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「尾道市営地下鉄」

丁度西暦2000年から私は漫画などの絵を本格的に描き始めた訳ですが、この年、何かのキッカケで、E社の芸術作品のコンテストがある事を知りました。何のキッカケだったか全く覚えてないので、今歯ぎしりをして悔やんでいます。ともかく、そのコンテストの募集要項の冊子を手に取って「コリャア、アレしかない」と、薄気味悪くほくそ笑んでいました。

当方、関東圏に親族がいるので、何かと上京した際にはお世話になっていました。高校1年生の時に、中学2年の弟と、初めて子供だけで、夜間高速バスにて上京し、興奮して渋谷の南に行きすぎて、桜台?とかいう辺りの古い商店街のおばちゃんに助けてもらいました。東京の人が冷たいと言うてるのは誰きゃ?

その頃から、上京志向が強くなって、結果的には、大学の進学は、通り越して茨城県まで行ってしまったのですが、それは置いといて、上京の度に、東京は電車がいっぱいあって、ええなあ、実にええなあ、と、そこの所を最も羨ましいと思っていました。

電車の数が多いという事は、路線図が、必然的に複雑になり、かつ、多くの人に見やすくないといけないので、まあそれはカラフルなデザインになって、一種の芸術作品に見えなくもないように思っていました。高校生の上京から帰宅した後、早速、地元の、非常に狭い範囲の、集落内の地図を描いて、そこに地下鉄が通っているかのように、色鉛筆を駆使して、線を引き、交差点には勝手に駅を設置して「うわ〜おもしれい〜」と、ひとり興奮して嬉しくしていました。

その、色鉛筆による作図は、何度も改訂を重ね、ヒマさえあれば、大学の課題よりも優先的に続けていました。
でも、集落、自分の出身集落の図の範疇からは出なかったので、ハッキリ言って見せる相手もいませんでした。そんな物、見て誰が分かるというのか?何の役に立つと言うのか?東京の図のように、実用性や必要性が全く無い、自己満足、自己陶酔のためだけに描いていたのでした。いや、自分は全然それで困りませんでしたが、世界中、日本、いや、尾道市民の皆さんにも理解できない図、と言うのは、過言ではないですし、また、それで満足していた自分の器の小ささにも、今考えると、寂しさを覚えずにはいられません。

それが、一転したのが、前述の、E社の芸術作品のコンテストを知ってからです。
「こっこれは!」と思った次の瞬間「よし、路線図で行こう」と思い付き、そして、どうしてこうも頭が回ったのか、その瞬発力が今欲しいとこですが「今までの路線図では他の人に通じん。そうじゃ、尾道市にまで、範囲を広げてみよう。尾道はそんなに大きな街じゃないし、結構簡単に作れそうじゃ」と、若干ヨダレを垂らしつつ、算段しました。

その頃には私は結構長じていたので(年齢的に)、パソコンも入手していて、その上、生意気にも「イラレ」と呼ばれるソフトウェアまで買ってました。少しだけ働きましたからね、何の役にも立たなかったけど、給料だけは頂きましたので。
それで、結構簡単に作れそうですねと思いきや、イラレにまだ慣れていなかった事もあって、制作にはかなりの時間を要しました。

主に、バス路線を地下鉄の路線に見立て、バス停を駅に該当させる事により、その作品の分かりやすさを作ろうと企てました、この辺も頭のキレが良いね、今の私にも欲しい。

ところが、同じ尾道の市内とは言え、分からない地名が結構出てくる訳です。読み方など、サッパリ分からない所もありました。一丁、カブに乗って現地調査に行くか?とも考えました。しかし、締切が結構迫っていたので、そこは、少し手抜きですが、バス会社の方の協力を仰ぎました。

尾道市内を走るバス会社は3社あって、その内2社には実際事務所の方に訪問させて頂き、優しく対応をして頂きました。残る1社は、本社が隣の福山市でしたので、電話にて調査にご協力頂きました。その時、電話に出られた若い社員の方がまごついておられたので、電話をベテラン社員さんに代わって頂いたのですが、その代わる時にしわがれた声で「何な、マニアか?」と、発せられたのを、忘れる事ができません。

こうして完成に至った作品を「尾道市営地下鉄」と名付け、E社のコンテストに無事応募しました。この時、変な自信があった感触も、何か忘れられないです。

こうして、夏も終わって、秋が深まり、我が家に新しい子猫を迎え入れて、非常に喜んでいた頃、E社様から分厚い封筒が届き、作品の受賞を知りました。まあ、佳作は固いだろう。と、鼻息も荒く封書を開けてみると、我が図は「入選」で、すなわち、トップ20に入っている事を意味してました。ちょっとビックリして、どうしよう、と思って何回も書類を見ると、東京の青山の辺りで展示会に出しますし、表彰式もしますのでぜひお越しください、パーティもします、とまで書いてあって、ハッキリ言って腰を抜かしました。

ええ、そのために、また上京してきましたが、チョットのぼせすぎていて、あの日の事はよく覚えてないです。でも、今は誰も入らない、実家の子供部屋に、その時の賞状がキチンと飾ってあります。その作品は、受賞後、もちろん受賞した事は伏せながら、地元尾道の人達に多く見て頂き、お褒めの言葉を頂いたので、ああ、作った甲斐がありました、ありがとうございます!ありがとうございます!と、天を仰ぐ事数回でした。

何か、今までの投稿では、うまくいって嬉しかった事ばかり書いていますが、落選してほぞを噛んだ事の方が断然多い事も付記しておかなければならないでしょう。
最後までご拝読ありがとうございます。また、調子に乗って書きます。

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