性物

性についていろいろ考えたこと、今まで沢山あった。

なぜ?なんでだろう?とは常に思ってきた。

性別が二つなのは、三つ以上だとそれぞれが繁殖競争した時、淘汰されて二つが生き残るからだ。

性別が一つの場合は?
カタツムリだとかが、雌雄同体のはずだ。
一つの生物の中に、両方の性を有して、単体で生殖する生き物は、現実に意外といる。

じゃあ人間も両性具有になれば、もっと楽になるんじゃね。

実はそうはいかない。他の両性具有の生物を観察すればわかることで、一つの体に二つの臓器があることで、他の能力に割くエネルギーが減ってしまうこと。両性具有は意外と効率がよくない。人間はそういう生物と比べると、いかにも量って感じだ。生殖の役割を分配することで、効率よく動いて広範囲に行動できる。

人間にも半陰陽(インターセックス)で、はっきりどちらの性器がある、という訳でもない体の人がいるということ。

あと性器があっても、生殖細胞が全くない人もいるわけだ。

人間は手術や薬などにより、故意的に性器を変形したり、生殖細胞を消せる。

性分化疾患で、成長過程の途中で(社会的)性別が変わる人もいる。

病気や事故で性器を摘出した人もいる。

あと薬なしで、元来女性ホルモンが多い男の人、男性ホルモンが多い女の人がいる。

それらにより、トランスジェンダー以外にも、戸籍上性別が違うのに、身体的には同性的ということがあり得る。

ハチのある種では、メスが人間で言う男性の陰茎上の性器を持ってて、その中に卵子を持ってる、オスが人間の女性的な穴の中に精子を持ってる、だからメスがオスそこに挿して吸い出すという形態の生殖になるらしい。
ハイエナのメスの生殖器も特殊で、外見はほぼペニスらしい。

これらの例を含めて、改めて性別について考えると。

私たちが社会的に定義している「性別」というものが、どれだけ人間的主観によるものか分かる。人間社会では身体的に男性的女性的というよりも、その人間に男性器•女性器そのどちらがついてるように見えるかで、戸籍の性別を決めてるように思える。
性を分けることは確かに社会的に活動する上では、重要な役割を果たしていることはわかるが、生物的に生きる単体として見たら、それぞれ個体差があり、それを観察するのは面白い。

生殖能力は、その種の繁忙のためにしかない。

というか、性別も、人間独自の嗜好も、喜怒哀楽、恋愛感情、知性、もその一つの細胞が分裂した恩恵でしかない。

全ては。
この地球の中で、なぜか種を続けようとする動きの副産物でしかない。

宇宙単位で見ると、人間という生物が謎に続いてることに、あんまり意味などない。人間が続くことで何かを成すとか、客観的になれば絶対わからないことは確かで。「何か意味がある」と言うのは、あくまで人間目線の主観的位置付けでしかない。

全ての動物の繁殖が、地球が宇宙の中の軌道に乗ってぐるぐる回ることに繋がってる、役にたつのだと、人間が言い切れるだろうか?
必要のない種は淘汰されるし、地球からしたら、人間なんて、そこまで大事でもないかもしれない。人間になんて迷惑かけられまくりかもしれない。この先、もっといい種があるかもしれないし。
それに宇宙目線からして、地球って必要不可欠かすらわからない。

細胞も、臓器も、人間も、地球も、宇宙も、「必要」とは言い切れない。
なくても、正直いいのかもしれない。意味がないかもしれない。

はっきり言うと、人間が繁殖しようが、廃れようが、絶滅しようが、それはどこかの遠い世界から見たら、クソどーでもいいことかもしれないということ。

しかし、人間は自分たちのしてることに、意義だとか意味があると思い込みたい生物である。繁殖機能が組み込まれた生き物だから、繁殖(または異性と性行為)することが最も素晴らしいと思うのも不思議ではない。他の動物からしたら、受精するかしないかの問題でしかないが、人間はどうも性行為という文化がなんか意味を持ってる。

人間が知性を持って性行為をしている時点で、それはもう文化にはなってる。結果的に受精を目的にしていても、脳みその中に知性がある時点で違う。

知性がなければ、みんな全裸で歩いてそこら辺でしてるだろう。ラブホも、コンドームも、エロ動画も、ローションも、ティッシュも、鍵のついた家や部屋も、というかそこに辿り着くまでの文化全般。知性がない動物だったら、そういう文化がそもそも作れない。性が文化の一つになってるのが、人間の不思議な所だ。

(※なんでもかんでも「文化」と言ってしまうのは極論だ。文化以外の言葉が思いつかなかった。しかし今の私はそう思ってしまった。)

人間が感情なしに快楽目的でしたとしても、する直前まで服を着て、他人に見られない所でして、ちゃんと部屋やホテルを綺麗に片付けると言う時点で、それは文化の中に生きてる人間でしかない。
趣向で外で全裸でしたとして、その直前まで飯を食ったり、運転したり、金を回したり、働いたりと、文化の中で生きてる。風俗も同じだ。性行為をするのために、お金を払って、行為中喋らずとも、支払いで最低限コミュニケーションしてる、ホテルとか部屋にいる時点で、それはもう人間的文化圏内。

どれだけ楽を求め生きても、私たちは結局知性を持ち、文化の中で生きる人間でしかない。人間である限り、文化は切っても切れない関係にある。一人(または複数)でただ快楽を貪れるのも、この部屋を作った、この人間を育てた文化、この社会をつくった経済循環のおかげであり、どれだけ動物的になっても、生きてる限りは人間の範疇の中だ。もし人間がある日、本当の意味で“動物”になれば他の人間に殺されるだけだ。ことわりに反する者は淘汰される、それが動物だ。

動物によっては、出会って数秒数日という世界でしかない。
でも人間は、産むまでも、産むのに数年かかる、よって一対一の方が効率のいい世界。だから、結婚などという制度がある。それは正直、生殖の効率化または組織づくりのためにしかない。

人間は成長が著しいので、知性と時間で文化自体も、倍になって付随してくる。人間が細胞を操作するようになったように、人間が性を操作するようにもなってきた。

同姓同士、生殖機能のない人、トランスジェンダー、半陰陽の人が、性行為をする場合、自慰行為をする場合も、異性間の性行為と全く同じで、
全てが全て文化である。

性行為、性別、体の手術、恋愛、友愛、エロ、下ネタ、
服、髪、毛、部屋、ティッシュ、ゴム、風俗、オナホ、ローション、
金、カミソリ、会計、写真、時計、テレビ、av、

これらは人間独自のものでしかない。
動物はそもそも「ものを持とう」とか思わないのだ。

もはや受精するかしないかという世界では生きていない人間は、
性という社会的文化の中で自身の保存や生殖能力のない人間を淘汰しない、性の多様性を守り、あらゆる可能性に対処できるように無意識に動いてる。一見意味のない行動にも、意味がある。同性愛やトランスジェンダー、または障がいなどを持つ人、性器がない人たちが社会から淘汰されないのも、そこにも必ず何かしらの意義が働くから。全員が全員、この社会発展のための予備軍である。だから、今もこうして生きているのだ。

動物的あり方、人間的あり方、という思想自体、人間の文化の中で作られた考え方でしかない。どうすることが優位で、楽なのか、と無意識のうちに考え生きてるだけでいい動物なのに、後になって客観的になって言語として頭の中で、振り返るというのも人間的行為としか言いようがない。良い、悪い、正しい、正しくないという認知や判断すら、人間的主観でしかない。
知性がある以上、それがもう人間だ。

メタ視点というか、人間は自身に仕組まれた細胞の機能を理解してしまってるし、それを変えようと動いてる時点で、なんか人間はもう生物の範疇を超えてる。むしろ動物でもない、人間でもない。何か違うものになろうとしてるのではないか、と思うほど怖い。いずれは身体を所有しない世界が来るかもしれない、繁殖の全ては人工的に整備され、身体に生殖機能も所有しなくなり、性別もなくなり、そこでラブホもコンドームもエロ動画もなくなるかもしれない。全員が全員、文化や社会に貢献するためだけに働けるようになる。それぞれが人間的文化の中で、心身ともに自由になれる時代が来るのかもしれない。

なぜ人間だけが生物の器を超えて、文明や文化を発展させられたのかと考えると、とても不思議だが、とても興味深い。

意思を持って行動して、自分の死すら認識できる、自分の細胞一つ一つの名前、機能、手を加えて変えられる能力を持っている生き物。生殖を回避して、快楽だけを手に入れられるほどの環境を知性で作り上げた生き物。

なんと不思議な生き物だろう。

私たちは細胞分裂して動いてる動物でしかないのに。
元々、人間は一個の核が分裂した生き物。他の動物も同じで、どっかの一つの細胞が何故か急に分裂し始めたことから、起源が始まる。

その核が分裂して、倍になって、形を形成した。細胞を、臓器を、体を作った。全ては核から来ている。

なのに人間という生き物は、いつのまにか、形成された脳や体で、核すら見つけ、操作できるようになった。これは核からしたら、恐ろしいことじゃないか。

核が生物を作ってきたのに、いつかは生物の方が核を人工的に作る時代になった。面白おかしい世界になってきた。

知識を持つと、見える世界が変わって面白い。

自分の中の今までの常識がぶっ壊れて、新しい世界が簡単に見れる時代に生まれて案外良かったのかもしれない。知りたいことをすぐ検索して、情報を大量摂取できるし、より高度な内容が求められる時代。厳しずぎるが、面白い。

染色体検査をしても、戸籍を調べても、一生自分、またはみんなの性別がわからないのかもしれない。と、考えられるようになってから、少し心持ちが楽になったし、面白い。

自分は今ここにいて、集団の中で生きているという確証なんてない。それはただの人間的意味づけでしかないし、辛いことがあっても病気になっても、それが本当だという結論は、本来永遠につかないものだ。

目で見える事実を結果として捉えるのは、ある意味人間的正しさ。

その「事実」が、新たに塗り替えられることが、今まで科学や歴史でたくさんあった。

それは自分自身にも言えることで、自分が自分である確証なんて、一生見つからないと思う。自分に関わる全ての要素は、言葉によって断定できるものじゃない。一生、結果や意味がつくわけないのだ。

そう思うと、少し生きやすくなった。