私にとっての軽い日記(誰かにとっての軽い読み物)

ちょっと本でも読んでみるかと思うと、生来の真面目な性分からかしっかりした重たい作品を選んでしまうことが多い。しかし読み始めると、諸般の事情によりどうも意識が朦朧として頭に入ってこない。ならば最初から軽い作品を選べばいいのだろうが「よし、読むぞ!」と意気込んでしまって自分からハードルを上げてしまうので困ったものだ。

書くのでも同じことが起きる。「よし、書くぞ!」と意気込んでしっかりとした文章を書こうとするのだが、一身上の都合よりどうも意識が朦朧として上手くまとめることができない。

ならば最初から軽いものを書けばいいのだろうが、なにぶん根が無駄に真面目なもので肩の力を抜いて取り組むのがどうにも難しい。

しかしだ。自分にとって「軽い文章」を読むことが本当のところで必要なように、誰かにとっても「軽い文章」が必要なことはあるだろうし、ならば私が「軽い文章」を書くことにも意味があるのかもしれない。そう思って筆を(スマホ)を取った次第である。

noteのようなプラットフォームには「軽い文章」がたくさんあるのが良いところだと思う。私も軽いものが読みたい時にnoteを開くことが多い。「軽そうだな」と思って読んでみたら意外と面白くて読み耽ってしまう時もある。「軽い(しかし、しっかりと面白い)」ものが作れれば、それは一つの他者貢献にもなる気がする(私にとって軽い読み物がそうであるように)。が、他者貢献だなんていちいち考えていたらそれこそ軽い読み物なんて作れなさそうだから、難しいところだ。

ところで先ほどから「諸般の事情により」とか「一身上の都合により」とか書いているけど、これらは最近気に入っているフレーズである。普通、企業とかが公の場で使う言い回しであり一般個人が使うことはないけど、だからこそ一般個人が使うと「止むに止まれぬ事情があるのだな……」と触れてはいけない雰囲気が醸し出されて都合が良い。一般個人が日記の範疇で「色々あって」とか「ちょっと事情があって」とか書くと、プライベートを想像されてしまう余地や「どうしたの?」と聞かれてしまう隙があるが、「諸般の事情により」とまで言われると、もうこれは「ノータッチでお願いします」「いちいち説明するのが大変」という意思表示になるので便利この上ない。何よりユーモアがあって良い。

近頃自分のプライベートの話を書くことに限界を感じていて、代わりに架空の物語を空想してはメモに書き留めている。今のところ頭の中に物語が三本あるのだけれど、それを全て書ききるには諸般の事情により身体と脳がついてこないのでもどかしいところだ。自分の頭の中で文章をタイピングすることはできるので、脳内で考えていることを出力する装置ができれば便利なのにと思う。あと50年ぐらいしたらできるかもしれないので期待したいところだ。もしくは架空の物語として、そういう世界の話を書いても面白いかもしれない。

諸般の事情生活を始めた一年前よりは、幾らか身体が楽になったので少しずつ本や漫画を読むようになった。読んでいるのはエッセイや漫画で、小説はもともと苦手なのと諸般の事情により頭を使うので読んでいない。

この一年間ずっと実家(それも自分の部屋のみ)にいるからか、無意識下で記憶が勝手にどんどん過去へとさかのぼっているようだ。一年前までそんなことなかったのに、月日を重ねるごとに小中学校の頃の夢をよく見るようになった。卒業以来会っていない、顔も名前も忘れていたような同級生が次々夢に登場してくるのだ。こんなことは三十歳になるまでなかったので、目が覚めると「誰やっけ!?なんで!?」と動揺する。おそらく現在のラプンツェル生活にはあまりにも外部からの情報がないため、脳みそがネタ切れを起こして過去の記憶を掘り起こしているのだろう。おまけに実家にいるから、実家=記憶の源は幼少期、ということになるのかと思われる。「場所と記憶はリンクするのか?」という実証実験を日々行なっているようなものだ。最も幼少期にロクなことがなかったので、思い出したくもないことを思い出して普通に嫌な気分になるのだが、まあ何度も夢に見るうちにそれにも慣れてきたし、これは何らかの「許し」の作業が深層心理で行われている過程の表れなのかもしれない。人を憎んでいてもいいことなど一つもないので、「許せるようになるならなんぼでも夢に見たろうやないか」という気持ちにもなってきた。

で、話が逸れたが、最近は本や漫画を読んでいて、「原点回帰」をテーマに幼少期に好きだった作家の作品を集めている。さくらももこ、萩尾望都、坂田靖子、高野文子、天才柳沢教授の生活、動物のお医者さん、大島弓子など。自分の中でのブームは短期間で移り変わっているけど、ここ数日のお気に入りは坂田靖子さんの漫画である。坂田さんの漫画は(作品にもよるけど)ほのぼのしていてユーモアがあり、おまけにファンタジー性があるので、読みやすいし、優しくて楽しい気持ちになる。絵も(デフォルメされた作風の時は)線が太くて情報が研ぎ澄まされていて、洗練された可愛らしさがあると思う。こういった漫画は子供の時に家にあったので、わけもわからずなんとなく読んでいたのだけど、大人になって読み返してみるとその面白さに驚く。自分が文章を書くようになったから、というのもあるかもしれない。ファンタジー性の強い作品を読むと、頭の中がどこか遠くの違う星に飛んで行くみたいで、外部刺激ゼロの生活が潤って行く感じがする。これが「想像の翼を広げる」というやつなのだろうか。

諸般の事情により人と会話するということももう一年やっていないので、それに必要な身体機能が失われてきた感がある。健康な頃には気づいていなかったけど(気づくはずもない)、会話というのは「①自分の頭の中で物を考える」「②発話する」「③相手の声を聞き取る」「④内容を理解する」という四つの工程をいっぺんにやるので相当高度な身体活動である。家族とでも会話のキャッチボールをすると割とすぐに意識が朦朧とするし、家族以外の普段会わない人と話したら数分後には寝込んでしまうだろう。

私は諸般の事情により文章を音声入力で書いているので、①と②までは同時にできるけど、それも文節ごとに区切って喋りながらゆっくりやっているので、やっぱり会話はなかなかハードルが高い。昨日は四ヶ月ぶりにラジオを録音したけど、絶えず喋り続けるというのはなかなか大変なものだった(ラジオでは五秒でも黙ると変な感じになる)。とはいえ「話す」「息を吸う」「話す」「息を吸う」という身体活動の繰り返しの練習にはなりそうなので、録音の一時停止を行いつつ、(絶対に無理はしないように気をつけながら)たまにラジオもやっていければいいなと思う。はたしてそれが面白いのかと言われると疑問だけど、話せる時間が増えるようになれば願ってもないことだし、そもそも私は冗談を言うために生きているような女なので、一つでも冗談を言って人を笑わせることが出来ればそんな嬉しいことはない。会話という双方向のコミュニケーションはまだまだ難しいけど、ラジオという一方向の発信方法なら出切るし、もしも聞いてくれる人がいたらそれは双方向のコミュニケーションになる気がするので、聞いてくれる人がいたら嬉しいです(聞いてくれている人、ありがとうございます)。

さて、「軽く書く」と思っていながら結局重く書いてしまった気がするが、これも私の性分の一つなので仕方がない。少なくとも、最初のとっかかりだけでも書くハードルが低くなったので良しとしよう。そしてこの私が(意識的にでも)軽く書いた文章が、誰かにとっての「軽い読み物」になればいいな、と思いながらこの文章を投稿する。

HAPPY LUCKY LOVE SMILE PEACE DREAM !! (アンミカさんが寝る前に唱えている言葉)💞