人間は周りの環境に流される。


人間は周りの環境に流される。

ある特定の環境下で、固定された人間関係の中で生きていると、あたかもその環境における常識が世界の真実であるかのような錯覚に陥ることがある。

これについて考えるときに避けて通れない記憶が一つある。高校時代の部活だ。
ある種独裁者のような顧問の下で週に六回の練習に励んでいた。数か月に一回ほどある大会に出ることのできるメンバーは、顧問の裁量によって決められる。
基本的には実力順に決められるが、彼がそれ以上に重視したものは「忠誠心」だ。
意味の分からない声出しの文化についていくことのできた者、彼の機嫌取りができた者、波風立たせず生きていくことができた者が選ばれる。試合に出場したい無垢な高校生は彼に対する疑問を持ちながらもそこでの常識に従うしかなく、次第に彼の色に染まっていく。自分も例外ではなかった。
何度も彼の理不尽な激高に心を病み、機嫌取りに苦心し、時に周囲と協力し時に周囲と争った。一時は彼に気に入られる時期もあったが、最終的には彼の眼鏡には適わなかった。

当時は劣等感や嫉妬にさいなまれ、もはや何を呪えばいいかもわからない状態であった。
しかし、今だからわかることがある。自分は洗脳されていた。新しい価値観に出会う機会の少ない高校生だ。等しく洗脳されている仲間と共に固定されきった環境下におかれていたらそうなるのも無理はないだろう。人間がなんのきっかけもなく変わることができるはずがない。
あれから月日が流れ、様々な価値観を吸収した今だからこそわかる。本当は自分にはいくつもの選択肢があったのだ。
なにくそと燃え、有無を言わせないほど上手くなってやろうと本気で部活に取り組む選択肢。早々に部活をやめて他のことに精を出す選択肢。声を挙げ、顧問の理不尽に立ち向かう選択肢。
何故周りに流されるのではなく、不平をこぼしながらダラダラと時間を無駄にするのではなく、こういった思い切った決断ができなかったんだろう。

人は周囲の環境に自然と合わせてしまう生き物だ。
家族といるとき、バイト先にいるとき、大学のサークル活動をしているとき、海外の友人グループといるとき。すべてのコミュニティーにはそれぞれの環境があり、思考停止状態でいるとその環境の平均値のような人間になっていく。

問題は、自分が描いている自分像と周囲の人間の平均値が全く一致していないことだ。娯楽の方法、お金の使い方、人生のとらえ方、挑戦に対する価値観、全て自分は違うはずなのだ。常にユニークな人間でありたいと思っている自分だからこそ多少の差は出せているのかもしれない。しかし、結局自分は周囲の常識を自分の常識として、意識的にも無意識的にもとらえてしまっている。周囲の価値観で動き、考えることが心地よいのだ。

わかっている。自分が本当に尊敬する人間や近い価値観を共有する人達を自分にとっての「環境」にしたほうが、自分にとっての理想状態を当たり前にすることができるということが。

ただ、環境を変えるのは難しい。覚悟が必要だ。ある意味では、それまでの自分との決別だ。なんとなく安住していた場所からの巣立ち、古い殻からの脱皮だ。新しい自分になるための習慣づくりをし、マインドセットを持たなければならないのだ。

しかし、それが難しい。本当に自分自身がそれを望んでいるのかどうかもわからなくなるときがある。

だからこそ常に疑い続けることが重要だ。何が自分にとって正しくて、何が不必要で、何を大事にするべきか。自分があたりまえに「あたりまえ」だと思っていたものを疑うことが重要だ。周囲の環境を俯瞰し、疑い続けることが重要だ。
そしてその瞬間の自分にとっての最適解を常に探求し続け、時々にあわせた最もポジティブな回答をしていくべきなのだ。

きっとこの過程の中で、多くのものを諦めることになる。時間は有限だ。すべてを選ぶことはできない。
きっとその取捨選択の一つ一つは痛みを伴う。それは自分がそれまでに大事にしてきたものやことと決別することを意味するからだ。

でも、慣れないといけない。

疑い続けること。

巣立つ覚悟を持つこと。

決別の痛みに慣れること。

きっと、今の自分に必要なことだ。

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