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優しい盆栽たち

 ポカポカと暖かい春の陽射しを浴びて、今日も山はのどかな一日を迎えました。もう間もなくお昼だというのに、松ノ木の苗はまだうとうとと眠っていました。そよ風が頬を撫でて、木漏れ日がとても気持ちいいのです。小鳥のさえずりが、まるで子守唄のように聞こえて来るのです。目を覚ませというのが無理な話でした。松ノ木の苗は、夢を見ていました。夢の中で松の木の苗は、太くてたくましい大人の松の木に成長していました。はるか眼下に村の家々がマッチ箱のように小さく見えています。キラキラと日を浴びて鏡のように輝いているのは、鎮守の森の湖に違いありません。雲一つない青空に、今飛び立ったシラサギの羽根は、向かい側の山に着くころにはきっと真っ青に染まってしまうことでしょう。

「きれいだなあ…」

 松の木の苗は思いました。その時です。突然現れた真っ黒な雲が空を覆ったかと思うと、辺りは夜の様な闇に包まれました。ドドドド…ッとものすごい音と一緒に地面が揺れて、

「地震だあ!」

 という叫び声があちこちで起こりました。

 動物たちが逃げ惑います。鳥たちが一斉に飛び立ちました。村の中心がポッと明るくなったのは、きっと火事が起きたのでしょう。松の木の苗は慌てて足に力を入れました。動物のように逃げ出す訳には行きません。倒れないように歯を食いしばるしかないのです。しかし、思ったよりも大きな地震でした。それに、いつ終わるとも分からない長い長い地震でした。疲れ切った根っこが少しずつ浮き始めました。汗びっしょりになって頑張っても、体が次第に傾いて行きます。メリメリッと体中がきしむ音がしました。目の前が真っ暗になりました。

 もうだめだ…。

 思ったとたんに目が覚めました。

 夢か…。

 松の木の苗はほっとしましたが、ほっとしても地面は夢の続きのように揺れています。一人のおじいさんが松の木の苗の根っこを一生懸命スコップで掘っていたのです。

「これはいい松だ。きっといい盆栽になる」

 おじいさんは独り言を言いながら、根っこを掘り起こします。丁寧に丁寧に、たとえヒゲのように細い根っこでも切らさないように気をつけながら、それでも慣れているのか、手際よく仕事が進んで行きます。見る見るうちに松の木の苗の根っこは周囲の土ごと、すっかり掘り起こされてしまいました。軽々とおじいさんに持ち上げられて、生まれて初めて地上を離れた松の木の苗は、不安と恐怖とでガタガタ震えていました。松ノ木の苗にとって、地上を離れると言うことは、魚たちが水のない世界に連れて行かれるのと同じように、そのまま死んでしまうかもしれない大変な出来事なのです。

「おじいさん、ぼくをいったいどうするつもりなの?」

 松の木の苗は、恐る恐る聞いて見ましたが、おじいさんはそれには答えようとせず、ただ目を細めて満足そうに眺めています。そのまなざしが、それは優しそうで、松ノ木の苗は却って気味が悪くなりました。

「こんな優しそうな顔をしていても、きっと怖いおじいさんなんだ…」

 松の木の苗は、とうとう泣き出してしまいました。

「下ろしてよ、おじいさん、ぼくをどこへ連れて行こうっていうの?山に帰してよ、おじいさん」

 涙をポロポロこぼしながら、一生懸命お願いする松の木の苗を袋に入れて、おじいさんは黙って山を降りて行きました。


 小さな植木鉢の中で松ノ木の苗の新しい生活が始まりましたが、それは窮屈でつらい毎日でした。思うように根っこが伸ばせないばかりでなく、ここはとても景色が悪いのです。それに周りはすっかり塀に囲まれていて、あの心地よいそよ風も吹いて来ることはありません。

「こんなところは嫌だよ!山へ帰りたいよう」

 そう言って涙を流す松の木の苗に、

「おい、きみ、そんなに泣かないでよ」

 と声をかけたのは、隣りの鉢のモミジでした。

「泣くな?きみはぼくに泣くなって言うの?こんなときに泣かないでいったいいつ泣けばいいんだい?ぼくは山で幸せに暮らしてたんだ。それが何の理由もなくこんな狭いところに閉じ込められて…これが泣かずにいられると思うのかい?きみは悲しくはないのかい?」

「そりゃあ、ぼくだって悲しかったさ、昔はね。でも今は違う。ここの生活の方が楽しいと思っている。きみだって今にきっとそう考えるようになるよ」

「楽しいだって?」

 松の木の苗はびっくりしたような声を出しました。

「きみはどうかしてるんじゃないのかい?山にいれば、きみはもっと太くて立派なモミジの木になっていたはずだ。それが、こんな小さな植木鉢の中で満足に大きくなることさえできないでいる。それを楽しいだなんて、ああ、ぼくにはきみが分からない」

 不思議がる松の木の苗に、

「それはね…」

 モミジは優しくなだめるように言いました。

「ここにいれば、人を喜ばせてあげられるということなんだよ」

「?」

「いいかい?生まれた山は確かに居心地がいいに決まってる。だけどそれは自分の気分がいいという、ただそれだけのことだろう?でも、ここにいれば、おじいさんを慰めてあげることができる。そして、自分が誰かの役に立っているって感じられるのは、とても素晴らしいことなんだよ」

 もみじがどんなに説明しても無駄でした。今の松の木の苗にとって、おじいさんは、慰めてあげたいどころか、憎んでも憎み足りない人なのです。モミジの気持ちを分からせようとするのが初めから無理な話だったのです。

 何か月か経ちました。毎日ただ泣き暮らすだけの松の木の苗にも、おじいさんのことが少しずつ分かって来ました。おじいさんは、おばあさんを事故で亡くして、遅くなって生まれた一人息子と二人で暮らしていたということ。でもその息子さんは何年か前に戦争に取られて、おじいさんは一人ぽっちになってしまったということ。そして、おじいさんの楽しみは、ときどき思い出したように届けられる息子さんからの手紙を繰り返し読むことだということ。そういうことが分かって来ると、不思議なことに松の木の苗の気持ちは、ほんの少しだけやわらいだような気がします。悲しいのは自分だけではないのです。何の理由もなしに連れ去られたのは、おじいさんの息子さんも同じことだったのです。

「それに比べれば、ぼくはまだましかも知れない…」

 松の木の苗は思いました。

 少なくともここには殺し合いはありません。窮屈な植木鉢の中にも、それなりの平和はあるのです。こうしている間も、遠い知らない外国で敵の弾に当たって死んでいるかも知れない息子さんのことを思うと、おじいさんはきっと盆栽いじりでもしていなければ、気が狂ってしまいそうなのでしょう。松ノ木の苗はおじいさんがとても可哀想になって来ました。モミジが言ったように、おじいさんを慰めてあげようとまでは思いませんでしたが、おじいさんを許してもいいと思うようになっていたのです。


  夏になりました。

 草も木もすっかり枯らしてしまうほどの晴天が続きましたが、おじいさんは日に一度、郵便受けを覗くことと、盆栽の世話をすることだけは欠かしたことがありません。いつの間にか松の木の苗は、おじいさんがやって来て、水をかけたり虫を取ったりしてくれるのを心待ちにするようになりました。でもその日は少し様子が違っていました。

「暑いなあ…。早く水が欲しいなあ…」

 そう思っている松の木の苗のところへ近づいて来たおじいさんは、ハサミとジョウロの代わりに、長い針金を持っています。

「どうするの?その針金でいったい何をしようというの?」

 心配そうに尋ねる松の木の苗の体を、

「さあ、いい枝ぶりにしてやるぞ」

 と、独り言を言いながら、おじいさんはぐるぐる巻きにし始めたのです。

「やめて!痛いよう、そんなに枝を曲げたら折れてしまう。ねえ、やめてよ!」

 松の木の苗は悲鳴を上げました。もしもそのとき郵便屋さんが来なければ、体にはすっかり針金が巻きつけられて、松ノ木の苗は気絶していたかも知れません。待ちに待った息子さんからの手紙が届いたのでしょう。

「郵便!」

 という声に、おじいさんは針金をその場に放り出し、まるで子供のように小走りに走って行きました。その様子があまりにも嬉しそうで、松ノ木の苗もモミジも思わず顔を見合わせて微笑んでしまったくらいです。ところが何が起こったというのでしょう。やって来たのは郵便屋さんではありません。郵便!と聞こえたのはおじいさんの空耳で、玄関には役場の人が紙切れを持って立っているのです。その紙切れに目を通したおじいさんは、そのとたん、がっくりと地面に膝を突きました。体が震えています。大粒の涙が後から後から頬を伝って零れ落ちます。声にならない泣き声が、おじいさんの悲しみの深さを表していました。松ノ木の苗にもモミジにも、おじいさんの涙の理由はすぐに察しがつきました。戦死…という二文字で、おじいさんはたった今、大切な一人息子を失ったのです。一枚の小さな紙切れで、とうとうおじいさんは本当に一人ぽっちになってしまったのです。こんなひどいことってあるのでしょうか。いいえ、こんなひどいことがあっていいのでしょうか。焼けつくような真夏の太陽の下で、モミジも松の木の苗も喉が渇いていることさえ忘れていました。おじいさんの悲しみが痛いほど伝わって来ます。

「こんないいおじいさんを、これほど悲しませるなんて…間違ってる…何かが間違ってるんだ!」

 たとえようのない憤りが頭の中を駆け巡ります。

「おじいさんを慰めてあげたい」

 そのとき、松ノ木の苗は初めて心からそう思っていたのです。

 あれからもう何度目の夏になるでしょう。すっかり歳を取ったおじいさんは、今日も黙々と盆栽の手入れをしています。松の木の苗も今では見違えるほど立派になりました。

「どうだい?今でもきみは山へ帰りたいと思うかい?」

 いたずらっぽくモミジが聞くと、

「とんでもない」

 松の木は真剣な顔で答えます。

「自分が誰かの役に立っていると感じられるのは素晴らしいことだと思うよ」

 枝を曲げ、幹をくねらせて、松の木もモミジもおじいさんを喜ばせようと一生懸命でした。

 もしあなたの家にも盆栽があれば…どうか心を込めて世話をしてあげて下さい。優しい盆栽たちはきっと不自然な格好をして、あなたを楽しませてくれることでしょう。けれど、夜はできるだけそっとしておいてあげましょう。盆栽たちだって、夜の間ぐらいは枝を下し幹を伸ばして、のんびりとくつろいでいるに違いないのですから。

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