「本格ミステリvsファンタジー」 殊能 将之

【だからトリックって、実はイマジネイティヴなんです】

 孔田多紀氏の『立ち読み会会報誌 第一号』の第一章「『ハサミ男』を読む」の中に《「ライオス王」とは、オイディプス王の父親のことなのだが、その意味がどうもよくわからない》とあるのが、わからない。
 『ハサミ男』の中で「ライオス王」というワードが登場するのは、ラスト近くの次の台詞である。

《「いかん、ライオス王のお出ましだ。ぼくはあいつが苦手でね。退散するよ」》

 これは「わたし」の病室に父親が来室するシーンで、「わたし」のもう一つの人格〈医師〉が言った台詞だ。
 氏は、《「(…)おまえが母さんのことで、まだこだわりを持っているなら」という台詞はかなり意味深》であることに気付き、《「わたし」は「パパ」を父親として認知できない》ということにまで迫っている―さらにいえば、《ロス・マクドナルド的「家庭の悲劇」》まで想起している―のに、この台詞の意味するところのあと一歩というところで止まってしまっている。もしかしたら、あまりにも歴然としたことーあるいは凡庸な解釈ーだから敢えて触れなかったのだろうか?というような持って回った言い方はやめよう。
 この台詞は顕かに『ハサミ男』がソポクレスの「オイディプス王」及び「コロノスのオイディプス」を下敷きにしていることを示唆している。
 「オイディプス王」は言うまでもなく、実の父ライオスを殺め、実の母イオカステと契ったオイディプスの悲劇的な物語である。この関係を『ハサミ男』に代入してみると、

オイディプス〈男〉→ 「わたし」〈女〉
イオカステ〈女〉 → 父親(医師)〈男〉
ライオス〈男〉  → 母親〈女〉

という構図が出来上がる。この構図に沿って解釈してみれば《「わたし」は「パパ」を父親として認知できない》理由も朧げに浮かび上がって来はしまいか。そして《「(…)おまえが母さんのことで、まだこだわりを持っているなら」》という台詞も、意味深どころかかなりセクシャルな、そして不穏な響きを持って聞こえて来はしまいか。例えば、オイディプスが実母イオカステと契ったように、「わたし」も父親と関係を持ってしまったのではないか―と。また、オイディプスが実父ライオスを殺めたように、「わたし」も実母を殺めたのではないか―と。
 少し想像をたくましくしすぎたかもしれない。しかし、殊能自身が小谷真理との対談「本格ミステリvsファンタジー」の中で、次のように述べている。

《殊能 あれは要するに自殺願望なんです。彼女は、自分に似た女の子を殺して廻っている》

 少女を殺して廻ることが「わたし」の自殺の〝代替〟行為であるとするなら、「わたし」の自殺行為は〈医師〉=父親抹殺の〝代替〟行為と読むことが出来よう。ここでもう一度、『立ち読み会会報誌 第一号』から重要な一節を引く。

《互いに異なる複数の視野(「世界の分裂」)があり、その視野の切り返しを通じて、すれ違い=非対称性が明らかになっていく》

 「オイディプス王」において、オイディプスの実母イオカステは息子が事の真相を知ったことを知り自殺する。しかし『ハサミ男』において、「わたし」は父親を抹殺することが出来ない。ここに「オイディプス王」と『ハサミ男』の《非対称性》が露わになっている。

《殊能 最も対極にあるものだと思っているわけです。乱歩と横溝もそれと同じで、似ているんだけれど、全然違う。乱歩はイメージそのものに惹かれてしまう。横溝はイメージを捨象した構造を面白いという。横溝を本格ミステリーだというのはそういうことです》

 対談中のこの言葉をそのまま受け取れば、殊能は横溝タイプと言い得る。だが、ここまで見て来たとおり『ハサミ男』は「オイディプス王」のイメージを捨象していない。むしろ、《非対称》を成すことによって、そのイメージをより際立たせている。となると、「わたし」と父親が病室で会話するー台詞はないけれどー次のシーンはどのような意味合いを持つか。

《誰かが医師そっくりの男に返事をしていた。暗い洞窟の奥から響いてくるような、うつろな声だった。その声はわたしのものでも、医師のものでもなかった》

 「コロノスのオイディプス」において、オイディプスはコロノスの地中深く飲み込まれていく。《暗い洞窟の奥から響いてくるような、うつろな声》はオイディプス(=「わたし」)の地中からの声と考えることはできないか。つまり「わたし」は地中へと去っていったのではないか。そして、

《わたしはやっとひとりになれた》

 『ハサミ男』はやっと安永知夏に戻ったのだ(詳細は『立ち読み会会報誌』の参照を願うが、安永知夏=「わたし」ではない)。そして「コロノスのオイディプス」の構図を転用するならば、安永知夏はオイディプスの娘アンティゴネに相当するはずだ。だとすると、あの意味深なラストの意味も解ってくるような気がする。「コロノスのオイディプス」の結末がアンティゴネの〝嘆き〟で幕を閉じるならば、《非対称》を描く『ハサミ男』の結末は安永知夏の〝喜び〟を表したものであるはずだー。
 いや、やはり想像をたくましくしすぎたのかもしれない。

★殊能将之(一九六四―二〇一三)…一九九九年『ハサミ男』でメフィスト賞を受賞し、衝撃的なデビューを飾る。以後、寡作ながら才気溢れる作品を発表していたが、二〇一三年死去。
初出・底本…『ユリイカ』(青土社)一九九九年一二月号

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