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#112 愚痴を文字にして世界にリリースすることに「もやもや」している今日この頃。

いろんな人のnoteやTwitterを見ていると、私と同じように「愚痴の吐出し」に利用している人が多いと感じる。
それは私自身がその傾向が高いことによって、目についているということかもしれない。

面と向かって直接誰かに言えない言いたくない愚痴を、文字にしSNSで世界にリリースすれば、「その愚痴」が長い間その場所に留まり、誰かの目にとまる。
しかし同時にそれを利用すると、他者の「愚痴」もついつい見てしまう。
その結果「このくらいのことで愚痴るなんて」「この人に比べたら私は恵まれているのかな~」など、その内容によりかえってスッキリするどころか、さらに自分のもやもやが増加することもある。

また、口に出す言葉とは違って文字にする場合は、その内容が自分自身ですぐに確認・訂正できてしまうことにより、表現を緩めてしまったり、読者の存在を意識するあまり本心と少し違う表現を用いてしまうことがあると思う。

もちろん、SNSなど利用せず紙のノートや日記帳に書いておけば、他者に見られる可能性はずっと少なくなるが、そうすると誰かに聞いてほしいという欲求が、夕日や海に向かって叫ぶよりさらに満たされない気がする。

自分の愚痴は共感してほしいが、他者の愚痴は見聞したくはない。

正にこれが私を含め多くの人の本心ではないかと思っている。
他者に対して批判はするが、自分に対しての批判は許容出来ないことは、人として当たり前の感覚だと、私は思っている。

こうして考えれば考えるほど
「愚痴を文字にして世界にリリースする難しさ」
その必然性のなさを感じてしまう。

そして、このようなジレンマを抱えながらも、見知らぬ誰かに自分の心の安定のアシストを期待している自分にもやもやしている。

「嘘でもいいから優しい言葉をかけてほしいのに、他者には優しい言葉をかけることが出来ない。」

このような勝手で傲慢な自分が、世界に愚痴をリリースすることはいかがなものだろうか?ともやもやしていることを書いてみた。


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