それでも夜は遠くはない

それでも夜は遠くはない         松井 和翠

  【人】

 扉を叩く音がした。

 矢島が「失礼いたします」と言って入ってきた。私が促すと、彼は目の前にあるパイプ椅子に静かに座った。規定により、頭は五分刈り、服装は濃い鼠色の囚人服である。
「気分はどうかな」
「良好です」
 教誨はいつも第一声に苦労する。自分の声がきちんと相手に届いているのか不安になるのだ。これは齢のせいばかりではない。勤め人時代からそうだった。しかし、今日は特に自分が緊張しているのがわかった。痰がからむ。
「そうかい。体調もよいようだね。顔色がいい」
「ありがとうございます」
 矢島の表情は変わらない。眼鏡を掛けていること以外は至って凡庸な顔立ちである。逮捕当時は眉間に深い皺が刻まれていたが、いまではそれも目立たなくなっている。私は痰を切り、続けた。
「作品の方はいかがかな。順調に進んでいるかね」
「はい。良好です」
 彼の言葉はいつも端的だが、この話になると声の強さが増す。数回の教誨を経て、私が学んだことは、囚人には好きな話を好きなだけ話させてやることだった。無論、本当はそれではいけないのだが。
「最近はどのような作品に取り組んでいるのかな。差し支えなければ教えていただきたいのですが」
「… “一”です」
そう言って、彼は中空に「一」と書いた。
「”一”ですか」
「そうです。”一”です」
「なぜ”一”ですか」
 私は素早く問い返した。自分でも驚くべき早さだった。しかし、矢島は気にした様子もなく、一拍置いてからこういった。
「思えば、私はこれまで様々な雑念に振り回されていました。今一度、初歩にかえる必要があると考えたのです」
と答えた。やや顔が紅潮したようだ。矢島は続けた。
「まず、私は”書の真道は楷書にあり”という自分の考えに振り回されていました。そして、それと真っ向から対立する秋庭の考えにも振り回されていました。さらに私を裏切って秋庭にたぶらかされた妻にも振り回されていた。そして、それを面白おかしく騒ぎ立てる世間に」
彼の顔はさらに紅潮してきた。元来赤面症なのである。矢島はさらに続ける。
「しかし、私はいまやっとそれらから解き放たれたのです」
「その結果が”一”ですか」
「はい」
 彼は昂然と答えた。私は抑えきれずに問うた。
「それが、人を殺してまで君が欲したものですか。妻と親友を殺してまで」
彼は何も言わずに、薄暗い光の差す窓のほうに目を向けた。教誨室にある唯一の窓だった。
 私は目を閉じ、思いを馳せた。
 

  【地】

「お久しぶりですねぇ、神父さん」
若槻刑事がだみ声で私に椅子をすすめた。
「お変わりないなぁ、神父さんは」
「いえいえ、棺桶まで後何歩というところですよ。あなたこそ、全く変わらない」
「また、そんなおべんちゃらを。来年で五十九ですよ。もう少しで定年だ。定年がない神
父さんがうらやましい限りですよ。まあまあ、立ち話もなんですから座って、座って」
そういって、若槻刑事は破顔した。背はそれほど大きくない。おそらく一七五センチぐらいしかないだろう。えらの張った四角い顔に、真っ黒に日焼けした肌、その中につくりの  大きい眼と鼻と口が互いに主張しあうように同居している。これぞ刑事、といった面相だ。 ただ、白髪交じりの角刈りと額に載せた老眼鏡が、彼の齢を物語っていた。しかし、眼は出合った頃から変わらずに澄んでいる。
「いやぁ、久しぶりに神父さんに会えてうれしいなぁ。今日はどういう風の吹きまわしで。こんなむさくるしい所に?事前に電話の一本でもくだされば、お迎えにあがりましたのに」
「いやいや、気遣いは無用です。この年になりますと、僅かばかりの距離でも歩かないと、すぐに寝たきりになってしまいますのでな。それに、捜査一課長の貴重な時間を、こんな老いぼれ一人のために使わせるわけにもいきますまい」
「何をおっしゃいますやら。私の時間など、神父さんのためなら喜んで使わせていただきますとも。ちょうど、今は暇ですし。それに、ヤマがあったところで、私はお留守番ですから。なぁ」
そういって、若槻は近くにいた若い刑事に同意を求めた。「は、はい」と思わず、答えてしまった若い刑事は、自分の失策にも気づかず、口をぽかりとあけて、あっけに取られている。あたりを見回すと、他の刑事たちも同じような顔をしてこちらを窺っていた。
「はい、じゃねぇよ。おい、神父さんにお茶を入れてくれ。ほら、お前らも仕事しろ」
「は、はい」と言って、若い刑事は給湯室に走り込んでいった。他の刑事たちも眼を伏せる。なるほど、若槻がこのような顔を見せるのは、彼等にとってなかなか奇異なことであるようだ。来た甲斐があったかもしれない。
「いかがですか、捜査一課長の椅子は」
「いやだなぁ、神父さんまでそんなことを」
快活に笑いながら、若槻は頭を掻いた。
「最近、会う人会う人にそう聞かれるんですよ。よっぽど、俺は出世とは程遠い人間だと思われてたんですね」
「そんなことはありませんよ。私は、あなたはいつか人の上に立つべき人間だと思っていました」
これはお世辞ではない。若槻は鼻の下を掻きながら、照れ臭そうにいった。
「張り合いがあるようでない仕事ですよ、一課長なんて。そりゃ、黙ってても事件は起きますし、現場に出ることだってありますが、普段はこう、ドンと座ってなきゃいけないでしょう?もどかしいですよ。若いやつらに指示は出さなきゃいけない。でも、意見しすぎると嫌な顔をされる。メインでヤマを動かしてるのは、こいつらですからね。まぁ、まずい面でも、立ててやらないといけないじゃないですか」
若い刑事が湯のみを持ってきた。その顔がやや綻んでいる。それに気が付いたかのように若槻は、
「お前、茶托に載せてこいよ。どこにそのまま湯呑だけ持ってくる奴がいるんだよ。バカだな、ほんとに。いいよ、もうお前は。早くこの前の報告書作ってろ」
若い刑事は「すいません、すいません」といいながら、自分の机に逃げ帰っていった。他の刑事たちの口元も心なしか緩んでいるようだった。
「すいませんねぇ」
若槻も、気恥ずかしくなったのか、話題を変えた。
「ところで、今日はどうしたんですか?まさか、本当にお散歩で寄ってくださったわけではないでしょう?」
私は手招きした。若槻はすぐ感づいて、耳を寄せてきた。その耳に私は低い声で、「矢島紀之の事件を担当したのはお宅でしょう」と囁いた。
若槻の顔が、スッと刑事の顔になった。
「あの書道家殺しですね。しかし、あいつはもう……」
「はい、今私が教誨している刑務所におります」
そこで若槻は得心した。彼も声をひそめて
「なるほど。しかし、なぜ神父さんが、そのことを……。まあいいでしょう。ただここでは話しづらいな。場所を変えましょう」

  【天】

 矢島紀双、本名矢島紀之は書道家であった。逮捕当時、三十五才。N大学という地味な大学の中国文学科で教鞭を執りつつ、着実に作品を発表していた彼は「将来を嘱望される若手書道家の一人」といわれていた。事実、その実力は折り紙つきで、日本最高レベルの芸術展であるN展で過去三度の入選を果たしていた。彼の師である片桐双顕先生はこう語る。
「彼はね、端的に言えばあまりにも自分の遣り方に拘りすぎたのですね。まあ頑固な人でしたから」
「拘りすぎたといいますと」
「楷書に、です」
「楷書というと、あの五書体の楷書ですな」
 書道に“楷行草隷篆”という五書体があるということぐらいは知っていたが、書の大家に向かって問う言葉ではなかった。しかし、先生は大した気にした様子もなく
「そうです。楷書というのは、書の基礎と言われております。ですから、小学生でも何でも、書道を初めて習う人はまず楷書からはじめますね。矢島はね、その楷書にたいそう執着しておりましてね」
 双顕先生と私は川沿いを歩いていた。立派に舗装された遊歩道は、我々のような年寄りには非常に助かる。私たちの脇を運動着姿の若者たちが姦しく追い抜いて行った。そして追い抜くときに、私たち二人の姿を横目で眺めていった。その気持ちはよくわかる。フランネルのスーツにソフト帽を被った老人と司祭服で身を固め、杖をつきつき歩いている老人が、二人して河川敷をよたよた歩いていたら、奇異に映るのはやむを得ないだろう。しかし、片桐先生はそんな視線も気にせずに話し続ける。
「彼がN大に入ってきた時、私はまだ学部長でした。AO入試、そのころ盛んに流行った自己推薦というので彼は入学してきました。その時の面接がいまだに忘れられない。顔を真っ赤にしましてね、「自分は楷書を極めたい。現代の”九成宮””蘭亭序”を物したい」なんて言うのですよ。こちらの方が赤面したくなるぐらいでした」
 先生は呵々と笑った。
「率直に申しまして、正気を疑いましたね。今時、大学生が”九成宮”や”蘭亭序”を書いたところで何になりましょう。書かれた当時ならいざ知らず、現代ではまず書道を始めたての子どもらが引き写すお手本以外の意味はないですから。中央の各賞に”九成宮”や”蘭亭序”を書いて応募しても物笑いにしかならんでしょうし。いくら田舎学生とはいえ、それが解らんはずはないのに、と思って首をかしげたものです」
 先生はその当時の困惑を思い起こしてか、苦笑している。
「そのころから、矢島はああいう性格だったのですか」
「ああいう性格でした。神経質。意固地。負けず嫌い。喧嘩っ早く、融通が利かない」
 私も苦笑した。
「この年になると、生徒の顔や名前も憶えるのも一苦労なんですよ。道端で「こんにちは、何の誰某ですー。先生にはお世話になりましたー」などと言われても、もう誰が誰だか分かりゃしません。生徒どころか教授陣も怪しいもんです。恥ずかしながら、そのような有様ですから、顔と名前が一致するのは一握りの人々のみでしてね。しかし、矢島はその一握りに入ってましたよ。あれは忘れようにも忘れられん」
 片桐先生は遠くを見つめるように語った。すでに矢島がこの世の人ではないかのような口ぶりだった。
「特に忘れられないのは、三好先生との一件ですね。三好先生というのは、若い女性の講師でして。うちの大学で”かな”を教えておりました」
 “かな”といわれて、昔、妻が書いていた三行書きの行書を思い出した。一時期、書道教室に通っていたのである。あの時、もっと書道について、妻について、興味を持っておけばよかった。
「具体的にどんな授業をしていたのかは知りませんが、私が聞いたのは三行の散らし書きを授業で取り扱った時の話です。散らし書きというのは、その名の通り、半切に歌や句を三行、散らして書くのですね。三行それぞれの始めと終わりが揃ってはいけない、字が大きな○の中に入るように最初と最後の行は少し傾いでなければいけない等と、取り決めはいくつかありますが、基本的にはどこからどう書くかは、本人の自由です。ですから、書き手のセンスが問われます」
 私も同じことを妻に説明されたに違いない。妻は朗らかに喋る人であったから。しかし、私は何一つ憶えていなかった。胸の奥が疼いた。
「その三行書きの授業で彼は何をしたと思います?定規と分度器を持ってきて、三行を半切のどの位置に、どういう高さ・大きさ・傾きで書けばいいか、計算していたというんですよ」
 片桐先生は高笑いをした。私もそれにあわせて微笑んだ。
「三好先生はふざけていると思ったそうです。当然でしょう。そんなことは、小学生が先生をおちょくるためにやるようなことですから。三好先生は「なにをしてるのですか!」なんて怒鳴りつけたそうです。しかし、矢島はああいう人間ですから、「なぜあなたに怒鳴り付けられなければいけないのですか?私は完璧な作品を書くために必要なことをしているまでです」とやり返したという話です。傑作でしょう?」
「三好先生の心中は穏やかでなかったでしょう」
「授業が終わった足で、私のところに怒鳴りこんできましたよ。「あの生徒はなんだ!」と。えらい剣幕でねぇ。その後にも度々似たようなことがありましたよ。あぁ、今思い出しましたが、三好先生は彼に泣かされたこともありました。授業に少し遅れただけで、彼に説教されたとか。あの時も私のところに来て、たいそう泣きましてね。往生しました」
「彼は時間にはうるさいですからね。お察しします」
 私は心の底からいった。私も三好先生の気持ちはよくわかる。
「しかし、実力は確かなものでした。若造のくせに珍しい枯れた味わいがありました。そういえば三好先生の講座で書いた”かな”の三行書きも結局彼が一番得手でした。専門でもないのにね。そういう意味では、秋庭くんとは好対照でしたな」
 秋庭双網。本名秋庭康則は、殺害当時三十五才。矢島と同い年であった。そして、同じくN大の中国文学科で教鞭を執っていた。ただ、地味な存在であった矢島とは対照的に、その甘いマスクと巧みな話術、独特の書道観から、生前はマスコミの寵児であった。
「秋庭くんはね、偉い傑物でしたよ。あの涼しげな優男が、あんな豪快で妙ちきりんな作をものにするとは、誰も思わなんでしょう」
 確かに秋庭双綱の作品は、豪快で妙ちきりんな代物であったという。
「アバンギルド・ショドウ、でしたか」
「”avant-garde-Shodou”要は”前衛書”のことですよ」
 双顕先生は八十六歳という年齢に似合わぬ、流暢な発音で横文字をいってのけた。私には到底できぬ業である。その感が私の顔に出たのか、
「なに、弟子のしていることですから、言わされることも聞かされることも多くなりました。“門前の翁”みたいなものです」
と、先生は照れ臭そうに弁解した。
「”前衛書”は何も彼に始まった話ではないのです。その昔、“現代書道の父”と呼ばれる比田井天来先生というど偉い人がおりましてね。”書学院”というのを作ったのもこの人です。この人は”臨書”―所謂古典を引き写すことです―を学術的方法論として確立させ、”近代詩文書””少字数書”といった新しい分野も開拓しました。その開拓した分野の一つ、特に代表的なものの一つが”前衛書”です。まあ、完成させたのはご子息の南谷先生でしたけども。面倒見のいいひとでしたよ。私もお金がないときには、よく比田井先生のところで飯をご馳走になりました」
 年寄りの話というのは、意図せずして右往左往する。
「さて、何の話でしたか。あぁ、”前衛書”の話でしたねぇ」
 私は頷いた。
「秋庭くんはね、それは面白い人でした。彼の作品を見たことがありますか?ない?一度ご覧になるとよろしい。細い字をたくさん書き連ねてエッシャーのだまし絵のようにしてみたり、墨象の前に枯れかかった花を置いてみたり、まぁけったいなことをしてました」
「ほう」
 私はふたたび頷きながらも、不思議に思っていた。一見目新しそうに映るその手法は、果たして真に目新しいものなのだろうか。
「特に墨象と花には度肝を抜かれました。墨象というのは、わかりますか?前衛書道の代表的なもののひとつで、ざっくりいうと”文字によらずして書的な線”を描こうという試みの一つです。よく展覧会にいくと何が書いてあるかわからないような、のたくった字があるでしょう? あれを墨象といいます」
 “墨象”は知識として一応知っていたが、私は知らぬふりをして頷くだけにしておいた。
「ある時、彼の個展に呼ばれましてね。私には正直彼の書いてる作品の意味というか意義というかがピンときませんでしたから、それまでは、送られてくる招待状だけいただいて、「はいはい、そのうちそのうち」と、逃げていたんです。ただあの時は、秋庭君が自ら私のところに来ましてね、「先生、今から私の個展に来てください。この後予定が入っていないことは確認済みです。さあ、早く」なんてせっつくんですよ。結局、連れていかれましたよ。弟子の個展に。初めて」
 秋庭という男も、矢島に負けず劣らず強情な性格と見えた。
「で、いざ行ってみたら、もう全ての作品が、何がなにやらです。大きく「魚」と書いた字の上を飛行機が飛んでいたり、びっしり字が書いてあるマネキンを見せられたり、散々でした」
「それは何か意味があるのですか」
「ないない。「此れはなんですか」と問うたら、にやりと笑って「飛び魚です」「耳なし芳一です」ですからね。あきれました」
といって、片桐先生は本当に呆れた顔をした。
「それで、一番奥の部屋に、何が書いてあるのかよくわからん一字が飾ってありましてね。その前に枯れかかった菫が置いてあるんです」
「先生でもわからないということがあるのですか」
 率直な疑問だった。
「それはありますよ。特に我流に崩されるとプロでも判別は難しいのです」
「では、その時先生はどのように判断したのですか」
「隷書・篆書なら形で明らかにわかりますから、もちろん違います。ただ、筆順を感じるから墨象でもなかろう、と。行書か草書と見当をつけて見てみると、何やら上の部分の崩し方が草冠のようでしたし、目の前に菫が置いてあるのだから「菫」を崩したんだろうと考えたのです。それで、「この菫は何で書いたのですか?草ですか?行ですか?」と尋ねたのです。秋庭はなんと答えたと思います?」
「わかりませんねぇ。なんと?」
「まず「これは「菫」ではありません」、ですと」
「では何なんです?」
「「”糞”です」と」
「くそ?」
「左様。”糞”の墨象だそうです。呆れて寸評する気にもなれませんでした」
 まったく、芸術家の考えることは人智を超えている。
「しかし、そんな人が、矢島と本当に仲が良かったのですか。聞くところによると矢島と秋庭は親友だったそうではないですか。私には、互いに相容れないと思うのですが」
 片桐先生は少し考え込むようにして
「それが、あの二人は不思議に馬が合いましてね」
といった。
「なぜでしょう」
 先生は腕組みをして、さらに考え込みながら
「一つは、秋庭の性格でしょうか。彼は、皮肉屋で斜に構えてはいましたが、普段は温厚であまり波風を立てない人間でしたから。あと、矢島と同じく理屈屋でね。矢島に議論を吹っ掛けられても、慌てず騒がず、きちんと筋道立てて返答していました。そんな秋庭に、矢島も一目置いているようでしたね」
といった後、思い出したように続けた。
「後は、実力です。秋庭も妙ちきりんなことさえしなければ、腕前は確かでしたから。あすこは、代々書道家の家系でしてね。幼いころから扱かれたんでしょう。N大に入ってきた時から、基礎はしっかりしていましたよ。まあ、だからこそああいう妙なことが許されたのですが」
「というのは?」
 片桐先生は目を細めた。
「”基本があって個性がある”」
「それは……」
 先生はこちらを向いてニコリと笑った。
「これは、矢島が入試面接の時にいった彼の座右の銘でしてね。巧いこと言いよるなぁ、と思い、印象深かった言葉です」
 なるほど。いくら個性があっても、それを支える基本がなければ意味がない、ということか。土台のないところに家は建たぬ、と。
「彼は、基本もろくに会得せずに、自らの手法や知識をひけらかすような書き手やその作品には、先輩・同輩・後輩に限らず、手厳しかったですね。彼の糾弾で書道を諦めた者もおるくらいで。ただ、秋庭だけには彼は一目置いて接していました。秋庭が書の基本を十分に理解し、その過程で実験的な試みをしていると矢島なりに理解していたのでしょう」
 先生の顔に翳が差した。そしてぽつりと、
「それだけに、あの事件が残念でなりません」
といって、下を向いた。
 私と先生は暫く黙って河川敷を歩き続けた。
 そのうちに、堤防の上からひょっこりと顔を出す白いひび割れた建物が見えてきた。
「先生、あれが公民館でしょうか」
 先生は顔を上げると、
「あぁ、あれです、あれです。意外と近いものですね」
と、気分を切り替えるように、明るい声でいった。
私たちは、土手の階段を上り、公民館までゆっくりと歩いた。
公民館の玄関には、「刑務所作業製品展示即売会及び矯正展出張所」の張り紙がしてあった。

  【地】

「さて、なにから話しましょうかね」
 私が取調室に入るのは、三十五年ぶりだった。もっと薄汚く、無機質な部屋だと記憶していたが、ここはきれいに掃き清められ、清潔な部屋である。蛍光灯も明るい。ただ、無機質な感じは三十五年前と変わらない。三十五年前も私は鉄格子の嵌った窓を背にして、若槻刑事と対座したのだ。
「なぜ、この事件について知りたいのか、とは聞かないのですか」
 若槻刑事は分厚い官庁表紙を机の上に置いて、
「是非とも聞きたいところではあります。が、それは後に回した方がいいでしょう。その理由を聞いて、私が心変わりでもしたら、神父さんに申し訳ありませんからね。何から聞きたいですか」
といった。好奇心を抑えるように、あえて事務的な態度を取っている。
「まず、事件の概要で私が知っていることをおさらいさせてください。N大の助教授で書道家でもある矢島紀之が三年前の八月一二日に自らの妻・由美と友人であり同じくN大の助教授で書道家の秋庭康則を、自宅のリビングで刺殺。その後、遺体を風呂場で解体し、富士の樹海に遺棄した。ここまでは間違いありませんね」
 彼は私の言葉を噛みしめるように聞いた後、
「間違いはありませんが、付け加えることが一つ。解体したのは、秋庭の遺体だけ、奥さんの遺体には胸の刺し傷以外に外傷はありませんでした」
「そうでした。凶器は何でしたか」
「刺殺したのは、出刃包丁です。解体に使ったのは金物屋で購入してきた鉈でしたが」
「確か、その鉈で証言に揺らぎが出てきたのでしたね」
 若槻は、私の目を見据えて
「やはり、ご存知でしたか。それを知っているのであれば、事件の概要のほぼすべてもご存じでしょう。わざわざ私に聞くまでもないと思いますが」
「気分を害されたのであれば謝ります」
 私は頭を下げた。
「もうあなたも見当が付いていると思いますが、確かに私も彼の人柄や事件の概要について一通りのことは知っています。ただ、私がいただく資料には、彼のこれまでの経歴や罪状について、必要最低限のことが書いてあるだけなのです。これは必要以上の予断を以て、受刑者に接しないようにするためです。無論、資料は所外に持ち出すことはできません」
 私は一呼吸置いた。若槻はまだ目を離さない。
「ですから、詳細な事件の内容に関しては、実は知らないことの方が多いと思うのです。事実、先ほどの鉈の件だって、なぜいきなり彼が鉈を買ってきて、遺体を切断しようなどと思ったのか、私は知らないのです」
彼はようやく視線を外し、軽く溜息をつくと、
「なぜ遺体を切断したかは、実は我々もよくわかっていないのです。その点に関して、矢島の供述は二転三転しましたからね。順を追ってお話しましょう」
「お願いします」
 おもむろに官庁表紙を開いた。
「三年前の八月十二日、矢島は大学から自宅に午後三時頃に帰宅しました。大学の勤務時間が午後五時までですから、矢島はいつもより二時間早く帰宅したことになります。早退した理由については、風邪気味であったこと、その日は三時以降に講義や会議などの業務がなかったことを、後に供述しています」
 若槻は唇を湿した。
「大学を出たのは何時ですか」
「二時四十分ごろですね。これはN大の職員や警備員が証言していますので間違いありません。N大は玄関を入ってすぐに教務課の窓口があり、正門脇には警備室があります。矢島は毎日出勤時、退勤時に必ずそこの職員や警備員に挨拶をしていくそうです」
「その日も挨拶をしていったわけですね」
「そういうことです。いつもより早い時間だっただけに、よく覚えていました」
 辻褄は合っている。
「続けますよ。三時頃、具体的に言うと三時三分に矢島は自宅マンションに到着しました。その時の姿はマンション入り口の防犯カメラにしっかりと映っています」
「カメラがあるということは、矢島のマンションは、あの、なんといいましたか…横文字の…」
「オートロック式」と苦笑しながら「自動ドアがあって、その前に押しボタンとインターホンがついているヤツです」と大雑把に解説した。
「鍵は?」
「カード式ですね。これくらいの」
そういって、指で四角を作った。
「ああ、テレホンカードのような」
「懐かしいですね」
 若槻は思わず噴き出した。
「もしかして、いまだに使っているのですか」
「携帯電話を持っていませんから。ただ、最近は公衆電話が少なくて困る」
彼が眼を丸くしているのを見て、私は空咳をひとつし、「本題に戻りましょう」といった。
「矢島はそのカードでマンションに入ったわけですね」
「そうです。部屋にもその鍵で入りました」
「部屋は八階の一番奥の角部屋でしたね」
 若槻は資料の頁を繰りながら、
「矢島の住むマンションは十二階建て、一階を除く各階に六部屋ずつ部屋がありましたね。矢島の部屋は、おっしゃる通り八階の一番奥、八〇六号室でした」
「自宅に入ると、見慣れない靴が玄関先にあった。これはおかしいと直感した矢島が気配を殺してリビングに向かうと、まさに秋庭と矢島の妻・由美が抱き合っている最中だった」
 ここで私は一息を入れた。夢中になって話していると、つい呼吸を忘れてしまう。若槻が、説明を引き継ぐ。
「抱き合っているとはいっても、ことに及んでいたというわけではなかったようです。実際に刺し傷は、二人とも着衣を貫通していましたし、それは矢島自身も認めていますから。話が前後しますが、矢島は二人のその姿を見て、頭に血が上り、キッチンに包丁を取りに行った。そして、その包丁を持ったままリビングに突入、ブスリ、という流れです」
「順番は」
「まず秋庭を背後から一刺し。そのあと逃れようとするところを追いかけて、正面から腹部をもう一刺し。倒れたところを馬乗りになり、ここでは五度刺しています。その間、妻の方は腰を抜かして、声一つ立てられなかったそうです。秋庭を始末した後、その様子に気がついた矢島は、何のためらいもなく女房を刺し殺しました。刺された瞬間に、矢島の妻は短い叫び声をあげたそうです。それが、矢島の聞いた、妻の最後の声だった…か」
 そこで、若槻は舌打ちをした。
「誰だ、調書にこんなことを書いた奴は…事実関係だけで十分だと何度いったら…」
「いや、それを書いた刑事さんの気持ちがわかるような気がします」
若槻はハッと顔をあげた。そして、暫く無言の時が流れた。
「神父さん……申し訳なかった……そんなつもりでいったわけじゃあ……」
そういって、若槻は深く頭を下げた。顔をあげると、その表情は三十五年前、あの時の表情と同じだった。苦渋と悔恨と羞恥がないまぜになった、あの顔……。
「私もそのような意味でいったのではありません。気になさらないでください。続けましょう」

  【天】

 「刑務所作業製品展示即売会」は公民館の脇に隣接する体育館で開催されていた。学校や総合体育館ほどに大きくはないが、バスケットコートを二面取れるだけの広さがある。その、広さを埋め尽くすように、様々な物品が並んでいた。大きいものは箪笥や学習机、籐椅子にこたつ、小さいものだと靴やかばん、将棋セットから子供の玩具まで売っている。そして、それら一つ一つが専門店顔負けの完成度を誇っている。
「大したもんですなぁ」
片桐先生がけん玉を手に取って、感嘆している。
「見事なものですね」
私も、ガラガラを手に取り、眺めてみた。ただのガラガラでなく、絵の周りにビーズをあしらった凝った作品である。囚人が作ったものとは到底思われない。
「いっても詮無きこととはいえ、罪を犯す前に、この才能を活かしてほしかったものです」
誰もがそう思い、そう嘆く。当の罪人でさえも。しかし、彼らの多くは、その才能を娑婆に出ると共に忘れてしまうのだった。私は、ガラガラを見つめながら、
「矢島夫妻も、子供がいたら、あんなことにはならなかったのかもしれませんね」
と水を向けた。片桐先生は、けん玉を置くと、聞こえないふりをして、家具コーナーの方へ歩いていった。私もガラガラを置き、先生の後ろを追った。
「矢島の妻は由美さんとおっしゃいましたね。彼女もN大で矢島や秋庭と同期だったと聞きましたが」
「三人とも、私の研究室でした」
先生の声色が固くなった。暗に「それは、もうご存じでしょう」というニュアンスを含んでいるように思えた。しかし、私はここで引き下がるわけにはいかない。
「由美さんという方は、どのような方だったのですか」
「優しい、穏やかな子でしたな。物静かでね。ただ、芸術には向かない子でした」
芸術に向かないとはどういうことだろうか?
「腕がない、才がない、という話ではないのです。腕はありました。才もあったでしょう。しかし彼女には競う心がなかった。芸術は勝ち負けではない。彼女がそう言っていたのを聞いたことがあります。私は、それを聞いて、この子はいけない、と思いましたね。建前としては、そうです。芸術に勝ち負けはないかもしれぬ。しかし、それを信じることと、それに甘えることは、別物です」
「彼女は甘えていたのですか」
先生は大きな箪笥を撫でさすっていた。
「だから、矢島にその甘さを糾弾され、彼女は書の道を自ら絶った」
なるほど、「彼の糾弾で書道を諦めた者」とは、妻・由美その人であったのか。
「由美さんと秋庭の関係についてお教えいただいてもよろしいでしょうか」
やや躊躇った後、片桐先生は、「あまり教え子の私生活にまで踏み込みたくはないのだが…」と前置きをして、
「由美さんはN大を退学した後、秋庭と交際していた、と聞いております。ただ、秋庭はあれだけの男ぶりですから、女性からの人気も高かったでしょうし、実際女癖も悪いところがありましてね。女をひっきりなしにとっかえひっかえしていたようですし、そういう噂は私の耳にも何度か入ってきました。私も何度か、それとなく注意をしたことがあります。由美さんもその餌食になったのでしょう。確か、半年もしないうちに秋庭の浮気が原因で別れたと聞きました」
秋庭はマスコミの寵児となってからも、そういった噂の絶えない男であった。女性アナウンサーや女性タレントとの密会現場が週刊誌を賑わせたのも一度や二度ではなかった。
「その由美さんが、どうしてまた矢島と結婚することに?」
「責任を感じたのでしょう。自分の一言が原因で彼女から書道を奪ってしまった。それがなければ、彼女が秋庭の女性関係で悩まされることもなかった、とね」
しかし、男の勝手な責任感で振り回されるのは、女性にとってはいい迷惑なのではなかろうか。すると、先生がそれをフォローするように、
「まあ、矢島は、それ以前から由美さんに好意を持ってはいましたがね。それは、周りの人間が見ていても明らかでしたから。由美さんに矢島が辛く当たったのも、それの裏返しでしょう」
先生は家具コーナーを眺めるのを止め、体育館出口の方にぶらぶら歩いていった。私もその横に並んだ。
「もしかしたら、秋庭が由美さんに手を出したのも、それがあるからかもしれません。由美さんは、秋庭が好むような女性ではなかったですから。彼はもっと派手な女性が好みでした。週刊誌の表紙を飾るようなね」
体育館を出て、渡り廊下を通り、公民館の中に入った。公民館の会議室では「矯正展」が開催されていた。

  【地】

若槻は静かに頷いた後、説明を続けた。
「妻の方は胸への一刺しで死亡しました。その後、矢島は暫く呆然としていたそうですが、このままではいけないと思い、どうにか死体を処理しようと考えた、と供述しています。そこで一旦二人の死体を浴室まで運び、流れた血はタオルなどを使って拭き取った。血をふき取りながら、死体をどう始末するか考えていそうです。何しろ、矢島の自宅はマンションの八階で、しかもいちばん奥でしょう。死体をそのまま引きずっていけるわけがないし、第一マンション入り口には防犯カメラがある。一心不乱に考えた末、自宅にあったスーツケースに入れて運ぼう、ということに思い当った。矢島は仕事の関係上、中国等を中心に海外へ出張することも珍しくなかったそうです」
「仕事に限らず、修行の一環としてプライベートでも中国に行くことは多かったようです。彼の中国語を、私は何度か聞いたことがあります」
と私はつけ加えた。
「そうですか。ちなみに、スーツケースはLLサイズのものでした。矢島はまずそのケースの中に、妻を入れました。血液が漏れることを恐れ、ゴミ袋をビニールシート代わりに敷き詰めたそうです。後で押収したスーツケースにはガムテープの跡がありましたから、それでゴミ袋をケースの中に固定したのでしょう。そして由美をスーツケースの中に入れた。矢島の妻は小柄でしたが、それでも入れるにはギリギリだったようです。それでもなんとか詰め込んで、車に運んだ」
ここで、若槻は息をついた。
「秋庭の方は」
「スーツケースはもう由美を入れるのに使ってしまったし、たとえ由美をスーツケースから出して、もう一度空のスーツケースを部屋に持ってきたところで、秋庭の体は到底入りきらない。彼は身長が一八二センチもありましたから。そこで、体を切断することにしたと」
「鉈を買いに出かけたわけですね。なぜ鉈だったのでしょう」
「最初の供述では、必ずしも鉈が欲しかったわけではない、と。近くの金物屋に行ったらたまたま鉈が一本だけ売っていたそうです。かなり値が張ったようですが、この際そんなことは言っていられない。すぐさま購入して、矢島は自宅に引き返しました」
「この後の部分は報道されていることと大した変りはありませんか」
「えぇ、自宅に引き返した矢島は浴室で、秋庭の体を切断しました。首、左右の手を肩から、左右の足は付け根からそれぞれ切断し、それぞれをゴミ袋に入れました。解体から袋詰め、清掃までたっぷり二時間かかっています。そして、それを車まで運び、F山の樹海まで遺棄しに行きました」
「この間、目撃者はいなかったのですか」
若槻は再び頁を繰りながら
「妻の遺体が入ったスーツケースを車まで運ぶ様子と鉈を買いに行くときに、それぞれマンションの住人に目撃されています。スーツケースを運ぶのを目撃されたのが十五時三十一分、鉈を買いに行くのを目撃されたのが十六時二分です。前者は同じマンションに住む主婦が一階で矢島とすれ違っています。ちょうど買い物帰りだったようですね。後者は、なんとエレベーターで矢島と一緒になっています。六十二歳の老人でゴミ捨てにいくために下りのエレベーターに乗ったところ、矢島と一緒になったそうです。この二名に関しては、これ以外事件に関係はありません。その後、金物屋に着いたのが同三十分ジャスト。これは金物屋の主人の証言で明らか。部屋に引き返すときには、特に目撃者はありませんでしたが、ゴミ袋を車まで運ぶ様子、積み込む様子、それを乗せて発車する様子は、それぞれ多数の人間によって目撃されています。ちょうど勤め人や学生の帰宅時刻と重なる時間だったようですね。証言を統合すると発車した時間はちょうど十九時です」
若槻はここまで一気に話して、大きなため息を吐いた。
「F山の山麓まではどれくらいかかるのですか」
「二時間弱といったところでしょうか。矢島の供述だと二時間十五分かかったということです。法定速度は守った、と強弁していましたよ」
若槻はあきれたような顔つきだ。私も苦笑した。
「苦労させられたんですよ、神父さん。私が供述を取ったわけではないですが、矢島の供述を取った若い奴らは、青い顔をして取調室を出てきましたからね。どっちが被疑者かわかりゃしない」
「だいぶ、神経質な性格ですものね」
若槻は、またため息を吐いて、
「いや、供述自体ははっきりしているんですよ。むしろ細かすぎるぐらいで。何時何分になにをしたか、どのようにしたかってことを完璧に憶えているんです。だから調書自体は作りやすい。でも、その話が微に入り細に穿つんです。しかも、それを自分の思う通りに話さないと気が済まないんですな、彼は」
「で、機嫌を損ねると一切話さない」
矢島の性格は、私もよく知っていた。若槻の目に同士に対する憐れみが宿った。
「そちらでも変わりませんか」
「最近はだいぶ落ち着きましたが、最初の幾度かは、まあ凄まじいものでした。あすこですと、刑務官に対する返事と自分の氏名・番号以外はほとんど声を出す機会がありませんから、教誨にいらっしゃると、火がついたように喋り出しましてね。どちらが教誨を受けているのかわからなくなりました」
私はその時の矢島の姿を思い出した。入室してきた時の異様に険しい表情。平凡といっていい目鼻立ちを圧する、額に刻まれた皺。なんの迷いもなくまっすぐとこちらを見つめる目。始めは、素直にこちらの問いかけに答えていたが、私が「あなたの今思っていることをお話しなさい」というと、現代書道や書道界に対する不満が奔流の如く溢れだした。その声量と、気迫。堪り兼ねて、外にいた刑務官が、矢島を連れ立てていったのだった。私の教誨師経験の中でも稀なことであり、この年になって私は少し自信を失ったものだ。それと同時に、あの性格なら、死体を切り刻んでもおかしくない、などと恥知らずな考えすら抱いて、自分を慰めた。
「死体の遺棄に関しても、微に入り細に穿っていたでしょう」
「勿論。二十時二十分にF山山麓に到着し、登山入口脇の駐車場に駐車、まずスーツケースを持って、山麓の林の中で死体遺棄に適当な場所を探して歩いたそうです。遺棄場所を見つけたのが、二十時四二分。場所は山麓入口から1.5キロほど離れた林の中でした。死体を遺棄し、スーツケースは車に持ち帰っています。そのあと車まで戻ります。車に戻った時間が同五八分。二一時一〇分に秋庭のバラバラ遺体が入ったゴミ袋を持って、妻を捨てた同じ地点に袋ごと遺棄。遺棄時間は同二六分。ですから、遺棄地点まで二往復していることになります。同三十分に駐車場を出発し、日付が変わった翌日の0時5分に自宅マンションに到着しています。少し帰宅が遅れたのは、途中で高速道路のSAに停まって、コーヒーを買ったからだそうです。こんな細かい時間を全部覚えているんですよ」
「この間の目撃者は」
「いませんね。F山山麓の樹海は自殺の名所でもありますから、自治体から自殺防止支援員が毎晩派遣されているのですが、この時間は駐車場や矢島が死体を遺棄した場所とは、別の見回りルートだったらしく、出会っていません。まあ運がよかったんでしょう」
「しかし、秋庭と矢島の妻の遺体を見つけたのは、その自殺防止支援員の方たちだったのでしょう」
「ですね。翌日の午前五時、早朝の見回りで発見しています。時間には細かいくせに、犯行や隠蔽工作は杜撰でしたね。その日の正午には、我々は彼の身柄を押さえ、家宅捜索に入りました。血は洗い流してありましたが、凶器はそっくりそのまま残ってましたよ」
若槻はやや嘲るようにいった。私は腕組みをした。
「そうなのです。まさにそこなのですよ。あれだけ、時間に細かい神経質な人間が、こんなにも杜撰な犯行をしている。そこが不思議なのです。しかも、発作的な犯行ならともかく、計画的な犯行なのですよ、これは」

  【天】

会議室の中には、陶芸、彫刻、絵画、工芸品、民芸品のようなものから、人の上背くらいはあるオブジェまで、様々な作品が所狭しと陳列されていた。書作品は奥の方に飾られているのが、見えた。会場には私たち二人のほかは誰もいなかった。
作品は、素人目にも稚拙とわかるものがほとんどである。しかし、素人特有の力強さや作品に対する純粋さが感じられ、私はむしろプロの作品より好ましいとさえ思った。
「矢島は、刑務所で書道の講師もしていたそうですね」
こういった刑務所内での作品制作の場合は専門の講師を呼ぶのが常だ。矢島は、二十五歳からその講師の仕事を引き受けていたという。
「彼には、最も水の合った仕事でしたでしょう。所内での指導は、規則も厳しく取り決めてあったと聞きますし、規則を守るということにかけて彼の右に出る者はおりませんでしたからね。それに彼の厳しい教え方は、大学生や書道塾の子供たちより、囚人にこそぴったりでしたから。実際に彼の指導によって、磨かれた囚人もいたようです」
「私にも、N展で入選してもおかしくない生徒がいる、といっておりました。ただ、死刑囚ですけれども。もしかしたら、その囚人の作品もここに展示してあるかもしれませんね。矢島の作品と共に」
「そうですな」
先生は気のない返事をした後で、
「おぉ、これは見事な作品ですなぁ」
と、無造作に飾ってある油絵を褒めた。”新開地の月”という題が付されたその作品は、広い原っぱと暗い空、そこにぽっかりと浮かんだ月を描いただけの質素な風景画だった。原っぱが緑というより、泥のような色で塗り固められている。対照的に空は淡白な蒼で、そこに浮かぶ月もほとんど真っ白であった。
「この原っぱがいいですな。何度も何度も塗りこんだのでしょう。盛り上がりを見ればわかります」
私も近づいてみてみると、確かに原っぱの部分だけが、紙から異様に盛り上がっている。
「おそらくこの方は、この原っぱに全力を注いだのでしょうね。自分が作品に取り組めるわずかな時間のほとんどをこの原っぱに注いだかもしれない。しかし、私はそれでいいと思います。自分の作品をつくるというのはそういうことですから」
先生は感慨深げにいった。
「仰る通りです。限られた時間の中で、作品を紡ぎだすと尊さを感じました」
自分でも、白々しいと感じる言葉だった。しかし、先生は気にした様子もなく、鷹揚に頷いた。
「ちょうど、前島敬太郎君の作品のような尊さですね」
先生の表情が一瞬で固くなった。私は気づかないふりをして続けた。
「彼も、ほぼ全身不随というハンディを背負いながら、素晴らしい作品をものにしましたね。そういえば、以前から、伺おうと思っておったのですが、書道家からみて彼の作品というのはどれほどのレベルにあるものなのですか?書道史に残るものなのですか?」
なんとぶしつけな質問だろう。しかし、後に引くわけにはいかないのだ。
「書道史に残る作品かと聞かれれば、「否」でしょう」
「やはり稚拙な小手先芸にすぎないと」
それは矢島が前島敬太郎の作品に対する評言だった。
「いや、それは違うでしょう。筆を口に咥えて、多くの人々に美しいと思わせるのですから、才能がないとはいえません。それに小手先芸でも、芸は芸です。ただ、書道史に残るか、聞かれれば「否」というだけです」
片桐先生はここにきて、初めて私の眼を見据えた。
「ただ勘違いしないでいただきたいのは、前島君の作品はあくまで前島君が書いたという意義があって、あそこまで大衆に支持されたのです。四肢麻痺の中学生の少年が、口に筆を咥えて作品を書く。そして、その傍らで母親が付き添い、ここはこうしなさい、ああしなさいと助け船を出す。それも含めて一つの作品です」
片桐先生は苦しそうに続ける。
「ただ、一作品として評価を受ける場合は、そうはいきません。作品の力、技術やセンスだけでなく、作品が形作られた背景をも、鑑賞者に伝えなければならない。背景はあくまでも背景ですから、前景にはなりえないのです。矢島はそこが解っていなかった」
先生は決然といった。
「ですから、矢島の考えは間違っています」
矢島は、四肢麻痺の少年書道家の作品がどれほど稚拙なものか、欺瞞に満ちたものかを糾弾したのだった。矢島は、前島敬太郎の作品を「基礎なっていない書道風の落書き」と評し、「母親ぐるみのお涙頂戴ショー」と厳しく糾弾したのだった。「前島敬太郎は母親の傀儡、いや玩具にすぎない」とまで……。そして、それが一つの悲劇を招いた……。
「あれはやりすぎでした。その点に関しては、私も彼を直接呼び出して注意しましたよ。ちょうどN展の直前でしたから。そんなことに関わりあっている時間などなかろう、と。ただ、私の注意をもう手遅れではありましたが……」
私と先生は、”新開地の月”の前から離れ、書の展示コーナーに向かった。
「私もね前島君には一度お目にかかったことがあるのです。澄んだ目をした少年でした。何かこう悟ったようなね。私も正直言うと、あの子の力に疑念を抱いている時期があったのです。しかし、そんな自分が浅はかに思えましたな。あの子はあの子なりに懸命に作品を書き、そして生きてきたのでしょう。何も大きな賞を得る、書道史に名を残すことだけが書の道ではない。惜しいことをしました」
書道コーナーには、半紙に四字熟語を書いただけという素朴なものから、書道展で展示されていてもおかしくないような大作までがずらりと並んでいた。私はその中から、お目当ての作品を早々と見つけた。
「先生、これですよ。矢島が指導した生徒が書いた作品です。N展で入選してもおかしくないという」
長い紙に大きく漢詩をつづった作品である。
「どれどれ」
先生は「ほう」と小さく感嘆の声を上げた。
「杜甫誌ですか。なかなかの腕前ですな。N展入選はちと厳しいが、鍛えれば、いいところまで行くような気がします」
そして、いくつかの字の一角目を指して、
「始筆の具合が、まさに矢島の筆遣いですな。彼が教えた生徒だとひと目でわかります」
と懐かしむようにいった。
「なるほど、今すぐN展は厳しいですか。しかし、刑務所に入るまで筆を握ったことがない人間をここまで育てるというのは、凄いことですね」
「いや、環境もあるかもしれませんな。この方は死刑囚でしたか、自らの死を待つのみになって、やっと人間的な成長を遂げたのかもしれませんな」
そこで、私は思い出したようにいった。
「そういえば、秋庭君も、N展で特選に入る前に自殺騒動を起こしたという噂は本当ですか」
先生は、軽く驚いた後、皮肉な表情で「神父さんは何でもご存じですな」といった。
「確かに、秋庭はN展の半年前に自殺騒動を起こしました。幸い発見が早かったおかげで、一命は取り留めましたが。どうやら、自らの進むべき道を彼は彼なりに迷っていたらしい」
再び先生の顔に翳が差した。
「今思うと、秋庭は、矢島が羨ましかったのではないでしょうか。自らの信念を貫き、自らの道を颯爽と歩んでいく、矢島が」
私は三人の弟子を亡くしたこの師に対して、あまりにも酷い仕打ちをしているのだと改めて思った。
「自殺騒動の後、秋庭が私の部屋に来ましてね。車いすに乗っていましたよ。青白い顔推していましたが、表情自体は悪くなかったですな。えらく悟ったような顔をしていましてね。お互い、自殺の話には触れませんでした」
私と先生は、どちらからともなく会議室の出口の方へ足を向けていた。二人とも暫く黙っていた。互いの足が重く見えるのは、散歩が足に堪えたためだろうか。
 ふと、片桐先生が足を止めた。一つの作品を片桐先生は凝視している。私は、その作品を見て、今日の目的を思い出した。
「あぁ、それが矢島の作品です」
 すると先生の表情が大きくひび割れた。目は飛び出るほどに見開かれ、唇がわなわなと震えている。
「先生、片桐先生どうしたのですか」
片桐先生は私の問いかけに、暫く答えることができなかった。
矢島の作品は、縦長の条幅紙にただ一字、「一」と書いてあるだけのものだった。

  【地】

「そこに裏がある、そう思って、神父さんはここを訪ねてきたわけですね」
私は、頷いた。理由はそれだけではないが、いうつもりはなかった。
「まず、なぜ計画的な犯行だと判明したのですか?」
「鉈ですよ」
金物屋の線か。
「矢島は、二人を殺害後、鉈を買いに金物屋に行きましたね。ところが、金物屋のおやじに聞くと、事件前日にも矢島はその金物屋を訪れている。しかも、当の鉈を手に取って仔細に眺めていったというんです」
「あきらかに凶器の下見に行っていますね」
「あと、もう一点ありましてね。矢島の部屋には、スーツケースがもう一つあったんですよ」
「妻の遺体を入れたもの以外に?」
「えぇ、しかもそのスーツケースは3Lサイズなんです。書道用品等を入れて運べるように、と特注したものだそうですが、あまりにも大きくて使っていなかったようです」
「ということはつまり……」
「秋庭はそちらのスーツケースになら入るんですよ。切断なんかする必要がなかったんです」
そうだ。そうなのだ。なぜ彼は死体を切断したのか?
「矢島自身は何と言っているのですか?」
「最初は、そのスーツケースの存在を忘れていたと言い張っていましたが、そんなことはありえません。だって、妻を入れたスーツケースと同じ場所にしまってあったのですから。そこを鉈の件と一緒に突くと、あっさり白状しましたよ。計画な犯行だったとね。秋庭を切断したのは、ただひたすらに憎かったからだ、と」
私は考え込んだ。
「神父さん、なにか考えがあるのですか」
「あなたたちの捜査に文句をつけようというのではありませんから、冷静に聞いていただきたいのですが、矢島は本当に秋庭と自分の妻を殺したのでしょうか」
「どういうことです」
「矢島の妻が、秋庭を殺したという可能性はありませんか」
「そして、それを苦に矢島由美は自殺。矢島はそれを庇うためにああいうことをした、と?」
若槻はまっすぐ私の視線をとらえ
「ありえません」
といった。
「なぜなら、矢島由美は秋庭を殺す理由がないからです」
「なぜです?」
「神父さんがいま考えているのは、秋庭が由美を襲ったとか、求めたとか、そういうことでしょう?それはありえません。なぜなら、秋庭には男性器がなかったからです」
私は頭を殴り付けられたような衝撃を受けた。
「秋庭はこの事件の十カ月前に自殺騒動を起こしています。その自殺の方法が、自らの男性器を切り取るという想像を絶するものだったんです。幸い発見が早かったので、一命は取り留めましたが、男性としての機能は失われてしまいました。ただ、男性器が無くなっても、性的な欲求や感情は無くならないことはありますからね。こちらの方でも、裏は取りました。結果、秋庭はその自殺騒動以来、矢島由美を含め、女性とは一切関係を持っていません。ですから、矢島由美を襲ったということも、関係を持ったということも、ありえないのです」
なるほど。それで、秋庭が片桐先生に会いに来たときは、車いすだったのか。
「ではもう一つ。秋庭が矢島由美を殺したという可能性はありませんか?」
「さらにありえませんね。現場に残された凶器や遺品の状態からみて、秋庭が殺された後に、矢島由美が殺されたのは明白な事実です。逆になることはありえません。それについて、逐一説明しましょうか」
私は納得した。
「いえ結構です。ありがとう」
 正午を知らせるチャイムが鳴った。

「本当にご自宅までお送りしますよ。ここから、歩いて帰るなんて、本当に大丈夫なんですか」
 取り調べ室から出ると、ちょうどお昼の時間になっていた。刑事たちは、ぼんやりお弁当を食べながら、天井からぶら下がっているTVを観ていた。
「いえいえ、大丈夫ですよ。これ以上お時間を取らせるわけにはいきませんから」
「でも、これからご自宅まででしょう?私が外すわけにはいかないですが、部下に送らせますよ」
彼らにとっては、今が唯一心休まる時間帯だろう。そこを邪魔しては申し訳ない。
「大丈夫です。少し歩いたら、タクシーを捕まえますから。バスも走っておりますしね」
 そこで、私はふとTVを見上げた。TVではちょうど新法務大臣就任のニュースを報じていた。若槻もそれに気づいて、
「また、大臣変わるのかよ。この前は文部科学大臣でしたっけ。ホントいい加減にしてほしいよなぁ。また政治資金とかいうやつでしょう」
 TV画面に新法務大臣の顔が大写しになる。一線を退いた重鎮や年配議員が配されるのが通例のポストだが、意外にも若々しい顔つきだ。
「うわっ、こいつかよ。よくTVタックルとかに出てきたやつじゃん。あれも反対、これも反対しか言わないやつですよ。こんなのが上に就いたら大変ですよ。ねぇ、神父さん」
「いえ、上が変わろうと、下の者たちがするべきことは変わらないのではないですか」
 私は、静かに答えた。若槻は、徳の何も感じた様子もなく、
「そうですね。上がどんな奴になろうと、俺たちのやることは変わらないですね。悪い奴を捕まえる。そのために部下の尻を叩く。なぁ、そうだろ?」
 若槻は、そう聞かれた若い刑事は「は、はい」といって、米粒を一つ口からこぼした。
「では若槻刑事、私はこれで失礼させていただきます。お元気で」
 そういって私は警察署を辞去した。

  【天】

 
私の息子・敬一郎は矢島紀双に殺されました。
 無論、矢島の妻や秋庭さんのように、直接手を下されたわけではありません。しかし、ある意味では、それよりも卑劣な方法で矢島は息子を、否、私たち親子を屠ったのでございます。
 
矢島は敬一郎の作品を「基礎なっていない書道風の落書き」だといい、私たちの作品を「母親ぐるみのお涙頂戴ショー」だといいました。敬一郎のことを「母親の傀儡であり玩具」だと罵りました。

しかも、その薄汚い言葉を歴史ある書道専門誌に寄稿し、果ては、あの小汚い週刊誌にまで。おかげで、私たち親子は世間様からの心無い誹謗・中傷を受ける羽目になってしまったのでございます。

敬一郎は「傀儡」や「玩具」ではありませぬ。それは、あの子の澄んだ瞳をご覧になればわかることではありませんか。その瞳に、聡明な輝きを見ることがなぜできないのでしょう。

敬一郎は最期にその聡明さを証明するために、自力でベランダから飛び降りてこの世を後にしました。私の大切な敬一郎。敬一郎。

私は世間を許しませぬ。矢島の尻馬に乗った野次馬どもを許しませぬ。しかし、最も許しがたいのは矢島紀之、その人でございます。

神父様。神父様なら、私のお気持ちをよくご理解いただけるでしょう。神父様も三十数年前に、奥様を連続通り魔殺人犯の毒牙によって亡くしているとお聞きしました。私の、愛するものを亡くした、この怒り。哀しみ。これを真にご理解いただけるのは神父様をおいてほかにおりません。

どうか、矢島を殺してください。

殺してください。

殺してください。

  【人】

「私が一番初めに不思議に思ったのは、なぜあなたは死体を切断したのかということです」
 矢島が何も語らないので、私が口火を切った。
「あなたは憎かったからと言っています。確かに、憎い以外に理由が見当たらない。しかし、冷静に考えればわかることですが、死体を切断したところで、何のメリットもないことは誰にだってわかる。私はね、あなたに限ってそのことに気づかないはずはないと思ったのですよ」
 矢島はまだ窓の外を向いたままだ。
「あなたの当日の行動をもう一度おさらいしてみましょうか。ただし、時間の下一桁は切りますから、そのつもりでお聞きください。まず、十四時二十分にあなたは大学を出て、十五時に自宅に着く、二人を殺して由美さんをスーツケースに詰め込んで運びだしたのが十五時三十分、鉈を買いに出たのが十六時、金物屋に着いたのが十六時三十分、帰宅して秋庭を解体し、自宅を出たのが十九時、F山山麓に着いたのが二十時二十分、遺体を遺棄して山麓を出発したのが二十一時三十分、そして自宅に着いたのがほぼ0時です」
 矢島はまだ反応しない。
「まるで、ダイアグラムのようにあなたは動いていますね。確かに計画殺人ですから、これだけ細かく時間を決めるのはある意味では当然のことかもしれない。その準備があったからこそ、僅か三十分で二人を殺し、由美さんをスーツケースに詰め込むことができたのでしょう」
 私は息を継いだ。喉が渇いてきた。
「要するに、あなたこれほど綿密に計画を立てているわけです。時間に関する部分は。そして、それを冷静に遂行している。そのあなたが、目撃者や鉈やスーツケースや死体の切断に気を配らないわけがない」
 聞こえているはずなのに全く反応をしない。強がっているのか。
「あなたは自分の行為を一切隠そうとしていないのです。これでは、私は人を殺しました、これは計画犯罪です、と公言しているようなものですよ」
 私は咳きこんだ。少し呼吸を落ちつけてから、続けた。
「そこまで考えて、私はあることに思い当ったのです。実は、逆なのではないか。あなたは、この事件が計画犯罪であることを知らしめたかったのではないか。つまり、逮捕されたかったのではないか、と」

「先日ね、片桐先生にお会いしてきましたよ」
 矢島の肩がピクリと動いたような気がした。
「あなたと秋庭、そして由美さんについて、一通りお話を伺ってきました」
 矢島が顔をこちらに向けた。
「秋庭は、N展の半年前に、自殺騒動を起こしています。どのように自殺をはかったかはもうご存知ですね。大した度胸です。自分のモノを切り落とすのですから。ただ、秋庭は、それにより、N展で最高賞である特選を勝ち取ることができたともいえる」
 矢島の喉仏が上下した。
「秋庭が、退院後片桐先生のところに顔を出したそうです。その時、彼は悟ったような表情をしていた。彼は、女癖が悪かったそうですね。それが、彼の書の道の障害となっていたと考えるのは、短絡的でしょうか」
 矢島の目が妖しく光った。
「彼は、その煩悩を絶つためにああいう方法をとったのかもしれません。そして、彼はN展の特選を得た」
 ようやく矢島が視線を合わせてきた。負けてはならぬ。
「あなたは焦ったのではないですか。自分は入選止まりなのに、ライバルは一歩先に行ってしまった。なぜ、こんなことになったのか。あなたは、秋庭が煩悶しているときに何をしていたか。それはあなたがいちばんご存じでしょう」
 目を細める。
「あなたは、前島敬一郎君とその母親を糾弾している真っ最中だったのです。そんなことをしている間に、あなたは秋庭に追い越されてしまった。悔しかったでしょうね。しかし、それ以上にあなたを蝕んだのは、自分の、その賤しい心だったのではないですか」
 矢島は目を閉じた。
「自らの正当性を主張したい、N展の特選を得たい、それによって周囲から認められたい。あなたは、そんな賤しい心を自分の中に見つけたはずです。あなたには、それが許せなかった。自分で自分が許せなかったのです」
 これは私の憶測だ。確証はない。しかし、間違いはないだろう。
「しかし、あなたはそこから抜け出すこともできなかった。あなたの周りには、あなたを刺激するものが多すぎた。それはライバルであり、書道を売り物にする者たちであり、書道を全く理解しない者たちであった。それから、逃れるには、この俗世から離れるよりほかにない。しかし、その俗世から離れるにはどうすればよいのか」
 矢島は固く目を閉じている。
「世間の目が、手が、声が届かぬ所へ逃れ去ればいい。例えば、この刑務所に」

「あなたがこの着想を得たのは例の生徒からですね」
 矢島が刑務所で教えていたというあの死刑囚だ。彼は、己の罪を前にして初めて人間的な成長を遂げたのだ。彼の場合、それは、“書”という形で現れた。そして、矢島はそれを目の前で見ていたのだ。“自分も、この地点まで追い詰められれば、もっと素晴らしい作品が書けるかもしれない―”矢島はそう考えたに違いない。
「拍車をかけるように、前島敬太郎君があなたの前に現れた」
 おそらく、矢島は前島敬太郎に対して、嫉妬に近い感情を抱いていたのではないか。外からの声を一顧だにせず、筆を咥え一心不乱に書に向かう少年の姿に。私の胸のポケットの中に入っている手紙が突如重さを増してきたように感じられた。
「そして最後にあなたの前に立ちふさがったのが、親友であり、最大のライバルである秋庭というわけです」
 そこで、矢島の箍が外れたのだ。こんな俗世間とは、別れなければならない。自分は書に人生を捧げなければならない。ただし、半端な罪では、いつか出所できてしまう。それでは、その日を待ち詫びる賤しい自分を作るだけだろう。それではいけない。では――。
「つまり、あなたは”悟り”を得るために死刑囚になったのですね。そのために―罪を重くするために―、罪を重ねたのだ。杜撰な計画殺人も、必要のない死体切断もそのために必要なことだったのですね」

 矢島は目を開けた。その目には、なんの感情も映っていなかった。
 私は、胸の奥底からどす黒いものが、湧き上がってくるのを感じた。
 その目―あの男と同じ目―幾人もの女性の命を奪った―そして私の妻を奪った―あの男の目―罰セネバナラヌ―
 しかし、この男は果たしてその”悟り”を手に入れることができたのか?
 片桐先生はこの男の作品を見て、一体に何を感じたのだ?
 本当にこの男が”悟り”を得たというのか。私が三十五年かかっても手に入れられなかったものを―。
 いや、そんなはずはない。先生のあの驚愕は、これだけの罪を犯して、あの程度の稚拙な作品しかものにできなかった、という驚愕の可能性もあるのだ。
 だが、私にそれを判断するだけの目はない。
 しかし、私は知りたかった。そして、私はそれを知る術を一つだけ持っていた。
 私は、矢島の顔がひび割れることを願って、宣告した。
「あなたは、明日、死刑に処されます」

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