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今治、夏の思い出。

お盆明けの朝、外を歩くと涼しい風が吹いてて、うっわーーーーーーーとなった。秋の一番風はメランコリック凝縮されてムショーに涙を誘う。無条件に泣ける日は、秋が始まる日。毎年かちっとやってくる。(だけど、そんなこと嘘みたいに残暑が厳しくて嫌になる今日。)

そんな秋の始まりにふと思ったことは、ちゃんと意識的に人の話に耳を傾けるっていうのはいいなあってこと。それから議論できる相手がいるのは幸せだってこと。ヒバリと今治で聞いた西村佳哲さんの話は、それぞれの人にそれぞれの届き方で、うまいことその人に脚色されてじんわりと染み渡ったのではないかと思っている。

西村さんが書いた本のタイトルに「自分の仕事をつくる」というのがある。私はかつてそのタイトルにぐっときたし、今日に至るまでそんなことを考えながら過ごしている。だけど、じゃあどうして私はそうしてるんだろうって、ぼんやりとした正体を掴むことができずにいた。その輪郭がはっきりした、というのが、今回何よりも自分にとって嬉しかった出来事だ。

働くことに固執するのは、自分が何者でもないことの不安もあるけれど、それよりも関わりたい人や事象と出会ってしまった時に身軽に動ける自分でありたいからだ。そういうのは大体予期せぬ時にやってくるから、自分を構成しているあれこれについて考えて、整頓して自分の中でコーディネートしておかないと。そこで出来た余白でようやく、誰かの余白や関わりしろ、豊かな欠損へ手を伸ばしていくことができる。私は自分に余白がほしいのだ。西村さんは自分の違和感と放置しない、その人を構成する思想や主義、人との関わり方みたいなあれこれが働き方に影響している。だから働き方研究というより、その人が何をどう感じているか、そういうことを聞くようになった、と確かこんなことを言ってた、と思う。そうそう、私にとって働くは生きることに近い。

私は”かすがい”になりたいんだなって、境界線をどこまでグレーにできるかってことに挑戦しているのだと、気づいた。というより、そう思う輪郭がくっきりと見えて、それを肯定する自分と出会えた。

人の話を聞いただけの二日間。だけど、そういう日がピカピカの夏の思い出として残ってくれたりする。秋を越えるに十分の英気。


2018年08月26日

「サウダーヂな夜」という変わったカフェバーで創刊された「週刊私自身」がいつの間にか私の代名詞。岡山でひっそりといつも自分のことばかり書いてます。