「緋色と赤の距離 ―アーサー・コナン・ドイル」  石上 三登志

【そしたら、なんとそれがハメットにつながってしまった!】

 本日は「赤」と「黒」の距離についてお話したい。
 「赤」はダシール・ハメットの『赤い収穫』、「黒」は黒澤明監督作品の映画『用心棒』のことをそれぞれ指している。言うまでもなく『用心棒』の原作は『赤い収穫』であるから、この二作の距離は、「緋色」(=『緋色の研究』アーサー・コナン・ドイル)と「赤」(=『赤い収穫』)よりも近いはずだ。
 だが、この両者の距離は「緋色と赤の距離」以上に隔たっている。
 『赤い収穫』において、コンチネンタル・オプを街の〝浄化〟を駆り立てる理由は説明されない。無論、オプ自身はポイズンヴィルの毒気にあてられたとか何とかそれらしい言い訳はするけれども、極端な客観描写の前にすれば殆ど意味をなさない(少なくともここでは深く立ち入るつもりはない)。
 一方、『用心棒』の桑畑三十郎には、宿場町を〝浄化〟する理由がある。それは〝親子〟だ。一番わかりやすいのは、農夫小平一家の三人を逃がしてやるシーンだろう。せっかく逃がしてやろうとしているのに三人が土下座をして礼を述べていると「早く逃げろ!」と激昂する。三十郎が感情を顕にする数少ないシーンの一つである。そもそも、三十郎がこの町を訪れるのも、冒頭で井戸を借りた農家にグレた息子を帰してやるためであろうし(だから、最終決戦では彼を殺さない)、最後の決闘に挑むのもおりんの死とそれにとりすがる与一郎、という光景を目の当たりにしたからだろう。どうやら三十郎の根底には〝親子〟というものに対する何かしら執着があるらしい。そうやって考えてみると、めし屋の親父との関係が擬似親子的に見えなくもないし、彼が「名前なんてどうだって良いじゃねぇか」というのも単に素性を明かしたくないためというより、もっと根源的な理由、例えば自分の名に対する嫌悪―親から授かったものに対する拒否感なのか、授からなかったことに対する忌避感なのかは知るべくもないが―とも考えられなくもない。無論、これは空想だが。
 しかし、確実にいえることは『用心棒』が〝親子〟という主題をちらつかせることによって、〝ヒューマニズム〟を獲得しているという事実である。そして、『赤い収穫』が〝ヒューマニズム〟から遥か彼方に位置していることは言うまでもないだろう。
 そういえば、『緋色の研究』の犯人の動機は、自らの婚約者とその父親、つまりは〝親子〟を殺されたこと―婚約者は病死だが―に対する復讐だった。
 なんとドイルにつながってしまった!
 …とは流石いえないけれども、『用心棒』のラスト近くで三十郎が最後に卯之助の長々とした死に付き合ってやる姿は、『緋色の研究』の第二部で犯人の話を傾聴するホームズの姿に重なってみえる。少なくとも、ヒーローと〝ヒューマニズム〟が近い位置にいることを以て、「黒」と「緋色」の距離が存外に近いことは証明できたのではないか。

★石上三登志(一九三九―二〇一二)…電通でCM制作を務める傍ら、『キネマ旬報』等に映画評を寄稿。SF映画やミステリ映画に造詣が深く、今年一月には、原書房からミステリ映画評論を纏めた『石上三登志スクラップブック』が刊行。
初出…『創元推理21』(東京創元社)二〇〇一年夏(五月)号
底本…『名探偵たちのユートピア』(東京創元社)二〇〇七年一月

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