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明日スーパーで働けるか

新型コロナウィルスの影響で連日のように仕事が消えていく。取材に行ける予定だったものが行けなくなり、下調べに割いた時間が水の泡になる。

スポーツ記者はスポーツ関連の取材をしなければいけないのだけど、そもそもスポーツ業界全体で試合やイベントが延期・中止となり停滞しているので、記者が足を運べる場所も記事にできることも限られてくる(もちろん私が新人というのも大きいのだろうけど)。仙台にきて、記者になって、まさか2ヶ月目でこんなことになるなんて、微塵も思ってなかった。

具体的なことは書けないけど、私は会社との契約上、出勤扱いになる日数で給料が左右される。こうやって取材の予定が消えていくことは、私のお財布事情に直接的なダメージを与えるのだ。いやほんと、このままずーっと自粛が続けば生活がもたない。

東京の繁華街は一昨日、華の金曜日にも関わらずどこも人の姿がまばらで、飲食店からは「このままじゃ店が潰れる」と悲鳴があがっているとニュースで知った。飲食店で働く人だけじゃない。パートの主婦や、企業の非正規雇用社員、フリーランス、ネグレクトの親を持つ貧困学生なども経済的不安に直面している。

まさか自分がおなじように危機に晒されるとは。まさか来月、再来月の生活を不安に思わなければいけなくなるとは。「まさか、まさか」が続いて、ようやく私は最悪のシナリオを想像した。こんな感じに。

『仕事が消え続ける→職を失う→貯金を切り崩す生活になる→貯金が尽きる→仙台の家を解約する→ここまでくると東京の家を借りれないので、実家の秋田に戻る』

親と不仲でないどころかむしろ関係良好なので、文無しでも路頭に迷うことはなさそうだ。けれど、仕事もお金も家も失うまで想像できてしまい、またそれが無くもない未来だとわかって、正直クラッときた。

昨夜、家の近くのスーパーで「アルバイト募集」の張り紙を見つけ、ふと足を止めた。「へぇ、こんな中でもちゃんと人手が足りないところはあって、人手が必要とされているのか」。

買い物カゴを持って店内に入り、目についたものをほぼ何も考えずカゴに入れる。「今日の晩ご飯の献立」とは全然違う方向に頭が回転し始めていた。

「そりゃそうだ。たしかに今、世の中は出口の見えない迷路の中にいるけれど、生きている人たちが生きるための何かしらの行動を常にしている。こういう社会状況の中でも変わらず人手な必要なところがあるし、こんな状況だからこそさらに人手が必要なところがあるんだ」。そういえば、イタリアの医療機関は究極的な人手不足で、スタッフが医療ゴーグルを長時間使用し続けているせいで目が可哀想なくらい腫れていると、朝日新聞の記事で読んだ。

「医療従事は資格がないからできないけど、学生の頃にコンビニでバイトしたことがあるし、スーパーのバイトは頑張ればできるかもしれない」。買い物カゴに食材を入れながら、ちょっとずつ自分の中の最悪のシナリオが書き換えられていく。

『仕事が消え続ける→休職願いを出す→スーパーでバイトする→節約して暮らす→出歩けないこの機会に勉強する→コロナウィルスが落ち着く→職場に復帰する→レベルアップして仕事を再スタートする!』

……これなら仕事もお金も家も失わずに済むのでは!?

いや、こんなふうに上手くいく保証はどこにもないし、あくまで私の希望でしかないのだけど。でもこの希望ひとつを持ったことで、スーパーを後にする頃には、入ってきたときとは見違えるくらい、自分の表情や雰囲気に生気が宿ったのを感じた。

本当の絶望とは新型コロナウィルスそのものではなく、コロナウィルスによって理想を見失って生きていくことかもしれない。私も危うくそうなるところだった。そっちに思考が走りかけてた。せっかく始まったばかりの新しい生活、新しい仕事を簡単に手放してたまるか。

「明日スーパーで働けるか」。もしこのまま仕事が減り続け、生活が立ち行かなくなったとき、そう聞かれたら「YES」と答えたい。それが本当にありたい生き方を実現するための希望なら、どんなことでも積極的に首を縦にふって、飛び込もう。

この日、逆境における私のセーフティネットは、理想を見失わないことと、そのための選択肢を広く持つことだと、再確認できた。どこの誰が貼ったかもわからない、スーパーの貼り紙に感謝した。

さて、家に帰って台所で買い物袋をあけると、驚いた。アボカドが3つも入っている。アボカドなんて全然買うつもりじゃなかったのに……と食材を出していくと、またも予想外の食材、タケノコが出てきた。

それでちょっと肩の力が抜けた。ひとりで声を出して笑った。

仕方ないのでその日の夜はアボカドタケノコサラダにした。久しぶりにご飯が美味しいと思えた。

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