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『ひまつぶ新聞』創刊の想い 〜「ひま」であることを活かして〜

この『ひまつぶ新聞』は、いつもどおりの「ひま」な午後、窓ガラスの向こうに揺れる庭の木々を眺めていて、ふと「ひまな人たち向けの新聞をつくったら面白いだろうな」と考えつき、そのまま転がるようにしてスタートした試みです。ところが読者の方がちらほら増えるのを見るにつれ、なにか「よいもの」をお届けできたらいいな、と考えるようになりました。

やはり紙の臨場感にはかないませんが、新聞というかたちあるものに乗って、皆さんのもとへと「よいもの」が届く。そんな理想には夢があります。私のもとから世界各地へと広がる配達ルートが地球儀の上に見えるようで、心が弾みます。

「ひま」であることは、特に大人にとってはなかなかくるしい立場です。せかせかした世の中において、子どもや学校生徒ならまだしも、立派に成人した大人が「ひま」というのは、かなしいかな "見くびられる" こともあると思います。

とはいえ、ただ「ひま」といっても、人にはそれぞれ事情があるものです。想像の余地を残しておくために、事情の種類をここで挙げ連ねることはしませんが、自らが求めていないにしろ、いるにしろ、堂々と胸を張って「ひま」を宣言するのは、勇気がいることでありましょう。

そもそも「ひま」は悪いことなのか、恥ずべきことなのか、というと、ものごとはそう単純に善悪に二分できるものではないにせよ、悪いこととも思えません。というより、「ひま」は "どのように使うか" で、いかようにも転ぶものなのではないでしょうか。

「ひま」を活かすも殺すも、使う人次第です。もしもこの世に悪い「ひま」があったとしたら、それは使う人の使い方がよいものではなかったから。良いひまも悪いひまもあって、どうしたって悪いひまの先にある結果の方が目についてしまうから、なにか悪いことをする人がいたときに「どうせ "ヒマ" なんだろう」と、まるで「ひま」全体が悪いことのように言われてしまうのではないでしょうか。

私はいま、大きな「ひま」の時間の流れの中にいます。 "立派な大人" として、滅多に経験できることではありません。であれば、この手の中にある膨大な時間を私はよいものに使いたい。この一つの人生経験に理由があろうとなかろうと、 "天から落ちてきた幸運" とでも有意義に捉えて、充実した「ひま」を過ごしたい。そう考えています。

『ひまつぶ新聞』にとってなにが「よいもの」なのか、まだはっきりとはわかりませんが、読者の方々が「ひま」なときに読んで、少なくとも心が喜ぶようなものを、1部1部、ポストに投函するような気持ちでお届けできればと思います。



HAPPY LUCKY LOVE SMILE PEACE DREAM !! (アンミカさんが寝る前に唱えている言葉)💞