見出し画像

生き方|人生の映画監督は今日も私だ

(2018年1月15日執筆)

人の一生とは一本の映画のようなものだ、と常々考えている。「映画」という形式にこだわる必要はなく、例えば「朝ドラ」でもいいし、「小説」でも良い。生まれてから死ぬまでを描いてさえいれば、どの人生も均しく、ひとつの作品として残っていく。

私たちはみんな、自分の人生の主人公だ。もちろん一人きりで成り立つ人生などはなく、例えば地下牢に幽閉されるような一人きりの人生だったとしても、その壁の向こう側には必ず誰かの存在がある。「誰かの存在」は連鎖して、一人ひとりの人生は絡み合い、やがて世界となる。時間は永久に流れ続けるが、再生され続けるフィルムのどこかとどこかを切り取ると、それは時代と呼ばれるものになる。

人の数だけ人生がある。おびただしい数の記録の中には、時々なんらかのインパクトを伴うものがあり、そういったものは選ばれて、物語や史実として形にされる。それが名作として残ったりすると、主人公は、やれ立派な人だとか、可哀想な人だとか、私は好きとか、嫌いとか、いろいろ言われたりするけど、選ばれし彼らと私たちは本質的なところでは何も変わらない。

ただ、この地球に、生きていた/生きているのだ。

人生が映画だとするならば、主役を務めるのも自分、監督を務めるのも自分だ。筋書きは用意されたものを辿らないといけないのかもしれないが、たとえば一杯のお茶を飲むシーンで、薄暗い喫茶店で紫煙にまみれるのか、太陽の降り注ぐテラスで体を温めるのかくらいは監督が決めても良いだろう。

キャスティングだってそうである。友人、付き合う人、結婚する人。そういった人生の核となる登場人物ほど、自分自身の意志で決めることが出来る。エキストラまでは手が回らなくとも、主要なキャストを選べるのなら、もう十分すぎるほど贅沢な権限を与えられている。

人生は選択の連続だ。たとえば映画のワンシーン。主人公が落ち込んで歩く帰り道、カメラのアングルが少し上向きだっただけで、茜色に輝く夕焼けが見えただとか、昔懐かしい人に出会えただとか、歩道に靴下が片方落ちていて笑ってしまっただとか、そういう想定外の出来ごとがフレームに入ってきたりするものだ。

そう考えると、人生も悪くないなって、そう思う。

いろいろあるよ、いろいろある。

だけど、それでも、この街やこの世界のどこかには、お腹を抱えて笑っている人たちがいて、産まれたての赤ん坊の鳴き声が清らかに響き、愛を目で語り合う人たちがいて、人知れず咲き誇る花々や、心地よさげに腹を撫でられる動物たちが存在しているのだから。 

それらは今も起きているのだから!

HAPPY LUCKY LOVE SMILE PEACE DREAM !! (アンミカさんが寝る前に唱えている言葉)💞