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『涼宮ハルヒの直観』谷川流

「局部的リアリズムの誕生」。それでもやはりハルヒはハルヒのままなのだった【72】

 なんといっても「鶴屋さんの挑戦」について語らなければならない。ここで問題となっているのは、我々が「後期クイーン的問題」と名づけた主題である。しかし、私は「鶴屋さんの挑戦」で描かれた主題よりも、「鶴屋さんの挑戦」が開いている回路のほうに強い興味を抱いている。例えば、「鶴屋さんの挑戦」はほとんど言語遊戯/言語実験に近い叙述トリックを扱っているが、この方向を突き詰めていけば倉阪鬼一郎の描く“バカミス”の世界に没入するだろう。無論、「鶴屋さんの挑戦」はその世界までには到達していない。あくまでもそこに至る回路のみが開かれている状態なのである。そして、回路のみ開かれているという状態が、この場合は極めて重要なのだ。

 ここで私は、別役実の「局部的リアリズム」という言葉を思い出す。例えば、別役は甲虫の脚が一本だけを精密に描かれた画像を指し、それを「局部的リアリズム」と呼んだ。無論その画像をいかに拡大しようとも、また何枚も集めようとも、一匹の甲虫にはならない。しかし、脚の先に胴体があり、頭があり、触覚があることを示唆することはできる。むしろ、それらがないことによって、私たちの想像力は活性化されるのである。

 「鶴屋さんの挑戦」は、まさにその「局部的リアリズム」を刺激する装置のように見える。私たちは「鶴屋さんの挑戦」という局部を通して、「後期クイーン的問題」と呼ばれる主題をイメージすることも、言語遊戯/言語実験としてのバカミス的叙述トリックの世界を想像することもできる。すると、涼宮ハルヒというキャラクターさえ、クトゥルフ神話のような怪物か、全知全能のスーパーヒーロー―ちょうど『ウォッチメン』のDr.マンハッタンのような―にすら見えてくる。

 しかし、そうした回路を開きつつも、やはりハルヒはハルヒなのであり、やはりSOS団はSOS団なのだ。ハルヒとSOS団の面々が形作る会話の妙が、このシリーズの大きな魅力の一つであったことに疑いはないが、本作ほどその事実を如実に感じたことはなかった。それは、ちょうど『水曜どうでしょう』が大泉洋ほか3名の会話で成立しているのに似ているし、またクエンティン・タランティーノの諸作においてあらゆる映画的な要素から抜きん出てダイアローグが輝きを放っているのに似ている。つまり、そのダイアローグが私たちを涼宮ハルヒのすぐ傍に繋ぎ止めているのだ。

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