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古賀史健さん著『20歳の自分に受けさせたい文章講義』を読んで実践していること

お疲れ様です、立花です。

先日、オトバンクさんに古賀史健さんの著作『20歳の自分に受けさせたい文章講義』(星海社新書)の音源をいただきました。ありがとうございます!

実は半年以上前に、すでに『20歳の自分に受けさせたい文章講義』は読んでいて、数え切れない学びがありました。言葉を扱って生きていく上で参考になりすぎて、全ページにドックイヤーを施したい気持ちに駆られたことを覚えています。

今回、音源を聞き返しながら、読み終えてから時間が経ち忘れてしまっていたことを再度思い出すことができました。その中でも特に印象に残った部分と、それにまつわる個人的な学びと反省、そして実際に著書から学んでわたし自身が文章や記事を書くときに気をつけていることを、書きたいと思います。

頭の中でグルグルしている言葉にならない“感じ”を文章としてアウトプットすることの難しさ

著書を読んでいて、一つ思い出したことがあります。

それは、書くことが億劫になり、筆不精になった時期の出来事。高校3年間の時のことです。

わたしは自分で日記をつけたりウェブサイトを開設したりして、日常的にものを書くということを続けてきていました。けれど、高校進学とともに毎日課題やらテストやらに追われ、さらには部活に没頭していたせいか学校から帰ってきたら即就寝という生活スタイルに変わり、書く体力も時間も少しずつ削られていきました。

ようやく大学受験を終え、高校生活に一区切りついた頃、改めて放置気味だったブログを「さて更新するぞ」と立ち上げた時、その筆の進まなさに愕然とした記憶があるのです。

あれ、書くのって、こんなに難しかったっけ……?」と、一人パソコンの前で書いては消し、書いては消しを繰り返し、自分の文章力の衰えにものすごく焦った記憶があります。

否、文章力の衰えというか、古賀さんが著書の中で書かれていた「頭の中でグルグルしている言葉にならない“感じ”を文章としてアウトプットする」能力の衰えと言ったほうが正しいかもしれません。

著書の中では、古賀さんは「自分の気持ちを翻訳してみよう」という話をされていますが、古賀さんの言葉を借りれば、書くことを怠っていたせいで今までは無意識にできていた“翻訳”のやり方がわからなくなってしまっていたのです。

この経験で学んだのは、何事も続けていないと忘れてしまう、ということ。

書いていないと、どうやって“翻訳”をしていたのか、その思考回路や方法を忘れてしまうのです。

なんというかジブリの「魔女の宅急便」で、キキが突然飛べなくなるシーンがありますが、あれに似ています。今までは何も考えなくても書けたのに、突然書けなくなってしまう。その理由が、自分では分からない。キキの場合は飛べなくなる理由がちょっと違いますが「今まで普通にできていたのに、突然勘を失くしてできなくなる」ことのもどかしさは、すごく似ている気がします。

センスや勘だけでは超えられない壁がある

「書けない」ことのフラストレーションから脱するには、とにかく数をこなすしか解決法はないと思います。

ただし、がむしゃらに書くだけではすぐに行き詰まるとも思います。

がむしゃらに書くことで、自分の気持ちや考えを“翻訳”する勘を取り戻すことはできても、その結果書かれた文章が、果たして読みやすいかというと、それはまた別問題だと思うからです。翻訳しながら、一旦思うがままにつらつらと書かれた文章は、ある種、ハートで書いた文章と言えるかもしれません。そしてもし、これらに多少誤字脱字があっても想いがこもっていれば言いたいことは読者に伝わる、かもしれません。

でも、誤植がない文章を書くことは、読者への誠意を示す大事なポイントでもあるよなと著書を読んでいて感じました。というのも、わたし自身、主に自分のブログの中の話ですが「とりあえず書き殴りたい。読まれるかどうかは関係ない」という意識が優勢で書き続けていたからです。読者を置き去りにしがちで、とても反省しました。

さらに、この周囲を置いてけぼりにしてしまう前のめりな姿勢は、文章を書くことだけでなく、ライターさんや他の媒体の編集者さんと仕事をするときにも現れていた、ということにも気づきました。これはおまけ的な発見でしたが、意識を変えるだけでかなり相手への向き合い方が変わります。今は以前よりも、置いてけぼりにしないよう、よく周りを見るように気をつけています。まだまだですが……。

また、「がむしゃらに書きたい」「とにかく完成させたい」と力技に訴えかけそうになるときにブレーキになるのが「型があるから型破りなことができる。型ができない奴はただの形無しだ」という言葉です。

これは歌舞伎俳優の故・中村勘三郎氏の言葉だとラジオで聞いたことがあるのですが、文章を書く世界でも、やはりある程度の型はあるのではないか、と思います。その文章を書く型について、古賀さんは著書の中でとても詳しく言及しています。

型を習得するために実践している方法

型を自分なりに咀嚼して、スキルに活かすために実践していることがあります。

先にも述べた通り、わたしは没入型なので、文章を書いていると想いが憑依&先行してしまい、どうしても客観性を失いがちです。書いた文章にどんなに想いがこもっていても、支離滅裂だったら誰も読んでくれません。

そこで、少しでもメタ的に自分の文章を捉えられるように、去年から行っているのが縦書き戦法です。

ウェブの文章は、ほぼ全て横書きです。もとくらの原稿もWordpressというシステムを使って編集・公開していますが、タグやHTMLなど文章以外のノイズが多く、目が慣れてくると、構成があべこべになっていたり誤植があったりしても見過ごしがちになってしまうのです。

これはあかん! ということで始めたのが縦書き戦法です。

どういうものかというと、文字起こしを全て縦書きにし、一画面に2ページ表示させます。そして取材音源を2倍速で聞き返しながら肝となる部分にハイライトを入れていきます。そして、キーワードを抽出し、仮の見出しを4つほど立て、その見出しの後ろに段落の要約文をざっくり書いていくのです。

これは実は古賀さんの、メモにキーワードを書き出して組み合わせ、構成を練るという執筆方法にヒントを得て始めました。

縦書き戦法を実践して感じたメリットとしては、書く時に原稿全体の展開を俯瞰できるということと、書くスピードが早くなるということです。

気持ちがはやると、主語がねじれてしまったり接続詞がおかしなことになってしまいがちだったのですが、それらも縦書きという別の視線を取り入れることで、以前よりだいぶ減った気がします。

ちなみにMacをお使いの方で縦書き戦法を実践したいけれどWordが入っていないという方は、デフォルトで搭載されているテキストエディットというアプリを使ってみてください。縦書き表示にでき、とても便利です。

***

20歳と言わず、何歳になっても読み返したい一冊でした。正直、ライターや編集者でなくても、言葉を使う生き物である以上、日常生活レベルで参考になりまくりだと思います。

……ここまで書いておいて、誤植があったら恥ずかしいな!と思いながら、今日は締めたいと思います。さらさらと読めるので、ぜひ一家に一冊揃えてみてください。(アイキャッチは古賀さんの愛犬・ぺだるに対抗して我が家の愛犬・カーロにしました。)

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