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早稲田卒ニート225日目〜都の西北わせだのとなり〜

ブックオフの100円コーナーを眺める。本の価値などろくにわからぬ連中の値付けだ。何かあるに違いない。そこで、赤塚不二夫『バカ田大学なのだ⁉︎』を、ちくま文庫で買って読んだ。とにかく面白い。漫画家というのは知性だなと、つくづく思わされずにはいられない。

そもそも「バカ田大学」の存在知ったのは大学生の頃だった。銀座のお客様が、私が早稲田であることを知ると途端にこの校歌を歌って、ちょうど「となり」のところでガクッと来た。本来は、「杜(もり)に」という歌詞である。すると実はバカボンのことであると教えていただき、

当時の私は、早大生のくせしてこれを全く知らなかった不届者であることを深く恥入った。

天下の早稲田が「バカ田」であるのに対して、かの慶應義塾は、「テイノウ義塾」である。全く納得と言ってよい。「テイノウ未熟」ではないところが、せめてもの配慮である。

バカ田大学の教師は、授業において問う。「海の水はなぜしょっぱいか?」。1人がマヌケな顔で答える。「イカのシオカラがいるからでしょう」。「まじめにやれっ」と教師は厳しめに叱る。続いてもう1人が、今度は知的な佇まいで、「塩化ナトリウムに塩化カリウムそれに塩化マグネシウム……」と答えると教師は、それを直ちに遮る様にして「ちがう!」と血相を変えて否定する。もう仕方がない。教師は彼らに教えてやる。海の水がしょっぱいのはなぜか。それは、「なめてみたからさ」。「なめてみなけりゃあじはわからないのである」。

哲学である。これは軽んずるわけにいかない。「分析」ではなく「知覚」、或いは「合理主義」ではなく「経験主義」。近代西洋思想史における長い相剋の過程にあった対立構造がここには認められる。さすが早稲田。いやいや、もとい、バカ田。自らを自らによって「バカ」と呼称しようとも尚決して揺らぐことなど無い謙虚な知性というものが、そこには潜んでいる。では私も、高らかに謳おう。私はバカだ!

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