必ず離れなければならない。これが「会者定離」の精神である。我慢した上で出会うのと、我慢したのちに離れるのとでは訳が違う。


極めて重要なのは、時が満ちるその時が、一体いつやって来るのか分からないということである。また、本当にその時がやって来るのかすら保証がないということである。各関節の働き、精神の充実、呼吸と身体との協働関係など数えきれないほどの条件が達成されなければ、その時はやって来ない。だからこそ、その時が来るのを信じて「待つ」ほかは無いのである。いつまでもその時がやって来なければ、もう諦めて時が満ちていなくても矢を放たなければならない。


せっかく出会ったはずのものと離れなければならない定めに置かれる自分の身を引き受ける覚悟を持てぬならば、弓道の道に通ずることはできない。かといって、離れたその矢が的に中ったか外れたかを気にしていては、それは不動心に反するからいけないことだ。離れて行った存在に未練があってはならない。「待つ」というのはこういうことである。

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