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ホンモノはどこにある? #君は心ふるえているか

新生もとくらのコンセプトは「君は心ふるえているか」なのですが、「ふるえる」という言葉を提案したのは、武者震いや奮い立つ気持ち、鳥肌が立つような震えが止まらない感覚をこめたからでした。

「とにかく本当のことを知りたい」。

そんな気持ちだったから。

見てくれだけ整ったものは、自分で掴みにいかずともやすやすと手に入る。

「本当か嘘かわからない、テイのいい作り物を摂取しすぎて鈍ってしまった五感を取り戻さないと」。

そんな気持ちもあったから。

「じゃあそのホンモノって、なによ?」

という話だが、ホンモノは、人によって違う。

ホンモノかどうかはその人の“ふるえ”が決めるから。

例えば、わたしが心ふるえたものの一つは、祖母がぼけてしまったことだった。

祖父の、つまり祖母の夫のお葬式で、涙にくれるわたしの母や親戚を見ながら「なに泣いとんしゃあ」と恥ずかしがるような笑いを浮かべていた祖母の、顔。

嗚咽をもらして祖父の耳元でお別れを言う母の背中を、「みんな見とんしゃあよ」と言いながら決まりが悪そうにはにかみながら引き離そうと背中に手を置く祖母の顔が、忘れられないのだ。

そのとき確か、わたしは大学生だったと思う。

人が人を忘れるって、こんな簡単なんだっけ、と呆然とした。

同時に「人が本当に死ぬのは忘れられたときだ」という誰かの台詞に対して、それは半分本当で、半分違うなと思った。

ぼけてしまうと、時が止まるのだ。

生かしも殺しもしないし、写真みたいにその一瞬だけの記憶でのみ息をしている、だけ。

ボケてしまった祖母にとっての祖父は、若いままだった。若い祖父なら、覚えているのだ。

目の前に横たわる亡骸が誰なのか分からない。母たちがなぜ泣いているのかも分からない。

だって祖母にとって、目の前の祖父は、はじめからいないことになっているのだから。

……こんな、切ないことがあるだろうか。

わたしは祖父が亡くなった悲しみよりも、その老いも死にもしない、祖母の記憶にピン留された祖父の存在をわたしたちの誰も知らないということと、分かち合えるはずの今ここの祖父の死を一番長く人生を共にした祖母には届かない、記憶の隔たりを思って泣いた。

果たしてこれが「ホンモノ」なのかと聞かれたら、ある人にとってはただの悲しい思い出だろう。

けれどわたしにとって「忘れる」ということを突きつけられた出来事だった。

「忘れる」ということが、意図せず起きる行動だとして、それが時に自己防衛にもなるならば、祖母は何から身を守ろうとしていたのだろうか。

若い祖父の姿だけを記憶に留めたまま、祖母は亡くなってしまった。

あのお葬式での情景は、わたしがふたりのことを忘れないように、起きたのかとも、ふと思う。

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