第八巻 掌編百撰

はじめに

 《和翠の図書館》第八巻は「掌編百撰」をお送りする。

 ※

 読んで字の如く「掌編」を「百」作品「撰」集した巻ということになるが、「ショート・ショート」ではなく「掌編」、「選」ではなく「撰」、という字句をそれぞれ採用したのには、多少なりともわけがあるつもりでいる。
 といっても、後者に関しては単純である。いま私の手元にある辞書に拠ると「撰」という一字には「詩文を選び編集する」という意味があるようで―そういえば、和歌集も「勅撰」だ―「小説」と「詩文」の半ばに位置する「掌編」という文芸形態にこの字をあてるのは誠に当然だという気がしたからだ(事実、この巻では詩も一編撰出されている)。ただし、これは私の気持ちの半分で、残り半分は私の気障であり、見栄である。
 一方、「掌編」という表記の〝撰出〟にはより漠然とした、それでいながらより強固な理由があるのだが、それを文章で説明するのはなかなかに難しい。無論、「短いこと」というのは絶対条件である。しかし、その「短さ」もある程度、線引きをせねばならないだろう。なにせ原稿用紙三千枚の「掌編」というのはありえないのだから。では、何枚までが「掌編」だといえるのだろうか? その手がかりとして『都筑道夫のミステリイ指南』の第二章「怪奇小説を読む」の手を借りてみる。

《以前、日本のショート・ショートのアンソロジーを作ろうとしたときに、いったいどのくらいの長さを想定したらよいだろうということが、問題になりました。そのアンソロジー作ろうとしたのは日本推理作家協会でありますけれども、そのとき、私と星新一さんとその他にふたり、計四人が選者になったわけであります。最初の編集会議のときに、長さの基準をどこにおくかの話がありまして、日本でショート・ショートを広めたのは、星と都筑なのだから、このふたりに決めさせようということになりました。
 当時、私も星さんも、しばしば二十枚の小説というのを雑誌から注文されていました。だいたいにおいて、短篇小説というのは、二十枚、三十枚、五十枚といった具合に、ストーリイの考え方というのは違ってくるわけですが、ふたりとも、二十枚の小説を考えるときは、五枚のショート・ショートを考えるときと同じ考え方をするという点で意見が一致しまして、ショート・ショートは二十枚まで、という一応の基準を作ったわけです。》

 当然これは《一応》の基準なので、絶対ではない(ちなみに〈ショートショート大賞〉の規定は、原稿用紙十五枚以下)。事実、都筑は次のように続けている。

《(中略)じゃあ、二十一枚ではどうなんだということがあります。二十一枚でもショート・ショートでありうる。二十二枚では?これもショート・ショート。二十三枚は? となりますと、だんだん長くなりまして、三十枚のショート・ショートもありうるわけです。現に、私のショート・ショート集には三十枚の作品も入っております。しかしこれは、二十枚で書くつもりが、延びてしまって三十枚になった。したがって、基本は、ショート・ショートの考え方で書いているわけです。一方、三十枚で、ショート・ショートでない短篇というのもあります。》

 私としてはこの《三十枚で、ショート・ショートでない短篇》、大きく飛躍するならば《五枚で、ショート・ショートでない短篇》こそを「掌編」と呼びたい気がしているが、これは先走った結論なので、ここでは一旦脇に置く。むしろ〝概念〟としてのショート・ショートの定義としては、次の一文の方がよく知られているだろう。

《長篇小説というのは、枝葉が繁った一本の木である。短篇小説というのは、枝葉の繁った木の一本の枝である。そして、ショート・ショートというのは、枝の切り口である。》

 一本の枝にも、様々な太さがあるだろう。この企画では、その様々な太さをある程度許容して選定(剪定?)した。ご理解いただきたい。

 ※

 ついでに選定の基準と範囲も申し添えておく。
 怪奇アンソロジーの古典『異形の白昼』の編者解説で筒井康隆が示した次の基準は、私が架空アンソロジーを編む際に常に脳裏の片隅に留め置くものである。

《一、一作家一作品とすること。
 二、現在第一線で活躍中の作家の作品であること。
 三、出来得る限り、他のアンソロジイに収録されていない作品を選ぶこと。
 四、第三項に抵触しない限り、現代恐怖小説の傑作とされている作品はすべて収録すること。
 五、恐怖小説の、現代における第一人者とされている作家の作品はすべて各一篇ずつ収録すること。
 非常に欲ばったようであるが、しかし右の五項目はいずれも、このアンソロジイを特徴づけるため、編集者自身に加えた制約に過ぎなかった。当然のことながら、いちばんの眼目は何よりも、
 六、怖いこと。
   であり、次いで、
 七、小説としての完成度が高いこと。
 八、現代を感じさせるもの。
   であった。
 あるいはこう換言したほうがいいかもしれない。六、七、八に相当する作品数がたいへん多かったために、一から五までの制限を加えたのである、と。》

 当然、私が今回の企画で重要視したのも《六、七、八》の三点である(ちなみに《六、怖いこと》は《切れ味が鋭いこと》と解釈していただきたい)。
 また、範囲についても同様に『異形の白昼』巻末解説に倣っている。引用ばかりで恐縮だが、次の通り。

《彼女の編んだ「年刊SF傑作選」(The Year`s Best S‐F)を見ると、その収録作品の多彩なことにまず驚かされる。ファンタジイがあり、童話がある。小説だけにとどまっていない。ナンセンス詩がある。文学作品だけにとどまっていない。科学評論がある。活字だけにとどまっていない。マンガまであるのだ。》

 この解説文を念頭に、〝ナンセンス〟であるかどうかはわからないが詩を採った(萩原朔太郎「殺人事件」)し、〝科学評論〟であるかどうかはわからないがそれに近いもの(上野正彦「人を食った話」)も採った。欲を言えばもう少しマンガ(いしいひさいち「廃屋の幽霊」のみ)を採りたかったが、その代わり戯曲(三谷幸喜「そして誰もいなくなりかけた」)やコント脚本(井上ひさし「刑務所の面会室」)、ドラマシナリオ(鮎川哲也「おかめ・ひょっとこ・般若の面」)を採ることができたのでよしとしたい。

 ※

 尚、本巻は全体を十の章に分け、それぞれの章の頭に「解説」を置いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?